" すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"
マタイの福音書 27章25~26節
ピラトが「この人の血について私には責任がない」と言ったのに対し、民は「その人の血は、私たちや子どもたちの上に。」と答えます。
耳を疑うような言葉です。
イエスを死刑にすることの責任は、自分だけでなく、自分の子孫に及んでも良いというのです。
イスラエルの民は常に、神に背き、神を怒らせた結果、神のさばきを目の当たりにし、そしてもう一度神のもとに帰る・・これを何度も何度も繰り返しています。
そして彼等は到頭、神が最後に送られたキリストであるイエスを拒んで、その血の責任は私たちの上にあっても良い・・と言ってしまうのです。
それでも神は、この特別な民イスラエルを決して見放すことはしないと言われているんですね。
詩編にはこのように書かれています。
まことに主はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。(94:14)
しかし残念なことに、このまことの神のもとに居続けようとする者はいつも「少数の者たち」でした。
イエス様は言われました。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイの福音22:14)
そしてこれは、私たちにも当てはめることができるわけです。
この少数の者たちは、自分の意思で、神のもとに立つことを選んだ人たちなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)