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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

" イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
 雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。
 旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。”
 出エジプト記 40章36~38節

 さあ、幕屋の準備も整い、いよいよこれから主と契約を結んだ民としての大移動が始まるわけです。

 幕屋が完成して、祭司と幕屋に関わるすべての部材に油そそぎが行われ、そのすべてが清められたとき,雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた・・とあります。(34節)
 そしてこの雲はずっとこの幕屋とともにあり、この旅を導く存在ともなるわけです。
 
 雲が幕屋から上らない限り、民は決して動くことはありませんでした。
 そして旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった・・(38節)。
 これが出エジプト記の最後のことばです。

 このことからわかることは、この旅路は主がそのすべてのタイミングを決めて民を導かれたということです。
 それはまさに私たちの信仰生活そのものを見るようです。

 主と共に歩み始めた信仰生活の旅は、すべてのことにおいて神がその合図をされ、そこではじめて新しい一歩を踏み出す・・。

 主の雲が上がったとき・・それが新しい出発をせよという合図です。
 それは、もうそこにはとどまらなくてもいいのだよという合図であるわけです。

 私たちの信仰生活において、雲がとどまるとき・・それは動くことができず、状況も何も変わらないというそのとき・・私たちは忍耐をもってそこにとどまる必要があるのかも知れません。
 しかし何か、状況が変わり、「動ける」ようになったとしたら、そのときこそ、雲が上がったときなのではないでしょうか。

 私たちの信仰生活の歩みは、神の御心と完全に一つとなる歩みなんですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.26.Mon 12:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
192.jpg

 今週の「たいむ」は・・

 【まったく異なる目的】・・です。

 https://m.youtube.com/watch?v=v3VYLn8orPk&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

 God Bless You !

 
2024.02.24.Sat 11:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。"
 出エジプト記 40章34節

 今日の箇所は、出エジプト記のほぼ最後のところです。
 結局出エジプト記は、神の幕屋の設営が完了したところで終わるんですね。
 それは「第二年の第一の月の一日」。(17節)
 エジプトを出てからそれまでの出来事は、わずか一年間の出来事だったわけです。

 モーセは幕屋のためのすべてを整えました。その詳細がこの40章です。

 幕屋の一番奥には金で覆われた「あかしの箱」がありました。
 その箱には「なだめの蓋」があり、そこには金で覆われたふたつのケルビムが向き合い、羽を広げて箱全体を覆っていました。そしてそこには二枚の「さとしの板」が入れられました。
 幕屋の中央は垂れ幕で仕切られており、奥の箱があるところが至聖所、手前が聖所です。
 聖所にはパンを供えるための机と燭台が左右に置かれ、中央には金の祭壇が置かれ、そこで主にささげるための「香り高い香(こう)」がたかれました。
 幕屋の入り口には垂れ幕がかけられ、その前には洗盤が置かれ、そこには水が満たされました。それは祭司たちが幕屋に入るときに、手と足を洗って身を清めるためのものです。
 そしてその手前に、いけにえを焼く祭壇が置かれました。
 そしてこの幕屋と祭壇の周囲には庭が設けられ、その外周には垂れ幕がかけられました。
 この幕屋の敷地は幅22,5m、奥行き45m、概算で約300坪です。(38章9-13節参照)

 モーセはこれらすべての用具に油そそぎをしてこれらを聖め、アロンには聖なる装束を着せて油そそぎをし、その子たちにも油そそぎをし、すべてを清めました。そしてそのとき・・これが今日の箇所です。
 そのとき、主の栄光が幕屋に満ちた・・というのです。

 このことを私たちの信仰生活に重ね合わせて見るならば、幕屋が整えられ清められること・・それは、私たちが主の一方的なみわざのゆえに与えられたすべての恵みをしっかり理解し、私たちの心が主で満たされるということです。
 そして主は、そこにご自身の栄光を現してくださるというのです。

 私たちの心が、主の前に整えられているかどうか、先ずは点検したいものですが、大抵そこには悔い改めが待っています。

 しかし主は、その「悔い改めがあるところに」みわざを現してくださるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.23.Fri 12:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。
 モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。"
 出エジプト記 39章42~43節

 モーセは幕屋に関わるすべての部材や装束の製作に取りかかるように命じました。
 それで神に選ばれたベツァルエルとオホリアブの指揮の下、イスラエルの子らはすべての仕事を終えてモーセのもとに戻ってきました。

 造られたものは、ざっと以下の通りです
 幕屋の十枚の幕とその上の十一枚の幕、幕屋の骨格となる板、その台座、聖所と至聖所を分ける垂れ幕、アカシヤ材の柱、契約の箱と宥めの蓋、その担ぎ棒、机とそこに置く道具、燭台とそれに伴う道具、香の祭壇、注ぎの油、香り高い香、ささげ物の祭壇、祭壇の用具、洗盤、庭の掛け幕とその台座、幕屋と周りの庭の杭、庭の門の垂れ幕と柱。アロンの装束、エポデ(胸当て)、亜麻布の長服、かぶりもの等、記章など・・。

 さて、これから実際に幕屋の設営に入るわけです。
 モーセは設営の手前で、まずその準備が主の命じられたとおりであったことを確認しました。そこでモーセは彼らを祝福した・・とあります。
 多くの人々が準備に携わり、そのひとりひとりが注意深く、主の指示に違(たが)わないようにそれぞれの部材を造ったというわけです。

 主の指示に違わないように・・。これって実は結構難しいことなのではないでしょうか。それを彼らは忠実にやったのです。

 人が聖書を読み始め、信仰に導かれるその道程で、私たちはそれまで持っていた神に対する先入観とか、常識によって、神の言葉をそのまま受けとるということに、とても困難を感じることがあります。
 みことばをそのまま忠実に受け取り、そしてそれを自分の内に「実」として実らせて行くことが求められているのに、自分の考えで御心とは微妙に違うものをそこにつくりあげてしまう・・。
 これって、実は良くあることなんですね。

 さあ、いよいよ主の宮を建て上げる・・。
 それは、私たちがみことばをそのまま素直に受けとろうとしたときに始まるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.02.22.Thu 09:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、
 モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」"
 出エジプト記 36章4~5節

 主はベツァルエルとオホリアブに神の霊を満たし、人を教える力もお与えになりました。
 そしていよいよ幕屋と祭司の装束のための準備が始まったとき、その仕事に携わっている人たちがモーセのところにやってきてこう言ったというのです。
 民は奉納物を持ってくるのが止まらず、それはすでに有り余っています・・と。
 それでモーセは民に、もうこれ以上のことはしなくて良いと告げたら、やっと民は「持ってくるのをやめた」というのです。(6節)

 聖書の中にはもう一カ所、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、民に悔い改めを迫って、身の回りのすべての偶像を取り除かせ、宮が整えられ、七日間の祭りを行ったときのことが記されています。
" ヒゼキヤが、その積まれた山について祭司とレビ人に説明を求めると、
 ツァドク家の祭司の長アザルヤが、彼に答えて言った。「人々が奉納物を主の宮に携えて来ることを始めてから、食べて満ち足り、たくさん残るようになりました。主が御民(みたみ)を祝福されたので、その残りがこんなにたくさんあるのです。」"
 歴代誌 第二 31章4~10節

 食べて満ち足り、たくさん残るようになった・・、それは人々が奉納物を携えてくることを始めてからだ・・というのです。
 それで主が御民を祝福された、すなわち献げる力を与えられたので、「その残りがこんなにあるのです」というわけです。

 私たちのこの小さな群れ(教会)も、献げ物によって宮(教会)にはほんの数年で多くの蓄えが与えられました。
 そしてそれらは、必要のある人々の生活を支えるために、そして出て行って福音を伝えるために使うことができるようになりました。

 主への熱心をもって、献げる力も与えられ、主の祝福をさらにあふれるばかりにいただき、「こんなにあるのです」と言って、それを人々のために使う者とさせていただきたいですね。
 

 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.21.Wed 13:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。"
 出エジプト記 35章34節

 いよいよ幕屋の設営のための準備が始まります。
 ここで主は初めに、この大きな仕事の総指揮官として、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召されました。今日の箇所の「彼」がその人です。

 主はベツァルエルに「知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされ」ました。(31節)
 それは、すべての細工に意匠(いしょう)を凝らす・・すなわち、優れたデザインをするためでした。(32-33節)

 その後に続くのが今日の箇所ですが、主がベツァルエルに与えられた知恵と英知と知識は、デザインの才能にとどまらず、「人を教える力」をもお与えになったというのです。そしてもうひとり、オホリアブにも・・。

 私たちはそれぞれ、さまざまな仕事に携わるわけですが、それは仕事に関しての知恵や知識を持っているというだけでは足りないものがある、ということをここでは教えられます。

 私たちが何かの仕事をするとき、それは多くの人との関わりの中でそれをやるわけです。
 例えば画家などは、自分ひとりで仕事を完結できるからいいなぁとか思うことがありますが、その画家とて、人々に作品を紹介するため、絵を売るために多くの人々との関わりを持って、その中で活動をしていかなければならないわけです。
 そこで私たちは、周りにいる人々との関係を築いていかなければならなくなるわけですが、ここで教えられることは、「人に教える力」を持つということもその大切なことの一つだということです。

 私たちは、人を思うように使うことによってではなくて、教えたり、また教わったりすることで、仕事は動いていくんですね。

 もし、神が与えて下さる知恵をもって教えることができるのだとしたら、私たちはそこに神の栄光を拝することができるのではないでしょうか。

 私たちは教える賜物を・・、ただし愛をもって教える賜物を、積極的に求めて行くべきなのではないでしょうか。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

 
2024.02.20.Tue 10:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 今年から、月曜日は「聖書のことば」をお休みにすることにしたのですが、やはり月曜日にもマナはいただきたいなという思いが与えられ、祈った結果、月曜も再開することにしました。
 毎日、たっぷり栄養をいただいてください。


" イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。"
 出エジプト記 35章29節

 モーセはイスラエルの民に、幕屋とそのための務めをする祭司のために必要なすべてのものを整えるために、献げ物(奉納物)を持ってくるように、民に命じます。
 そして、このモーセのことばに心を動かれた者たちは、必要なものをことごとく持ってきました。
 また女たちは必要な「青、紫、緋色の撚(よ)り糸」の為に、糸を紡ぎ、また亜麻布を紡いで持ってきました。(25-26節)
 そして族長たちは祭司が着る装束に必要な「縞(しま)めのうや宝石」を持ってきました。

 これらのことが書かれているのはこの前後、5節から29節までですが、その中に出てくることばは・・
 心に知恵のある者、心を動かされた者、霊に促しを受けた者、進んで献げる心のある人、心に知恵のある女、心を動かされ,知恵を用いたいと思った女・・などで、それらのことばが立て続けに出てくるのです。そして今日の箇所・・

 それを進んで献げるものとして主に持ってきた・・。

 すなわち、持ってきたものはみな「進んで献げたもの」だったというわけです。

 前回にも書いたとおり、それが神が望まれることで、「進んで献げたもの」によって、このイスラエルの民の心臓部とも言える部分が建て上げられること・・それを神は望まれているというわけです。

 それは結局、教会はその場を構成する人々の心によって建て上げられていくということを示しているのではないでしょうか。

 私たちに命じられている第一の命令・・、それは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。
 その愛が、私たちの行動の原動力となり、さらにそれが隣人への愛の力となっていくのです。

 私たちの心が何を見ているのか・・、いつもそこに着目していたいものですね。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.19.Mon 11:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
191.jpg

 今週の「たいむ」は・・

【主の手にひかれて歩む】・・です。

 https://m.youtube.com/watch?v=ru7ZDPvDRvg&pp=ygUSR3JhY2VDYWZl44Gf44GE44KA

 God Bless You !

2024.02.17.Sat 09:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅 〜 ”
 出エジプト記 35章5節

 山から下りてきたモーセの顔は輝いていて、モーセは顔に覆いを掛けるほどでした。そのモーセは、主の命令を民に語り始めます。

 先ずは七日目の安息の日に仕事をすることを厳しく禁じ(2-3節)、それに続いて言ったのが今日の箇所です。

 あなたがた(イスラエルの会衆)の中から主への奉納物を受けとりなさい・・と。
 そこで指定されたものは、金、銀、青銅に始まり、あのシナイ山の上で主から語られた幕屋を設営するため、また礼拝に伴うすべての用具、また祭司の装束のために用意するべきすべてのもののためのささげ物でした。

 ただしモーセは、「献げる者」について、注文を付けています。
 それは「進んで献げる心のある人」がしなさい、ということでした。
 主が受けとりたいと思っておられるささげ物は、心から進んで、喜んで献げる人からのささげ物だということです。

 私たちの教会では、献金は礼拝の中でするのではなく、献金箱が置いてあり、そこに各自がしたいと思うささげ物をするというシステムを取っています。
 それは、義務感や決まりや人の目を気にしてささげ物をしたりするようにならないためです。
 主は、キリストのからだである教会が、喜んで献げる人々によって建て上げられることを喜ばれるんですね。

 ささげ物は聖(きよ)いものでなければならない・・、それが基本です。
 礼拝を献げるなら・・それは心からのものでなければならない。
 献金をするなら、それも心からのものでなければならない、というわけです。

 なぜでしょうか。
 それは主が、汚れのないものとして宮(教会)が建て上げられることを望んでおられるからです。

 私たちはそれぞれ、心と思いと力を尽くして、その心が主と一つになって、自らがキリストのからだの成長のために用いられる者となることを願い、そのような者によって教会が成長していく・・それを主は願っておられるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.16.Fri 09:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。
 アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。"
 出エジプト記 34章29~30節

 神である主はモーセを再び山に呼び寄せ、そこで改めてイスラエルの民を赦し、このあとに民が約束の地に入っていく際に守るべき教えを語られます。(11-26節)
 こうしてモーセがシナイ山から下りてきたとき・・、それが今日の箇所です。

 主は、民が約束の地に入ったときに守るべきこととして、モーセに語られたこと、それは・・、
 決してその地の住民と契約を結ばず、彼らが拝むすべての偶像を打ち壊し、決してそれらを拝んではならない。
 安息日を守るべきこと、出エジプトを覚えるための種なしパンの祭りを守れ等の、祭りの規定、等々。
 これらの教えはとにかく、主の民であることから決して逸れてはならないということでした。
 
 モーセは今回も、パンも食べず水も飲まずに四十日四十夜、主と共にいました。
 今度はさすがに、この民もモーセを待ちきれずにほかの神々を造るようなことはせず、モーセを待っていたわけです。
 そしてモーセが山から下りてきて、民に会ったとき、モーセの顔の肌は輝きを放っていたというのです。
 それはどんな輝きだったのか、想像するのが難しいですが、人々はそれをはっきり見て、恐れたとあります。

 私たちクリスチャンは、主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ形にその姿が変えられていく者とされた者です。
 ですから、信仰生活を重ねるにつれ、私たちの顔も変わっていくんですね。
 そしてそれは、確実に光を放つ顔として変えられていくのです。

 人が恐れるほどではないにしても、そこには確実に光がある、明るいものがあるということを、人々は、見るようになるというわけです。

 私たちクリスチャンは、世の光なのです。
 そのことをしっかりと覚え、主と共にいる時間を求めて、それを大切にし、世に光を放つ者とさせていただきましょう。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.15.Thu 12:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。"
 出エジプト記 34章10節

 主はモーセに、石の板を二枚持って再び山に登れと命じられました。
 それは、もういちどわたしは考え直そう、ということに他なりませんでした。
 そして再び登った山の上で、主はモーセに、ご自身が祝福される神であることを告げました。
 それが前回の箇所です。
 そしてモーセは、ダメ押しをするように「確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を許し、私たちをご自分の所有としてくださいますように・・と、主に迫ります。
 それに対する主の答えが今日の箇所です。

 今ここで、私は契約を結ぼう・・と。
 それはこのあと、わたし(主)が計画していること・・。
 あなた方は皆、それを目(ま)の当たりにする・・。
 わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである・・と。

 それは何のことかというと、ほかでもない、この200万の民がカナンの地に入って、その全土を自分たちのものにするということに他なりません。

 あからさまに主をさげすみ、金の子牛と同等のものであるがごとくに神である主を扱ったこの頑(かたく)なな民を、主は実に、もういちど赦そうとされたのです。
 そしてそのあとに、もういちど「恐るべきこと」を民に見せて、わたしの契約を果たす・・と、主は言われたのです。

 修復しようのない罪を赦し、そして恐るべき力をもって民を救い出し、約束の祝福を与える・・。
 これが、主がなされることなのです。

 それはほかでもない、私たちが今受けとっている救いでなくて何でしょうか。

 修復しようのない罪をすべて赦され、永遠のいのちをいただいた私たちは、このあと、主の恐るべきみわざとともに、再び主が来られるのを見ることになるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.15.Thu 12:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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 今週の「たいむ」は・・

【喜びの出発】・・です。

 https://m.youtube.com/watch?v=nraOPixqa1o&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

 God Bless You !
2024.02.13.Tue 11:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
 恵みを千代まで保ち、咎(とが)と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」"
 出エジプト記 34章5~7節

 主は再びモーセに現れ、以前と同じような石の板を二枚取って、もういちどシナイ山の頂(いただき)に立ちなさい、と命じられました。
 そこでモーセは翌朝早く二枚の石を持って再びシナイ山に登ります。(1-4節)
 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名を宣言された。(5節)・・それが今日の箇所です。

 あわれみ深く、情け深い神・・。
 この民(それは私たちのことに他なりません)は、主のあわれみ、情けによるのでなければ、とても顔を向けることのできるような者ではありませんでした。
 そんな私たちと神との関係に和解がもたらされたのは、実に神の側から発せられた「あわれみによることこと」なんですね。

 怒るのに遅く、恵みとまことに富む神・・。
 さらに私たちが神との関係を取り戻したあとでも、主はどれだけ私たちに忍耐して、神が用意されている恵みを受けとることを、倦(う)むことなく待っていてくださることか・・、私たちはそれをずいぶん後になって気付かされることがあります。

 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す神・・。
 私たちが神を悲しませたすべてのことの上には覆いが掛けられ、その赦しは永遠のものとして与えられるのです。

 しかし、罰すべき者を必ず罰する神・・。
 私たちはそれに耐えられるような者ではない・・、そのような私たちに対して主が用意してくださったのが、御子の救いのみわざなのです。

 三代.四代と、千代とを比較してみてください。
 神の目的は、私たちを祝福することなのです。

 このあと主はモーセに、もう一度この民とともに進み、そこに大いなるみわざを見せることを約束されるのです。

 主はあわれみの神なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.13.Tue 10:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" モーセは言った。「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」
 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」"
 出エジプト記 33章18-19節

 民が堕落してしまい、神の怒りが民に臨んで、三千人が命を絶たれたという出来事のあと、モーセは、主に懇願します。
 この民があなたの民であることを、どうか心に留めてください・・と。

 そしてモーセは、「わたしの臨在がともに行く」ということばを、主から引き出します。(15-17節)
 さらにモーセは、「あなたの栄光を私に見せてください」と言って、主にその確証を迫るのです。
 それで主はモーセの願いに応えられ、モーセを岩の裂け目に入れて、主がそこを通り過ぎ、モーセはその後ろ姿を見る・・ということを主はされています。(21-23節)

 このことの前に言われたことばが、今日の箇所です。

 恵もうと思う者を恵む・・。それはどういうことかというと、人の上にあるすべてのことの主権は「わたし(主)にある」ということです。
 神である主は、ご自身の栄光をを現される前に、まずこのことをモーセの心に刻もうとされたわけです。

 私たちは信仰生活の中で、さまざまな辛いところを通らされたり、壁にぶつかったりすることがありますが、そのすべてのことにおける主権は主にある、すなわちそれらすべてのことは、神である主が許されているからあるのだというのです。
 しかも、そのことの上に「ついにはあなたを幸せにする」(申命記8:16) という主の約束を受け取って、私たちは今を歩んでいるわけです。

 ところが私たちは、今目の前に起きている辛い出来事の上にも主の主権があるということを忘れて、主に恨みをぶつけたり、信仰を捨ててしまいたくなったりするんですね。

 しかし主は、そのことを通して私たちを「幸せ」に導くのだというのです。

 あくまでも主が「主権者」なのであり、今のすべてのこともその「最善」のために主が与えられていることだというわけです。

 信仰の目を主に向けましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.09.Fri 13:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」"
 出エジプト記 33章14節

 モーセの「あなたの道を教えてください」という、主への願いに対する主からの答え・・それが今日の箇所です。

 私たちが主の道をしっかり歩むために、必要不可欠なもの・・それは主の臨在なんですね。

 主はあなた(クリスチャン)とともにおられ、いつもいつも私たちの心が主に向けられているように、私たちの内に住まわれているのです。
 それが聖霊であり、そのことを感じ取っているそのときが、すなわち主の臨在を感じているときなんですね。

 私たちは今や、主のものとされました。そして主の全能の御力の内に守られる者として、今この地上を歩むことが許された者です。
 しかしそのことがわからなくなってしまうなら・・すなわちこの主のご臨在を感じ取れなくなってしまうなら、私たちは普通の人、すなわちまだ神を知らない人のように歩まなければならなくなってしまうわけです。

 モーセは、「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」・・と主に懇願します。そしてそのあとにこのように言っています。
 ・・私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。・・と。(16節)

 私たちは、主のご臨在とともに歩むことによって、すなわち御霊によって歩むことによって、私たちが地上のすべての民と異なり、特別に扱われていることがわかるというのです。
 それで私たちは「世の光」となり、「地の塩」となり、世の中に主なる神を現していく存在となるわけです。

 ならば私たちがするべき事・・、それは共にいてくださる主との交わりを深め、主の臨在の中を歩む者とされるように願い求めていく、ということなのではないでしょうか。

 そのとき私たちは、自分で頑張るのではなく、あたかも「休む者」のようにして、この地上を歩むことができるというわけです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.02.08.Thu 09:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」"
 出エジプト記 33章13節

 モーセはこの頑(かたく)なな民に怒りを発せられた神が、もうあなた方とともには進まないと言われたことに対し、とにかく神にすがりつくようにして申し上げました。それが今日の箇所です。
 
 モーセは、もしも私がみこころにかなっているのでしたら・・と言って主に願いました。
 その初めが、「どうかあなたの道を教えてください」ということでした。

 反逆を重ねる民が、このあとどうなっていくのか、そのことに恐れを抱いていたモーセが主に願った第一のこと・・、
 それは先ず自分が「あなたの道を知ること」だった、というのです。

 私たちは、神に顧みていただきたく、祈りを積むことがあります。しかしそのときにこそ一番に求めるべきなのが、「主の道を知る」ということなのだということを、ここでは教えてくれているのではないでしょうか。

 主の道・・私たちはそれを良く知っています。
 それは、心と力を尽くして神である主を愛すること。そして自分を愛するように隣人を愛すること・・。
 モーセは民がどうなっていくかもわからないこの状況の中で、「主の道」を求めたというのです。そうすれば(私は)みこころにかなうようになれます・・と。

 さまざまな心配事で心が一杯になってしまう私たち。
 そこで主の道を「求める」こと・・それは、心の転換を自分の意思でするということです。
 それは、言ってみれば「一大決心」です。
 それは自分が自分の意思で「心に決める」ということです。

 私たちが戦うその主体は「肉」ではなく「心」なのです。

 心の一新によって、主のみことばによる勝利を今日もいただいて進みましょう。


 ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.02.07.Wed 11:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時(ひととき)でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」
 それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。"
 出エジプト記 33章5~6節

 イスラエルの民は、モーセがシナイ山で四十日間神と共にいる間に、見事に堕落してしまい、モーセが山から下りてきた時には金の子牛を造って、その周りで踊り、この子牛を礼拝していました。
 それで神の怒りは燃え上がり、この民の中の三千人が倒れることになります。

 それで主はモーセに、わたしはこのような民と一緒には上らない。ただ「ひとりの使いを遣(つか)わす」から、それに聞きなさい・・と言われました。
 この「使い」については、その具体的な意味は明確ではありませんが、今までのように、神が民のただ中にあって民を導くということは、今後もうないと宣言されたわけです。そうでもなかったら、わたしはこの民を絶ち滅ぼしてしまうだろう・・と。(2-3節)

 そこで神が民に命じられたことは、「今、飾り物を身から取り外しなさい」ということでした。
 それでイスラエルの子らはその後も、飾りものを付けることはなかったというのです。それが今日の箇所です。

 飾り物・・それは自分の身を飾る・・それは自分を飾って、それ以上に見せるということです。
 その飾り物を外す・・それこそが、私たちが神の前に立つときに持つべき基本的な姿勢なのではないでしょうか。

 私たちは神の前に出るとき、何も隠したり、自分を大きく見せたり、言い訳したりする必要はないんですね。
 私たちがどのような者であるかを、神は初めからご存じなのです。

 神の前に、飾り物を一切投げ捨てるとき、神は私たちに本当に必要なものを与えてくださるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

  
2024.02.06.Tue 11:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。"
 出エジプト記 33章2~4節

 神である主はモーセに言いました。
 わたしは約束したとおり、カナンの地の民を追い払い、その地にあなた方を行かせるが、これからは「ひとりの使い」をつかわしてあなた方を導くという方法を取り、わたしはあなたがたのただ中にあっては上らない・・と。
 それはあなた方が、いくらわたしの奇跡を見てもわたしを信じようとしない、本当に頑(かたく)なな民だからだ・・と。
 それで民は「この悪い知らせを聞いて、嘆き悲しんだ」・・、これが今日の箇所です。

 神である主は今まで、昼は雲の柱、夜は火の柱として、いつもこの民と共におられ、民を導いてこられました。
 でもそれはもうやめる・・というのです。

 それは主がこの民にどれだけ仕えて来られたかということに対して、民は見向きもせず、主を本当にないがしろにしてきたとも言うべき出来事が、ずっと続いてきたから・・。

 ところで、私たちがこの世に光として、また地の塩として立つことができるのは、主が共にいてくださるからなんですね。
 その主が離れてしまわれるなら、それはまさに以前の私たちの姿であって、ただひたすらに自分の力ですべてのことを切り開こうとして、汗水流してすべてをやることになるわけです。
 それが、今やこの全能の主が私たちと共におられ、こんな私たちの歩みにさえもご計画を持ち、そこにご自身を現してくださる・・、それこそが神が私たちの上になさろうとしていることなのです。

 私たちは心を尽くして、ひたすら主を覚え、ともに歩んでくださるこの方を、いつも喜び、賛美しながら歩んでいきたいものですね。

 それを手放すなら、それは全てを失うに等しいのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます) 
 
 
2024.02.06.Tue 11:08 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
2024.02.03.Sat 10:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」
 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。"
 出エジプト記 33章2~4節

 神である主はモーセに言いました。
 わたしは約束したとおり、カナンの地の民を追い払い、その地にあなた方を行かせるが、これからは「ひとりの使い」をつかわしてあなた方を導くという方法を取り、わたしはあなたがたのただ中にあっては上らない・・と。
 それはあなた方が、いくらわたしの奇跡を見てもわたしを信じようとしない、本当に頑(かたく)なな民だからだ・・と。
 それで民は「この悪い知らせを聞いて、嘆き悲しんだ」・・、これが今日の箇所です。

 神である主は今まで、昼は雲の柱、夜は火の柱として、いつもこの民と共におられ、民を導いてこられました。
 でもそれはもうやめる・・というのです。

 それは主がこの民にどれだけ仕えて来られたかということに対して、民は見向きもせず、主を本当にないがしろにしてきたとも言うべき出来事が、ずっと続いてきたから・・。

 ところで、私たちがこの世に光として、また地の塩として立つことができるのは、主が共にいてくださるからなんですね。
 その主が離れてしまわれるなら、それはまさに以前の私たちの姿であって、ただひたすらに自分の力ですべてのことを切り開こうとして、汗水流してすべてをやることになるわけです。
 それが、今やこの全能の主が私たちと共におられ、こんな私たちの歩みにさえもご計画を持ち、そこにご自身を現してくださる・・、それこそが神が私たちの上になさろうとしていることなのです。

 私たちは心を尽くして、ひたすら主を覚え、ともに歩んでくださるこの方を、いつも喜び、賛美しながら歩んでいきたいものですね。

 それを手放すなら、それは全てを失うに等しいのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます) 
 
 
2024.02.02.Fri 11:40 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。
 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」"
 出エジプト記 32章33~34節

 モーセは再び主の前に出て行って、民の罪の赦しを請います。
 それがかなわないなら、私の名をあなたの書物から私の名を消してください・・と。(黙示録20:12-15参照)

 それに対する主のことばが、今日の箇所です。

 主はとにかく「わたしの前に罪あるものはだれであれ、わたしの書物から消し去る」と言われました。
 そして四十年の間に、出エジプトはしたけれども主に対する不信の罪を重ねた世代は死に絶え、新しい世代が約束の地に入ることになるわけです。
 この死に絶えてしまう世代の人々は皆、「主の書物」すなわち「いのちの書」からその名を消し去られてしまったということなのでしょうか。
 それは私たちにはわかりません。モーセでさえ約束の地に入ることが許されなかったのです。

 主が報いる日・・(34節)。それは約束の地に入る時・・すなわち私たちが天の御国に入るその時という意味がそこに重なって見えてきます。
 私たちすべての者は、終わりの時になって主の御前に出て、そこできちっと裁きを受けるということが聖書には記されています。
 しかしながら、私たちクリスチャンには「イエス・キリスト」という文句なしのパスポートが与えられており、そこには「この者の罪は赦された」と記されているのです。

 しかしこのとき、私たちがこのパスポートのことをすっかり忘れていたり、捨ててしまっていたとしたら・・、それでも天国に入れるとは聖書には書いてないんですね。
 この終わりのときに裁きを受けるとき、私たちはこのパスポートを手にしているから天の御国に入れるのです。

 私たちはこのパスポートをいただいていることを心に刻み、それをしっかり握りしめて地上の旅路を歩むべき者なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.02.01.Thu 10:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」
 レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。"
 出エジプト記 32章27~28節

 まことの神から目を離して偶像を拝み、そこに自分の身を置き、神である主に対しての不信をあらわにする・・それは敵が喜ぶことであって、民はその敵の笑いものになっていた・・。これが前回見たところです。

 敵、すなわちサタンに取り込まれてしまうということは、どれほど恐ろしいことでしょうか。
 それはそのまま「いのちに関わること」なんですね。
 神のもとに帰った人を再び自分の陣営に引き戻すというのは、サタンの最初からのもくろみであって、その究極的な目的は、人を死に至らしめる、すなわち滅びに定められた人をそのままそこに閉じ込めて、自分が行くべき永遠の苦しみの中に、ともに引きずり込むということなのです。

 もし民がそのような状態に陥ったのなら、徹底的にその膿(うみ)を絞り出し、いのちの保全を図(はか)る必要があったというわけです。

 モーセが、モーセに付く者を集めたら、レビ族が集まってきました。
 そしてモーセは彼らに命じました。(26節)
 各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ・・と。

 私たちには余りにむごい話に聞こえますが、それが民のいのちに関わることだとしたら断腸の思いでそれをするしかない・・。
 壊死した足を切断して、いのちを保つというようなイメージでしょうか。

 それは私たちの内側の問題にも照らして見ることができます。
 私たちは、何気なく敵を侮らせていることって、日常的にあるんですね。
 しかしそれは、自分の身を裂くほどにして、徹底的にそこから離れなければならない事だということを、私たちは肝に銘じなければならないのです。
 でもそれは、クリスチャンにのみできることで、本来人はそんなことはできるものではありません。

 私たち(クリスチャン)は御霊によって、敵を侮らせるような行いや思考を徹底的に排除して、心の内から追い出して、撲滅してしまわなければならないのです。
 
 それは実に、いのちの問題、すなわち私たちが信仰によって与えられた永遠のいのちに関わる問題なのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)

 
2024.01.31.Wed 12:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。"
 出エジプト記 32章25節

 モーセが四十日の間、神のもとに登って、主の御言葉をいただいている間、民は待ちきれず、アロンに偶像を造るように迫りました。
 それに対し、アロンは彼らの言うことを受け入れ、彼らがなすままにし、おまけに彼らのやることに加担して、自ら偶像を造って、しかも・・それを傍観していたわけです。(17-24節)

 放っておいたとは、彼らを諫(いさ)めることをせず、民が神に立ち返る方向に導くこともしなかったということです。
 アロンの責任は大きいと言わざるを得ません。

 そしてモーセは、民が「敵の笑いものとなっているのを見た」というのです。

 敵とは何のことでしょうか。

 この民の周辺に住む民はいわば「敵」でしたが、その敵はこのことをまだ何も知らないはずです。
 ならば「敵」とは、神に敵対する勢力・・この神の民が滅びることを心底願う悪の軍団、すなわちサタンのことであると考えるのが妥当なのではないでしょうか。

 私たちは信仰生活において、神から私たちを引き離そうとする執拗(しつよう)な力に、常に悩まされています。
 しかし神はその執拗な力・・すなわちサタンから飛んでくることばの火矢をかわすために「信仰という盾」を私たちに与え、また逆にそのサタンを刺し貫く「みことばの剣」をも与えてくださっています。

 しかしそんな私たちが、この最強の父とそこにとどまるための神の武具をいただいているにもかかわらず、この父から離れ、他のものにより頼むのだとしたら、それはまさにサタンの思うつぼで、サテンは手をたたいて喜び、なんて馬鹿なことをしているの・・と、私たちは笑いものとなる・・というわけです。

 私たちの主はこの世に於いて、他の何ものをも圧倒的に制することのできる全能の主であって、私たちはこの主の最強軍団の一兵卒(いっぺいそつ)なのです。

 そのことをいつも忘れないようにし、敵の笑いものにならないようにしましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.01.30.Tue 11:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』
 それで私は彼らに『だれでも金(きん)を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」"
 出エジプト記 32章23~24節

 アロンの言い訳はさらに続きます。

 民がわれわれに先立っていく神を「造ってほしい」と言ってうるさいから・・、だから私は造ったのです・・と。
 私は民に迫られ、どうにもならなくなってその声に負けて造ってしまいました、とは言えなかったんですね。

 この民はすでに神からのみことばを受けとっていました。もちろんアロンも聞いていました。
 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」 (20:3-4)
 
 アロンは神の声よりも民の声を選び取ったというわけです。
 そしてアロンは、さらに自分をごまかして言いました。
 民から金を徴収してそれを火に投げ入れたら、この子牛が出てきた、すなわち「勝手にできた」のです・・と。

 アロンはあくまでも自分のやったことが誤りであったことを認めなかったんですね。
 アロンはこの期(ご)に及んで自分を守ろうとしていたというわけです。

 忘れないでください。私たちは失敗を犯さないかというと、そうではなく、その失敗の都度、主の十字架の御許(みもと)でその罪の赦しをいただき、神との関係を保つことが許されている者なのです。

 要するに、そのつど悔い改めれば良いのです。
 私たちは、自分を守る必要はすでになくなっている者なのです。
 神の赦しは、今とそして未来のあなたの上に、確実なものとなっているのです。

 私たちは「悔い改めの達人」となれば良いのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます) 

 
2024.01.26.Fri 10:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」
 アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。"
 出エジプト記 32章21~22節

 たった四十日も待ちきれずに、最も神が忌み嫌われる偶像礼拝を始めてしまったその民の姿を見たモーセは、激しい怒りに燃え、神から与えられた二枚のさとしの板を地に投げ捨てて砕いてしまいました。(19節)

 モーセはアロンに「これはあなたの責任ですよ」と問い詰めます。
 アロンは言い訳のしようがないところでしどろもどろになり、それを民のせいにしようとして言いました。
 ・・あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです・・と。

 神である主は、神を心から信頼しようとしない民をエジプトから導き出され、そこからも忍耐をもって導かれ、彼らをここまで養って来られたのです。
 そしてこのような民に神の民としての歩みをはじめさせるために、十戒を告げ、モーセを山に登らせ、四十日という期間を費やして、この民が神である主を礼拝するための細かな規定、すなわち幕屋に関するすべてのこと、また祭司に関するすべてのことをモーセに託されたわけです。

 私たちに対する神の愛・・それは神に対してもともと不遜な私たちへの愛であって、そのどうしようもない「本質」を持つ私たちに対して、神は御子を送られ、そのような私たちの代わりに御子の十字架の死を私たちに与えることで、この問題の解決をしてくださったのです。

 私たちはこのことを忘れると、神が何か恐ろしい存在、あるいは自分を拘束する存在のように感じてしまう・・。
 そう思った途端に、その思考は「福音」から完全に逸れてしまうのです。

 アロンが民を導くための責任者であったように、私たちは自分の思いが自分を導くための責任者であり、その心の向く先によって、自分自身を祝福へも導くし、その反対へも導いてしまうのです。

 私たちはアロンのように言い訳をして「自分はこんな者なんだ」と言い訳しながら歩むのではなく、はっきり罪深い私たちを愛するこの神の愛を忘れずに歩み、その罪を帳消しにしてくださった御子ご自身に目を留めて歩んで行く時に、私たちは神の無限の祝福に与(あずか)る者とされるのです。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2024.01.25.Thu 11:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。
 それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。"
 出エジプト記 32章19~20節

 モーセの手には、主の筆跡によって表裏にさとしのことばが書かれた二枚の板がありました。(15節)
 それは神との新しい歩みの出発のしるしでした。
 しかしそのモーセの目に入ったのは、金の子牛を前にして踊っている民の姿でした。

 モーセの怒りは燃え上がった・・。

 モーセは、民が心の支えにしようとしていたこの偶像を、民の前でこなごなにして見せました。

 民が頼りにしていたものをもぎ取る・・、それは民が大事にしていたものなのだから、それはやり過ぎではないか・・。
 これが今の私たちの、周りにいる人たちへの一般的な配慮です。

 しかしこれは、いのちの問題なのです。
 いくらその人が大切に思っていても、それがかえっていのちを損なうものだとしたら、それをそのまま見ているのだとしたら、それは愛の行為だと言えるでしょうか。

 私たちは、滅びから救い出されたことの意味を、今一度深く考えたいものです。
 私たちは本当に大切なことを、まだ理解していないのかも知れません。

 私たちは、滅ぶべき者であったのに、永遠のいのちの道を得たのです。

 それを他の人が受け取らないことへの悲しみが、あなたにはどれほどあるでしょうか。

 いま一度、神が与えてくださったこの大きな恵みについて、深く知る者とさせていただくよう、祈り求めようでありませんか。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
 
 
2024.01.24.Wed 10:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」"
 出エジプト記 32章9~10節

 モーセが神の契約の板を持って山から下りてくると、なんと待ちきれなくなった民はアロンと共に金の子牛を鋳造し、それを神だとして拝んでいました。
 それで神の怒りがこの民に向かって燃え上がります。

 民が絶ち滅ぼされ、そして残るモーセだけは大いなる国民となる・・?
 過去にそれと同じようなことがありました。
 それは「ノアの洪水」・・、神である主は堕落しきった民を御怒りをもって水で滅ぼし、ノアとその家族だけを救い、それが今の全世界の民となった・・。

 しかしモーセは主に嘆願して言ったというのです。
 主よ、そんなことをされたら、あなたがこの民を偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導き出されたのは、ご自分の民を滅ぼすためだったのだと異国の者は言うでしょう。彼らにそんなことを言わせていいのですか・・と。また主がアブラハムに約束されたこと、すなわち選びの民に約束の地を永久に与えると言われたあの約束はどうなるのですか・・と。(11-13節)

 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直されたというのです。(14節)

 モーセは神の約束のことばを盾にとって、神の考えを変えさせたというわけです。

 私たちには、数え切れないほどの神の約束が、聖書のみことばを通して与えられています。
 そして私たちもこのモーセのように、この神の約束を盾にとって、神に向き合うことができるんですね。

 神の言質(げんち)・・あとで証拠となるような約束のことば・・すなわち神の約束のみことばを私たちは一杯貯めておくと、それが祈りの中で大きな力になるのだということを、ここでは教えているのではないでしょうか。

 主のみことばを心の内にいっぱい蓄えましょう。
 そして神と向き合って、思う存分に語り合う者とさせていただきましょう。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます) 
  
 
2024.01.23.Tue 10:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。"
 出エジプト記 32章7~8節

 意気揚々と山を下りるモーセに、主はとても残念なことを告げられます。
 あなたの民は堕落してしまった・・。

 神である主がエジプトから導き上ったということは、民にとっては否定しようのない事実であったはずなのに、この民はあろうことか、自分で造った金の子牛が自分たちを導き上った神だ、と言ったというのです。(8節)

 これはまさしく、神である主に対する最大の侮辱です。
 当然のことながら、このあと主の怒りは燃え上がります。(10節)

 このことを私たち自身の信仰生活に照らして考えてみましょう。

 主が言われた「堕落」、それはまことの神以外のものを勝手に作り出し、それを信じようとすること・・ということになります。
 それは、偶像を作ってそれを拝むことであるわけですが、私たちクリスチャンは信仰を持ちながら神社仏閣に行って拝んだりすることはまずありません。
 しかし心の中で無意識のうちに偶像を作り出すということは、いくらでもあるような気がします。

 最も気が付きにくい「偶像」の代表、それは「自分の思い」なのではないでしょうか。
 私たちには神のみことばによって、神の御心がすでに心に刻まれているのです。
 しかしそんな私たちはそれを横に置いて、自分の判断で物事を決定して歩んで行こうとする・・。
 それは自分の思考を偶像、すなわち最も頼るべきものとするという行為であるわけです。
 これが私たちにとって実に見えにくい「偶像礼拝」なんですね。

 前回も書きましたが、一つ一つのことを「自分の思い」に聞き従うのではなく、主のことばに聞きながら歩む・・、そのことこそが、偶像礼拝から私たちを守ってくれるのです。 

 みことばには、私たちを矯正し、主の怒りを受ける者ではなく、主に喜ばれる者として歩ませる力があるのです。(2テモテ3:16参照) 


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.01.19.Fri 11:09 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」"
 出エジプト記 32章2節

 民はモーセが四十日も帰ってこないので、人々がアロンに、「別の神々を造ってくれ」と言ったことに対するアロンの答え・・それが今日の箇所です。

 驚くべきことに、アロンは民の要求に応え、金の子牛の鋳物を作ったというのです。
 そして民は「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたがたの神だ」と言った・・。
 そしてアロンは祭壇を築き、民はそれに全焼のささげ物をし「交わりのいけにえを供えた」というのです。(3-6節)

 偶像を作り、それにささげ物をし、交わりのいけにえを供えた・・ということは、霊的な解釈をするならば、神以外の霊、すなわち悪霊との交わりの合意をしたということになります。
 アロンがしたことは、考えられる限りの最悪のことでした。

 アロンに対する民の要求・・、それは霊的な解釈をするなら「悪魔の声」です。
 そして民のことば「これがあなた方をエジプトの地から導き上った神だ」・・、これも悪魔の声であり、悪魔の最大の得意技である「嘘」です。
 そしてこの悪魔の声は、人々すなわち「この世の常識の世界」から発せられたものであるわけです。

 アロンはモーセの留守の間、指導者としての務めを果たすべき者であったにもかかわらず、それにまんまと引っかかってしまったのです。

 私たちの日常生活においても、そのような悪魔の声は常に耳元でささやかれています。
 しかも私たちは、そのような声にうっかり聞き従ってしまったりするのです。
 そんなときに私たちがもし「神に聞く」という姿勢をもっているなら・・、そのような危ない領域に入ることはないのではないでしょうか。

 アロンが神である主に聞くという姿勢を持っていさえしたなら、十戒の最初のことばを思い出して、こんなことは簡単に回避できたはずなのです。
 
 神に聞く・・それは私たちに与えられているみことばに耳を傾けることです。

 みことばに思いをはせ、常に主のもとに立つ者は守られるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.18.Thu 15:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」"
 出エジプト記 32章1節

 四十日間、待てど暮らせど帰ってこないモーセにしびれを切らして、民がアロンに言ったことば・・それが今日の箇所です。
 四十日・・それは、あの大きな奇跡を伴い、エジプトから導き出された神に対してさえ、何の望みもなくなってしまうような「長期間」だったようです。

 モーセが山に登る前、神がモーセに告げた十戒・・、その初めで主は、わたし以外にほかの神があってはならない。偶像を造ってそれらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
 わたしは、わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す・・と言われているのです。(20章3-6節・・抜粋)

 しかし本当のところ、この民は「聞いたけど、信じてはいなかった」んですね。

 私たちはこの民が私たちの姿そのままを映し出す鏡であることを、今までもずっと見てきました。
 そして今回も、私たちはそのことをはっきりと心の奥で受け止める必要があるのではないでしょうか。

 神である主は、私たちを決して見放さず、見捨てないお方なのです。
 たとえ四十日間、うんともすんとも答えが返ってこず、神に見捨てられたと思うような事態にあっても・・なんですね。
 それはある時には十年だったり、あるいは四十年だったりするわけです・・。

 彼らは十戒が告げられた時、「主の言われたことはすべて行います」と言っているのです。(24:3)
 そのことばの軽さ・・それが自分の内にもあるということを、今しっかり思い起こし、悔い改め、心を新たにし、主への信仰を今一度明確にするべきなのではないでしょうか。

 主は今生きておられ、あなたと共におられるお方なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.17.Wed 08:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。"
 出エジプト記 31章18節

 モーセが主の山に登る前、主は十戒とそれに伴う主の掟をモーセに告げられました。(20-23章)
 モーセはこれらのことばを書き記し、そのすべてのことを民に告げ、山のふもとに祭壇を築き、そこで全焼のささげ物をします。(24:3-5)
 そしてそのささげ物の血の半分は祭壇に振りかけられ、残りの半分は民に振りかけられるということを通して、民は主との契約の中に置かれました。(24:6-8)

 そしてモーセとアロンと、アロンの二人の息子と七十人の長老たちは山に登って行き、彼らはそこで「神ご自身を見、食べたり飲んだりした」とあります。(24:9-11)

 モーセが主のもとに登っていき、四十日四十夜そこにとどまることになったのは、このあとのことなんですね。(24:18)

 モーセは主の栄光の臨在のある雲の中での六日間じっと待ちます。
 そして七日目に主はモーセを呼ばれ、それから三十四日間、主はモーセに、礼拝に関するすべての細かい規定について語られるのです。
 その内容のすべてが25章から31章の17節まで、実に七章にわたって記され、そしてその最後の部分が今日の箇所です。

 25章から31章までを見るならば、これらの規定について、モーセがそれを理解しそれを頭にたたき込むのに、このくらいの時間は優にかかることは、想像に難くありません。

 実にモーセが神の山で過ごした四十日間というのは、イスラエルが神を礼拝する民として新しい出発をするための、そのすべての準備を整えるための期間だったということがわかります。

 要するにモーセが山で神から授かったのは、イスラエルの民が神である主を礼拝する民となるための、いわば完璧な設計図であったというわけです。
 こうして神の御名による新しい国家が誕生し、法令もすべて整い、新しい歩みが始まる・・。

 モーセは、神の指で書き記された石の板を持って、意気揚々と、晴れ晴れとした思いで民のもとに降りてゆくのですが・・、

 さあ、ジェットコースターに乗っているような、神の更なるみわざの始まりです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.16.Tue 10:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

"「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息(あんそく)を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。"
 出エジプト記 31章13節

 神である主はモーセに、会見の天幕とそれに伴う、礼拝に必要なすべてのことを具体的に指示し、そして実際に製作する人をも指名されました。(1-5節)
 そして最後に言われたのが今日の箇所です。

 わたしの安息(あんそく)・・それは週の七日目のことで、神が天地創造をされた六日間の後、七日目にはその創造のみわざを休まれ、完成させられたというところから来ているものです。
 ですから「安息を守る」とは、仕事はせずに、礼拝に心を集中させるという意味があるわけです。

 そしてこの安息を守ることは、「わたしとあなたがたとの間のしるし」だと、主は言われたのです。
 さらにそれは、「わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。」と、主は言われています。

 私たちはこの主によって、御子イエス・キリストの血潮によって聖別された者です。
 そしてこの安息、すなわち礼拝を守ると言うことが「主と私たちの間のしるし」だというわけです。
 このことをしっかり覚えるということは、言ってみれば最重要事項です。

 安息日というのは土曜日です。
 ですから、このイスラエルの民が行ってきたとおりに、土曜日を礼拝の日とするキリスト教会もあります。
 しかし一般的には、キリストがよみがえられた日曜日を「主の日」として、この日にこそ私たちは仕事を休んで、主に心を向けるべき日だとされているわけです。

 礼拝、それは仕事の二の次に行うべきものではないのです。

 そのことを自分の中にはっきり覚える時、私たちと神との関係は、具体的に深まっていくのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.12.Fri 09:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに次のように告げられた。
「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。
 それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠(いしょう)を凝(こ)らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。"
 出エジプト記 31章1~5節

 神である主は、モーセに、会見の天幕に関するあらゆる物事に関し、事細かく指示しました。そしてこの31章ではそれらを作るために主が人を名指しで召し、これらすべての物のデザイナーとしたというのです。
 その筆頭がベツァルエルという人でした。

 主はこの人がやることすべてにおいて、「神の霊を満たした」というのです。
 
 そして主は、ベツァルエルのほかにもすべて「心に知恵ある者」の心にさらに神の知恵を授け、天幕、証しの箱、宥めの蓋、香の祭壇、すべての備品と道具、ささげ物のための用具、式服、注ぎの油、香を作るようにと言われたわけです。(1-11節)

 神である主は、これら礼拝に関わるすべての物について、細かい指示はしたものの、その上でこれらの人たちが、与えられたイメージを用いて制作するようにされたのでした。

 わたしがわたしの霊を注ぐのだから、その人たちはそれに従って、思いっきりやれば良いのだ・・と。

 私たちは、神に呼ばれ、神の霊に満たされた者とされて、この世に置かれた者です。
 そしてその私たちが何をするかについては、あなたは御霊によって自由にデザインをすれば良いのだというわけです。

 「心に知恵ある者」・・それは神の光の中にとどまっていようとする者で、神はそのような者を御霊で満たすと言っているのです。

 私たちが人生をデザインするためには、神と共に歩むことを願い、御霊を豊かにいただくこと・・これが第一なんですね。

 私たちは神に「名指し」で呼ばれた者・・。
 それは私たちを、この世に於いて「神を表すデザイナー」とするためなのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.01.11.Thu 10:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」"
" これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」"
 出エジプト記 30章 33,38節

 主はモーセに「聖なる注ぎの油」の調合法を教えられました。
 そしてそれを会見の天幕に関わるすべての備品に注ぎ、またアロンとその子らに注ぐなら、彼らも会見天幕の中のすべての物も「最も聖なるもの」となる・・と、主は言われました。
 そしてもう一つ、主は「聖なる香(こう)」の調合法も教えられ、それは証しの箱の前に備える「最も聖なるもの」であると言われました。(23-36節)

 そしてこの注ぎの油も香も・・それらは主がモーセに、言われた通りに作るように具体的に命じられたもので、もし「それに似たもの」を勝手に作るなら・・その者は死罪に当たると主は言われた・・、それが今日の箇所です。

 ところで私たちは、主から与えられた救い主、神の御子イエス・キリストによって、神の子とされた者です。
 そして、このイエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために十字架で血を流され、私たちが古い自分に死に、新しいいのちに生きるために、キリストご自身が、その死とよみがえりとなってくださった・・。
 これらすべては、完全に神から提示された「救われるための道」なのであって、それは人が考え出したものではないのです。

 ところが世の中には、実に多くの異端と言われる「似たもの」が横行しています。
 彼らは、神が上から与えられたこの救いを自分勝手な考えによって作り替えて、それを救いだと言ってはばからないのです。
 統一教会、エホバの証人、モルモン教などはその代表格ですが、これらはすべて「似たもの」に過ぎず、神の救いすなわち、罪の赦しと永遠のいのちを人々に受け取らせる力はどこにもないのです。

 似たものをつくる者・・それは死罪に当たる。
 すなわち、これらの教えによっては、人々の元々の姿である「滅び行く者」を免れることは決してないということです。
 尤もこれらの「似たもの」は、「十字架」を掲げることはできないことをちゃんと自覚しているようですね。

 私たちは、神が与えてくださった救いをそのまま受け取ることによってのみ、罪赦され、神の子とされ、永遠のいのちをいただくのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2024.01.10.Wed 09:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。彼らが死ぬことのないようにするためである。また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、
 その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟(おきて)である。」"
 出エジプト記 30章20~21節

 彼らとは、アロンとその子らです。
 彼らが会見の天幕に入る時、天幕と祭壇の間に置かれた青銅の洗盤に入れられた水で、手と足を洗うようにと、主は言われました。
 また、ささげ物のために祭壇に近付くときにもそのようにせよと・・。
 それは、「彼らが死ぬことのないようにするため」だというのです。
 しかもそれは、代々にわたる永遠の掟である・・と。

 それは結局、「王である祭司」とされた私たちクリスチャンにも引き継がれるべき掟(おきて)であるわけです。

 天幕に入る時・・、
 それは、私たちが神に向き合って祈ろうとする時のことです。

 その時に手と足を洗う・・。
 それは普段のまま神の前に立つのではなく、手と足を洗った者として主の前に出よという意味になるわけです。
 私たちは神の前に出るに、その心がふさわしい状態かを顧み、そしてふさわしくないものが心にあるのを見たなら、それは主の十字架の前に下ろして主の赦しの中に自分を置き、それから神の前に出よ・・というわけです。

 神は全きお方、聖いお方・・、
 私たちはイエス・キリストの血潮を通して初めて、主の前に出て祈ることが許された者なのです。
 罪を残したままで神の前に祈ることはできないのです。

 それは「死ぬことのないようにするため」・・。
 死ぬとは、神との関係が無効になるということです。

 私たちは神の前に出ようとする時、その都度自分自身の心を点検する必要があり、そのようにして神の前に出る時にこそ、生ける神との交わりがあるのだということをしっかり覚えたいものです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます) 
 
 
2024.01.09.Tue 11:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)


" イスラエルの子らから償(つぐな)いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、あなたがたのたましいに宥(なだ)めがなされたことに対する、主の前での記念となる。」"
 出エジプト記 30章16節

 イスラエルの子らは、登録のために全員等しく半シェケルの銀を納めるようにと、主は定められました。
 それは、納める者の存在がみな等しく、主の前に覚えられるためでした。
 今日の箇所は、それに続く主のことばです。

 こうして納められた銀は「会見の天幕の用に充てる」ように主は言われました。
 民はみな等しく、この会見の天幕を通して神である主の恵みと導きをいただいているのだということを、その心の内にも確かなものとなるために、すべての人はこの銀を納めなければならないと言われたのです。

 そして主は、このささげ物が、「イスラエルの子らにとって、あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる」と言われました。

 半シェケルを納めるというのは、主が命令されたことに応えて、自分が行う行為です。
 そのことによって、自分のたましいに宥めがなされた、すなわち神と共に歩むことが許されたことを覚えることができるというのです。

 これもクリスチャンの生活の一つの型だと考えると、半シェケルを納めるというのは、「献金」です。
 そしてその献金は、教会の用に充てるために用いられるわけですが、それはみなが等しくする・・。
 それは金額ということよりも、自分の心で自分が決めたとおりにする・・ということにつながります。
 そしてそのこと、すなわち献金によって、その都度私たちは、自分が神と共に歩む者とされていることを思い起こすことができるのだというわけです。

 ささげ物、それは私たちの信仰を強くしてくれるものなんですね。

 祈りも、礼拝も、みことばに従うことも、そしてささげ物も・・、それらはすべて私たちひとりひとりと、神である主との関係を深めるものなのです。

 ここに教会の生活の意味があるのです。

 そしてそこに、主からの祝福、すなわち私たちが、「栄光から栄光へと、主と同じ形に変えられていく」道があるのです。(2コリント3:18)


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.05.Fri 07:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたがたのたましいのために宥(なだ)めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、富む人も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい人もそれより少なく払ってはならない。"
 出エジプト記 30章15節

 聖書の中には、人に対するその価値の神の見方を表している御言葉が多く見られます。

 主はモーセに、200万人の民を登録せよと言われました。
 各自は登録するに当たり「自分のたましいの償(つぐな)い金を主に納めなければならない」と。
 それは、富む者も貧しい物も等しく半シェケル(最も一般的な銀貨一枚)だと。

 そしてそれは「彼らにわざわいが起こらないようにするためである」というのです。(12-13節)
 すなわち、ひとりひとりの存在は、神にとって同等であることがここでは示され、そのひとりひとりの上にある神の御心は「わざわいが起こらないように」と、ここでは記されているのです。

 神の御心は、私たちひとりひとりが神につながることに関して、そこに優劣の差は一切ないというのです。
 これはまさに、私たちひとりひとりがイエス・キリストによっていただいている神の恵みそのものなんですね。

 イエス・キリストはあなたのために、そして他のすべての人たちのために、十字架にかかられ罪のためのあがないとなってくださったのです。
 そこに優劣の差はないのです。

 そのことを私たちはどれほど心に受け止めているでしょうか。
 そしてそれは、自分自身はもちろんのこと、目の前にいるひとりひとりの人の上にも同等なのだということを、私たちは決して忘れないようにしたいものです。

 この場所にいつもしっかり立つならば、私たちはどのような人をも、ただ愛することしかできないことがわかるのです。

 主の愛・・等しく降り注がれている主の愛を知ることこそが、私たちが「愛する者」となるための要(かなめ)なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2024.01.04.Thu 09:37 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

明けましておめでとうございます。

旧年中は、この聖書のことばを受け取っていただき、まことにありがとうございました。

今年も配信を続けていく所存でございますが、今年は休むことも必要である旨、主からの示しをいただき、G-Cafe 聖書のことばの今後の配信のペースは、毎週火曜から金曜日までの四回とさせていただくことにしました。

尚、今年は明日の四日から配信を始めさせていただきます。
また、YouTube「GraceCafeたいむ」は、二月より配信を再開したい所存でございます。

ということで、今後とも「G-Cafe 聖書のことば」「GraceCafeたいむ」をお受け取りいただけますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

God Bless You !
2024.01.03.Wed 12:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
GraceCafeたいむ・・

毎週土曜日をアップの日としておりましたが、大変申し訳ありません。
今週はお休みとさせていただきます。

今年一年、「GraceCafeたいむ」をご覧いただき、ありがとうございました。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

良い年をお迎えください。

God Bless You !
 
 
2023.12.30.Sat 12:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" アロンは年に一度、その角の上で宥(なだ)めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」"
 出エジプト記 30章10節

 祭壇の香から立ちのぼる煙・・、それは私たちの祈りを象徴するものであることを前回学びました。
 ならば今日の箇所は、私たちの祈りの中で最も聖なるものが示されているということになります。
 
 それは年に一度の「血による宥め」であり、しかもそれは「代々にわたって」、すなわち永遠に毎年行われなければならないというのです。

 そしてそれは、「主にとって最も聖なるもの」である・・と、ここには記されています。
 結局それは、民と神との関係を保証する最も重要な事柄であるということを意味するわけです。

 新約聖書に、こんなことばがあります。
" しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。" (ヘブル9:11-12)

 今日の箇所にある、幕屋の祭壇でささげられる「最も聖なるもの」・・、そのささげ物こそが、イエス・キリストがご自身をささげ物とされたことによって、最早(もはや)毎年それをする必要はなく、永遠のあがないを成し遂げられたことを示す型であるわけです。

 私たちがささげる香・・すなわち私たちがささげる祈りの中で最も聖なるものとは、このキリストによるあがないをその都度覚えるということにほかなりません。

 私たちは祈るごとにまず、このキリストのあがないを覚え、そのことだけが根拠となって、私たちは神のもとに帰る者とされたことを覚え、主に賛美と感謝をささげる・・、これが祈りの入り口なんですね。

 
 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2023.12.29.Fri 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。
 アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、煙を立ち上らせる。これは、あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。"
 出エジプト記 30章7~8節

 契約の箱がある一番奥の場所を至聖所(しせいじょ)と言い、それは幕で仕切られ、その手前の場所を聖所と言います。
 その場所に今度は「香をたくための祭壇」を作るようにと、主は言われました。(1-6節)
 
 香をたくための祭壇はおよそ45センチ幅の正方形で、高さはおよそ90センチ。これも純金がかぶせられ、四隅には角(つの)が配置されていました。
 朝ごとに前夜から付けてあったともしびを整え、そしてこの祭壇で香をたき、煙を立ち上がらせるというのがアロンに与えられた役割でした。
 そしてそれは夕暮れにともしびをともす時にも、香をたいて煙を立ち上がらせる・・。
 このようにして、朝ごとに夕ごとにともしびを整え、香をたく・・。

 これは実は、「王である祭司」とされる私たちにも課せられている仕事なんですね。

 香とは祈りのことです。(黙示録5:8参照)
 私たちは朝ごとに、主に祈りの香をたくのです。
 そして夕にも・・。それは一日の終わりにも主に祈りの香をささげるということです。

 それは私たちクリスチャンを確かな者とするために、他の何物にも優先させて必要なことであることをここでは教えているのではないでしょうか。

 主との関係・・それがまず第一なのです。
 そしてそのあとに、必要なもの・・、それは付いてくるのです。

 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイの福音書 6:33)

 この一言に尽きるのです。


 アーメン(真実なり)

 
2023.12.28.Thu 11:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。 
 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。
 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。
 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。"
 出エジプト記 29章43~46節

 29章で主は、アロンとその子らを祭司として任命するための儀式について事細かく語られています。
 まず、その時着るべき装束、いけにえの犠牲と、そこで行われるべきすべてのこと・・。
 それはすなわち、これらの任務をアロンに与えたのは主だということを、民のすべての者が認識するためのものでした。

 そしてこの儀式を経てこの場所すなわち天幕は聖なるものとされ、この場所で「わたしはイスラエルの子らと会う」と、主は言われたのです。
 このとき以来、神はこの天幕と、そこに立つ祭司による礼拝の中に、ご自身を現されるようになるわけです。

 そしてエジプトからこの民を導き出したのは、神と直接交わる民としての歩みを、ここからスタートさせるため。
 そしてそのことによって、イスラエルの民は生ける神と直接交わる民となったのだということを「知るようになる」・・。これが今日の箇所です。

 このことを私たちに置き換えて受け取るなら、私たちは礼拝を続ける歩みの中で、私たちが主と直接交わる「神の民」となったのだということ,そしてそれは御子イエス・キリストのあがないのみわざによって実現したのだ、ということを「知るようになる」という意味と重なってくるわけです。

 今まで神とは何の接点もなかった者が、神の栄光の領域の中に移された者となったのだということを、私たちクリスチャンはしっかりと認識するべきなのではないでしょうか。

 主は言われているのです。

 「わたしは彼ら(あなた)の神、主である」・・と。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2023.12.27.Wed 11:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。"
 出エジプト記 28章43節

 神である主は、アロンとその子らが会見の天幕にはいる時に着る装束(しょうぞく)を、神のことばによって定め、それを作るように仰せられました。

 そして、これを着なければならないの、は「彼らが咎を負って死ぬことのないようにするため」だというのです。
 そしてそれは、彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である・・と主は言われたというのが、今日の箇所です。

 これを着るなら、彼らは咎を負って死ぬことはない・・。
 彼と彼の後の子孫とは、祭司たちのことです。

 ここで主は、それが永遠の掟であると言われました。
 しかし、この祭司の役割は、イスラエルの民が滅んだと同時にそれも途絶えてしまっています。

 しかしこのことばは、私たちクリスチャンにとっては、そのまま受け取ることのできるみことばなんですね。

 私たちは御子イエス・キリストの贖いのみわざによって、神の子とされ、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」(1ペテロ2:9)
 私たちは実に、ここの永遠の掟の中にある祭司なんですね。
 では、この装束とは何のことでしょうか。

 それは他でもない、イエス・キリストという装束なのです。

"キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。" (ガラテヤ3:27)

 私たちはこの装束を着ないでは「咎を負って死ぬ」のみなのです。

 ところが今や、私たちはこの永遠の装束であるイエス・キリストを着て、神の聖所で仕える者とされたのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2023.12.26.Tue 08:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。"
 出エジプト記 28章3節

 神である主は、会見の天幕すなわち幕屋を作るに当たって、そのすべてを事細かく指示されました。
 そして次には、この幕屋で仕える人々について、主は語られました。

 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たち四人をあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。・・これが1節、すなわち祭司に関する規定で、この28章ではその代表者としてのアロンが着る装束について、主は事細かな指示をされています。

 その装束は下着からかぶり物まで、すべてを主が指定されています。
 その装束の材料としては、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布、十二種の宝石、純金の鎖・・・。

 そして注目したいのが今日の箇所・・、この装束を作る人たちについての主のことばです。

 知恵の霊に満たされた者・・、心に知恵ある者・・。

 神である主は、ご自分がされたいことを人々の前に現すために、「わたしが知恵の霊を満たした者、心に知恵ある者」を選ばれ、用いられるというのです。

 それは何も、このアロンの装束に限ったことではありません。
 神は人を用いられる時に、御霊によって知恵を与えられ、それを第一のよりどころとする者、すなわち「心に知恵ある者」を選ばれるのだということがわかります。

 今の私たちにしてみるならば、それは聖霊に満たされ、その聖霊によって与えられたものをとにかく第一の根拠とし、すべてを行おうとする者・・そういう者の上に、主はご自身の栄光と御力を現されるということなのではないでしょうか。

 私たちは主から与えられる知恵の霊、すなわち聖霊によって、神のしもべとして働く者とされるのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

※ 以下、アロンの装束

2023.12.25.Mon 12:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。"
 出エジプト記 27章21節

 主はモーセに、まず契約の箱を作るように命じられ、それに続いて神を礼拝するための様々な設備について、事細かく指示をされました。(25-27章)

 種々の道具、純金の燭台、そして聖所をおおう天幕、すなわち幕屋。
 幕屋をおおう天幕は12メートル×18メートル。さらにその上に掛ける、一回り大きな「やぎの毛の幕」、そしてさらにその上に掛ける「赤くなめした雄羊の皮の覆い」。

 そして幕屋の骨組みである板とその台座。幕屋の中を仕切る、ケルビムが織り出された垂れ幕。幕屋の入り口のための垂れ幕。
 そして祭壇とささげ物のための道具。
 さらに27章からは幕屋の外側の庭について、その外側を仕切る幕についても、細かな指定がされています。

 こうして作られた幕屋では、ともしび用の純粋なオリーブオイルで、常にともしびをともしておかなければならない・・と主は言われました。
 そしてそのともしびは、アロンとその子ら、すなわち祭司が「夕方から朝までそれを整える」・・と、これが今日の箇所です。

 夕方から朝まで・・、それは人々が眠っている間ということです。

 祭司はこのように、民のために神との関係をつないでおくために、民が寝ている間にも、こうして主の前に出て働かなければならなかったわけです。
 そして机の上の臨在のパンが「絶えずわたしの前にあるように」 (25:30)・・とも言われていて、これも祭司が整えるものでした。
 
 実はこれこそが、私たちの主イエス・キリストが私たちのために、なさってくださっていることなんですね。

 我らの主は、私たちが起きていても寝ていても、父なる神様との関係をつなぎ続けるために、私たちの内に聖霊のともしびをともし続けていくださっているのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2023.12.25.Mon 12:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
188.jpg

今週の「たいむ」は・・

【恵みの時代の到来】・・です。

https://m.youtube.com/watch?v=VhUbJR7Ir4Q&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA

God Bless You !
2023.12.22.Fri 18:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。"
 出エジプト記 27章21節

 主はモーセに、まず契約の箱を作るように命じられ、それに続いて神を礼拝するための様々な設備について、事細かく指示をされました。(25-27章)

 種々の道具、純金の燭台、そして聖所をおおう天幕、すなわち幕屋。
 幕屋をおおう天幕は12メートル×18メートル。さらにその上に掛ける、一回り大きな「やぎの毛の幕」、そしてさらにその上に掛ける「赤くなめした雄羊の皮の覆い」。

 そして幕屋の骨組みである板とその台座。幕屋の中を仕切る、ケルビムが織り出された垂れ幕。幕屋の入り口のための垂れ幕。
 そして祭壇とささげ物のための道具。
 さらに27章からは幕屋の外側の庭について、その外側を仕切る幕についても、細かな指定がされています。

 こうして作られた幕屋では、ともしび用の純粋なオリーブオイルで、常にともしびをともしておかなければならない・・と主は言われました。
 そしてそのともしびは、アロンとその子ら、すなわち祭司が「夕方から朝までそれを整える」・・と、これが今日の箇所です。

 夕方から朝まで・・、それは人々が眠っている間ということです。

 祭司はこのように、民のために神との関係をつないでおくために、民が寝ている間にも、こうして主の前に出て働かなければならなかったわけです。
 そして机の上の臨在のパンが「絶えずわたしの前にあるように」 (25:30)・・とも言われていて、これも祭司が整えるものでした。
 
 実はこれこそが、私たちの主イエス・キリストが私たちのために、なさってくださっていることなんですね。

 我らの主は、私たちが起きていても寝ていても、父なる神様との関係をつなぎ続けるために、私たちの内に聖霊のともしびをともし続けていくださっているのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
  
2023.12.22.Fri 10:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" その『宥(なだ)めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。
 わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。"
 出エジプト記 25章21~22節

 主は山の上でまず、アカシア材の箱を作るよう、モーセに命じられます。
 長さ約120センチ、幅約75センチ、高さ約75センチ。
 そしてそれに純金をかぶせ、そのデザインも神は指定されます。
 そして金の輪を四つ付けて、そこに二本の金をかぶせた棒を差し込み、担(かつ)げるように作る。
 そして「宥(なだ)めの蓋」を作る。
 その蓋の上には二つの金のケルビム(天的存在の象徴)・・、その二つは互いに向き合い、大きく翼を広げ、この二つのケルビムの翼で箱全体をおおうほどの大きさ。
 そしてその顔は箱の方を向いている・・、すなわち下を向いて大きく翼を広げいてる二頭の鷲が向き合って、その翼で箱全体をおおっているというイメージでしょうか。
 そしてその箱の中には、主がこのあとに与えられる「さとしの板(十戒が刻まれた石の板)」を納める。(10-22節)
 
 これは後に「契約の箱」と言われるものであり、この契約の箱のことが記されているのは、ソロモンの神殿に納められたというところまでです。(第二歴代誌5:7)

 ですから、旅で移動する時には、祭司たちがこの契約の箱を担ぎ、そこが常に神の臨在を象徴する場所であったわけです。
 そして分厚い幕で仕切られた、この箱が置かれている一番奥の場所を「至聖所」と言います。
 この至聖所には大祭司しか入れませんでした。

 イエス様が十字架にかかられて、息を引き取る前に「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とあります。(マタイ27:51)
 これこそ、至聖所の存在が終わり、神と私たちとの関係が、完全に変えられたその瞬間だったわけです。

 それまでは大祭司しか神のみまえに出ることができなかった・・、それが今や私たち自身が神から受けた聖霊の「宮」であり(1コリント6:19)、私たちは「王である祭司」となる者とされたという、新約の時代に入ったのです。(1ペテロ2:9)


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
 
 
2023.12.21.Thu 09:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。"
 出エジプト記 25章8~9節

 主が示されたささげ物によって、まず最初に作るように命じられたのは、聖所すなわち、「幕屋と幕屋のすべての備品」でした。
 幕屋とは、主を礼拝するその場所で、旅の移動に伴い、その都度設営し、またたたんで移設できるというものでした。

 ここで重要なポイントは、幕屋やそれに伴うすべての品は、主が命じて、主がデザインをされ、主が言われた通りに造られたという点です。

 そしてそのようにするなら、「わたしは彼らのただ中に住む」と主は言われたのです。
 
 わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない・・。

 神を礼拝するそのシステム・・それは、人から出たものではないということがここで明確にわかります。

 すべては神から発しているのです。

"すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。" (ローマ11:36)

 神とは、私たちの全頭脳をもってしても把握することのできない、全能の神です。
 そしてその神を礼拝するという風に、神は私たちをそのように造られたのです。

 その「私たち」とは、神の「似姿(にすがた)」として造られた者なんですね。

 そして神は、神から離れてしまっている私たちを、その本来の姿に戻すために、御子キリストを遣わされ、私たちが、神を直接的に礼拝することができる者としてくださったのです。

 神・・それはあがめられるべき方。礼拝されるべき方。

 そして人は・・神を礼拝するべき者なのです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2023.12.20.Wed 06:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

" 主はモーセに告げられた。
「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。"
 出エジプト記 25章1~2節

 モーセは山に登り、主と対面して、主から具体的なことばをいただくのですが、そのはじめは「奉納物を携えてくるように」ということでした。

 主が指定された奉納物の内容を見ると、それは次のようなものです。
 金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石。

 このあと主が語られたことからわかることですが、これらはすべて神を礼拝する幕屋の建設とそれに伴う種々の道具、祭司のための衣服など・・、すべてが礼拝のために必要なものです。

 そしてそれは「進んで献げる心のある人から」受け取らなければならないというのです。

 私たちは教会でささげ物をします。
 それはすべて教会の運営のためですが、実質的には教会がそのなすべき務め、すなわち礼拝と、それに伴う聖徒の交わりのために必要なすべてのもののためなのです。
 そしてそれらは「進んで献げる心のある人から」受け取りなさい、と言われているわけです。

 献金は義務ではなく、喜んでするもの、そしてそれが主への心からのささげ物であることをはっきり覚えてなされるべきもの、すなわち礼拝なのです。

 ですから、この献金はある種のバロメーターともなります。
 それは、自分がどれほどに主を慕い、愛しているか・・。
 それを献金によって自分の内に確認することができるんですね。
 献金(ささげ物)は、私たちの信仰を強めてくれるのです。

 教会が、主を喜ぶ者たちであふれかえり、その活気で漲(みなぎ)るそのようなところとして成長することを、心から願うものです。


 ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

 
2023.12.19.Tue 10:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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