" そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。
リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。"
使徒の働き 16章13~14節
パウロは、マケドニア人がここに来て助けてくれるように懇願しているという幻を見ます。それで一行はマケドニアのピリピまで来ました。今日の箇所は、そのはじめのところです。
リディアはユダヤの教えを信じ「神を敬う人」でした。
主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた・・とあります。
クリスチャンが信仰を持った経緯を聞くと、それは実に様々で、文字通り十人十色です。
型どおりの手続きを踏んだから、神のものとされた・・ということではないのです。
クリスチャンになる条件は「信仰による」と言われているとおり、その人の資質や、良心や行いを問うものではなく、イエス・キリストを救い主として信じたという、その事実だけが問われるんですね。
しかもその信じた経緯も、神が働いたとしか思えないことが実に多いのです。
人が信じてみようかなと思うその時・・実は神がすでにその人に働きかけておられるんですね。
私たちは基本が神に逆らっている「罪人」です。
その人が神の方に向き直って、信じてみようかなと思う・・。
これが実に奇跡なんです。神のみわざなんです。
これは主がなさることなんですね。
主なる神が「主権者」なのです。
あとは人がそれに応答して神の方に一歩踏み出すか・・。
それが私たちの側の領域なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)