" それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。
「わが父よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"
マタイの福音書 26章39節
「杯」ということばは、聖書の中では神の憤りを象徴することばとして使われています。では神の憤りがイエス様の上にあったということなのでしょうか。もちろんそうではありません。
この杯・・、それは神に背くすべての人の上にある神の憤りの杯なんですね。それをイエス様が受けられるということなんです。
神の御子であるイエス様が、父の憤りの杯を受け、よみに下ろうとしているのです。よみとは、死んだ者が行くところです。それは父から切り離されるということです。
御子が、父の憤りの杯を飲み干す・・。そこにイエス様の「死ぬほどの悲しみ」(38節) がありました。
しかし御子であるイエス様は、この祈りの最後に父の望みの方を選び取られるんですね。・・あなたが望まれるままになさってください・・と。
父は散ってしまった「失われた羊たち」を再びご自分のもとに帰らせる・・それが目的で御子を地上に送られたのです。
それで御子イエス様は、死ぬほどの悲しみの中で、この恐れもあり、激しい痛みと苦しみの杯を受け取るという「父の望み」を選び取りますという祈りをされたというわけです。
父の望みとは、御子を十字架にかけ、死んでよみにくだらせ、三日目によみがえらせ、この御子を人々が受け取ることのできる「救い」とすることでした。
十字架は私たちの罪のためのあがないです。それによって私たちのすべての罪は赦され、この御子によって私たちは古い自分に死に、死を超えた永遠のいのちが与えられるのです。
ひとり子を十字架にかけるという、まさに心が張り裂けんばかりのことを通して、父なる神は私たちへの愛をお示しになったんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)