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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #24
  
【聖書-6 神の計画の全貌】

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。"
新約聖書 ヨハネの黙示録 21章1~2節

 これはヨハネの黙示録の、ほぼ最後の部分です。
 黙示録には、この世の最終シーンが克明に書かれています。その最後の最後で、神は現在の天地をキャンセルされ、そして「天のエルサレム」という新天新地を用意されるというのです。

 その目的は、
 神のもとに帰る人々のために、
 永遠という次元の中、
 神ご自身の光といのちの中で、
 一切の暗いものが取り除かれ、
 神が与えようとされたすべてのものを享受する、
 そのような新しい世/新天新地を造る・・。

 千年王国という言葉を聞かれたことがありますか。これも黙示録の中に出てくるものですが、それは新天新地よりも前に、今のこの地上に実現するものです。それは神の民によって支配される平和の世界だというのです。そしてそれは千年で終わり、そこでそれまでに生を受けたすべての者への最終的なさばきがあり、その後に、この世とは全く異次元の「新天新地」が、永遠という概念の中にあるというのです。

 さばきという言葉が引っかかりますよね。
 この世においては、災難、不幸、迫害、戦争、差別などにより一度も良い目を見ないで死んでいく人。行い云々という余地もなく、弱いまま、小さいまま、貧しいまま、虐げられるままで死んでいく人が、数え切れないほどいます。
 そのような人は、このさばきの時には、どのように扱われるのでしょうか。  
 実はそのことについてははっきり書かれてはいません。しかし主は、そのような人々を決して忘れることのないお方であることは、福音書の中のイエス様を見ていれば自ずと分かります。あとは神に信頼して、その御手にお委ねするしかないんですね。死後のさばきに関する権威は、私たちの手の中にはないのです。

 それにしても、アダムがエデンを追われて以来の、決して平和とは言えない人類の苦難の歴史は、一体何のためだったのでしょうか・・ということになります。
 
 神の計画の全貌・・。ちょっと書ききれませんので、このあとは次回に回します。

 祈り・・「神様、私が今、何故この世に生かされているのか、私がどこへ行くのか、あなたがまことの神なら、それを私に教えてください。アーメン。」

 God Bless You !

 
2019.12.27.Fri 08:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #23

【聖書-5 見解のギャップ 】

"私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。"
新約聖書 ヨハネの黙示録 22章18~19節

 この言葉は黙示録の最後で、著者のヨハネが警告として書いているものです。
 この黙示録から一字一句、足したり引いたりする者は、ここに書いてある災いを受け取ることになる・・と。
 黙示録はとても難解な書で、聖書学者の間でも捉え方に幅がある書物です。しかし、ヨハネの警告は、この中の言葉は、その意味合いにおいて無駄な言葉は一つもないことを強調しているわけです。ですから、この黙示録を文学的な作品と捉えたり、読む者によってその意味違っても良いというような考えは、この最後の言葉には馴染まないものです。

 聖書の言葉の捉え方は、人によってかなり違うらしいということが、私は最近になってわかってきました。
 ごく大雑把に言いますと、聖書の言葉を字義通りに受け取るか、あるいはもっとゆるく受け取るか・・という二派に分かれるようです。
 どちらが正しいのかは、私が結論を出してもしょうがないことですが、もし、聖書の言葉を字義通りに取って、それでも筋が通るなら、私はそちらを選ぶべきだと思っています。もしそれで辻褄が合うなら、何も抽象的な解釈を施す必要はどこにもないからです。

 これは私の見解ですが、聖書は抽象的に捉える必要のあるところはない、という立場で読んだ方が、筋がはっきり見えてきます。

 このことは、いわゆる神学論争の世界ですので、そのようなところに立ち入りたくはありません。ですが、実際に読み方については相当に幅があることも事実です。では、そのような事実をどのように受け止めたら良いのでしょうか。

 その答えは明確です。どのような読み方であろうが、その人がイエス・キリストを救い主として信じて、新しく生まれ変わり、喜びと愛に満たされて歩むようになるなら・・、読み方を論じる必要はないと思います。
 ただ、私が聖書を読み進めていく中で思わされたことは、そこに書かれていることばは、思っているよりも遥かにきっちりと意味をもって書かれているということなんですね。

 それはさて置き、聖書の言葉が初めから終わりまで、その矢印がしっかりと天の御国に向いている・・。そのような受け止め方は、聖霊によらなければ見えてこないことのように思われます。
 みことばは、御霊の助けをいただいて読むものである。そこがおさえどころなのではないでしょうか。
 ですから、聖書を読むときには、祈ってから読むことをお勧めします。

 祈り・・「神様、聖書を読むときは、どうかいつも御霊の助けを与えてください。アーメン。」

 次回は「聖書-6 神の計画の全貌」です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.26.Thu 06:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #22

【クリスマス】

"「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」"
新約聖書 ルカの福音書 2章14節

 これは、イエス様がお生まれになったときに、神の御使いと天の大軍勢が、野宿をしていた羊飼いたちに現れて、神を賛美して言ったことばです。

 私は、信仰を持って間もない頃、このみことばをクリスマスカードに書いて、沢山の友達に送ったことがありました。
 そうしたら、ある友達から返事が来て「みこころにかなわない人の上にも、平和がありますように!」と書かれていました。私はギャフンとやられて、返す言葉が見つかりませんでした。

 確かにその通りです。みこころにかなわない人の上に平和がありますようにというのは、父なる神の悲願なんですね。
 平和どころか、いのちを、いやしを、罪からの解放を、休みを、そして喜びと愛と永遠の希望を与えようと・・。それが神の悲願なのです。ところが人々は「あんたが神なんて、嘘っぱちだ」と言っているんですね。その上で、あんたが全能の神なら、みこころにかなわないオレだって、救えるんじゃないの?と言っているわけです。

 聖書の中でもそういう人を見ることができます。それは、イエス様が十字架に掛かられたとき、両側にも十字架に掛けられた二人の犯罪人がいたのですが、その一人です。
 彼は言いました。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と。(ルカ23:39)

 福音を語る上でいつも強調されるのは「人は行いによって救われるのではない」、そして「恵みにより、信仰によって救われるのだ」ということです。
 行いとは、神の前に良いと思われる行いのことですが、それによって救われるのではないというのです。でも信仰という「心の行動」は求められているんですね。そして「恵みにより」というのは、その心の行動だけで、すべての罪は不問とされて救われる、すなわち本来あるべき神との関係に立ち返ることができるのだというのです。
 ですから「自分を救え」と言った犯罪人は、この信仰の部分が欠けているのでアウトなんですね。

 一方、もう一人の犯罪人は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。
 そうしたらイエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。(ルカ23:42-43)
 この犯罪人は条件を満たしていました。イエス様をキリストと信じて、それをイエス様の前に口で告白したのです。

 神を信じないまま、救われることはないのです。

 クリスマスは、神が私たちの救いのために、御子を人の子として地上に送られたその日のことを覚え、神をほめたたえ、感謝をささげる日なんですね。

 皆さんのクリスマスが、感謝と賛美のクリスマスとなりますように!

 メリー・クリスマス!
 
 次回は戻りまして「聖書-5 見解のギャップ 」です。

 
2019.12.25.Wed 09:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)

G-Cafe 聖書のことば #21

【聖書-4 大前提】

"地の果てのすべての者よ。
 わたしを仰ぎ見て救われよ。
 わたしが神だ。ほかにはいない。"
  イザヤ書 45章22節

 聖書の大前提・・それは、聖書に書かれている神が本当の神なのである、ということです。
 
 聖書の神は、天地万物を造られた創造主なる神です。しかも「父・子・聖霊」という三つの位格を持った「唯一の神」です。
 その神ご自身が「わたしが神だ。ほかにはいない。」と、はっきり言われているのです。ならばそれは、本当か真っ赤な嘘かのどちらかでしかない、というわけです。

 以下は、イエス様が十字架に掛られる前に祈られたことばです。
"父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。"
 ヨハネの福音書 17章5節

 耳を疑われませんでしたか? イエス様は、世界が始まる前に、父なる神と一緒にいたと言われているのです。
 創世記1章には、天地創造の過程の中で、天と地と植物と動物を造られた後、さあ人を造ろうという時の神の言葉が記されています。
"神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」" (創世記 1章26節 前半)
 神は唯一なのに「われわれ」と言われているのです。でもそれは、イエス様が「あの時一緒にいた」と言われていることと一致しているんですね。

 そしてもうひとつ、創世記1章の2行目には「神の霊が水の面を動いていた」と書いてあります。この時点ですでに「神の霊」が登場しているわけです。

 唯一であり、しかも三位一体の神「父なる神・子なるキリスト・神の霊である聖霊」が、聖書には最初から言い表されているんですね。

 でもこれが聖書の「大前提」なのです。

 祈り・・「神様、あなたが本当に生ける神なら、まず私に信じようと思う心を与えてください。アーメン。」


 次回は「聖書シリーズ」をちょっと一休みして、「クリスマス」です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.24.Tue 06:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #20

【聖書-3 神の介入による歴史】

"確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」"
 創世記 22章17~18節

 聖書は神の霊感を受けて書かれたということだけでなく、時間軸に沿った歴史の中で、神がどのようにその中に介入してこられたかが書かれている書物でもあります。

 今日のみことばは、イスラエル民族の祖 ヤコブの祖父にあたるアブラハムに与えられた、神からの約束です。

 その約束の内容は、第一に「あなたの子孫」を大いに増やすというものです。この時アブラハムと妻のサラには、イサクという息子が一人いるだけでした。そこから千年余りで、栄華を極めるソロモン王国へと発展するのです。

 そして第二に、あなたの子孫は敵の門を勝ち取る、とあります。しかしイスラエルは結局、敵国に滅ぼされてしまうのです。また「敵の門」というのも不思議な言い回しです。実はこの「子孫」というのは、旧約聖書の中に多く出てくる「メシヤ=キリスト」のことなんですね。敵とは「サタン」を差します。
 敵の門とは、サタンが切り札としている死の力のことなんですね。それをイエス・キリストが取り戻すことの預言であるわけです。
 さらに、その子孫=キリストによって、すべての国々は祝福を受けるようになると言うのです。「すべての国々」ですから、それはイスラエルから異邦人へと、祝福の門が開かれたということです。もちろん私たち日本人も入るわけです。

 結局この17-18節の神の約束には、キリスト以前とキリスト以降の神の祝福の約束が、両方ともに記されているわけです。
 すでにこの時点で、アブラハムから始まり、世の終わりまでをも見据えた約束がなされているんですね。

 神の計画は初めからあり、人類の歴史はその計画に従って進めて来られ、そして未来に関しても、黙示録や旧約聖書の終末預言にある通り、神が介入される中で、終わりの時、さらに新天新地まで続くというのです。

 天地創造〜バベルの塔崩壊〜ノアの洪水〜出エジプト〜イスラエルの王国確立〜南北分裂〜民族の捕囚、帰還、神殿再建。
 キリスト降誕〜十字架〜復活〜教会誕生〜エルサレム神殿崩壊〜民族離散。
 イスラエル建国(1948年)〜そして終末。
 このすべての出来事は、紛れもなく神の介入によるものです。聖書に書かれている歴史は、神の介入の歴史なんですね。
 それを神は聖書を通して、ず〜っと言い続けておられるわけです。

 祈り・・「主よ、神のご計画のあまりの大きさは、私の想像力を超えています。どうかそのことの理解を、御霊によって与えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 次回は「聖書-4 大前提」です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.23.Mon 15:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #19
 
【聖書-2 神の霊感による】

"聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。"
新約聖書 テモテへの手紙 第二 3章16節

 聖書は、旧約と新約で完結します。聖書は、創世記に始まり黙示録まで、小さな書物66巻で出来上がっています。著者は約40人だそうです。書かれた期間は創世記から黙示録まで、ざっと1600年。

 普通ですと、師という存在がいて、それが弟子に受け継がれると、少し世界が変わり、またその弟子だとさらに変わるというのが普通のことですが、聖書においては、こんなに長期間、しかも殆どが子弟関係でもない40人の人たちによって書かれたのに、言わんとすることが創世記から黙示録まで、ブレることのない一本の太い線でつながっているんですね。

 今日のみことばには、聖書はすべて神の霊感によって書かれた、とあります。
 
 創世記を書いたのはモーセだと言われていますが、天地創造の際に、モーセはそこにいたわけではありません。
 また黙示録にはこの世の終わりのことが書かれていますが、著者のヨハネは、天からの啓示によってすべてを書いています。
 それから旧約聖書にはメシヤ(キリスト)に関する預言が300以上あると言われていますが、それは今から2000年前の「キリストが地上に来られた時代のこと」と、今から見ても未来のことである「キリストの再臨(再び来られる)の時のこと」の両方が含まれています。
 旧約聖書の記事は、少なくとも紀元前400年、あるいはそれよりもさらに昔の時代に書かれたものです。見ていないのに、はるか未来のことを著者は書いているわけです。
 さらにその旧約聖書には、終末(終わりの時代)の記事がいくつかありますが、それらと新約聖書の黙示録が、相互にその難解な部分を解き明かすのに助けになっているというのです。黙示録とは、キリスト降誕後の紀元90年に使徒のヨハネによって書かれたものです。
 なんだか、目眩がしてきそうです。

 要するに、1600年間を費やして、互いに知りもしない40人の人物によって書かれたこの聖書。そこには著者が実際に見ていないことまでも書かれていながら、その内容は一直線上に置かれていて、全部筋が全部通っているというのです。
 しかもこの40人はすべてイスラエル民族でありながらも、王もいれば漁師もいるという、実に様々な立場の人たちによって書かれているのです。

 これは、今日のみことば「聖書はすべて神の霊感によるもの」である、という以外に、説明のしようがないことです。
 聖書は少しもぶれることなく、最後まで太い線で貫かれているのです。

 もちろん神が生けるまことの神だからこそ、この説明は成り立つのです。

 もしお手元に聖書がありましたら、是非開いてみてください。1頁目の創世記から、又は新約聖書の「福音書」から読まれるといいかもしれません。あるところはちんぷんかんぷんですけど。(笑)
 しかしこれが、神の御言葉なら、あなたの目をも開いて、少しずつ言葉に光が差し込んでくるのだと思います。私がそうでした。

 祈り・・「神様、あなたのことはよくわかりせんが、聖書を開きます。どうぞ必要なところに光を当ててください。アーメン。」

 次回は「聖書-3 神の介入による歴史」です。

 God Bless You !

2019.12.22.Sun 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #18

【聖書-1】

 ここまでこの配信を読み進められて来られた方々には、ぜひ「有史以来のベストセラー」聖書を手にしていただきたいと思います。
 言うまでもありませんが、私は聖書の専門家ではありませんし、体系的に学んでいるわけではありませんので、あまり細かいことには触れません。
 ただ、私自身が聖書を読むに当たって、このようなポイントを理解していると、すごく楽に読めるということが、いくつかあります。それをご紹介したいと思います。

 まずその前に、聖書のごく基本的なことについてご紹介しておきます。
 聖書は、日本語に翻訳されているものだけでもいくつもあります。時代を追って、翻訳が見直されて改訂版が出ているものもあります。
 聖書は、初めて読む人には、確実にちんぷんかんぷんです。このシリーズが少しでも聖書を読む助けになれば、この上ない喜びです。

 まず、私たちが手にする、あの分厚い聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」とが合わさってできています。「約」という字は、翻訳の「訳」ではなく、契約の「約」です。旧約聖書は創世記の天地創造から、イエス・キリスト降誕以前まで(BC=before Christ)に書かれたもの。新約聖書はイエス・キリスト降誕以降(AD=Anno Domini/主の年.ラテン語)に書かれたものです。なぜ旧約と新約かというと、神との約束(契約)の対象が、選民イスラエルから全世界のすべての民へと移行したということ。それを旧約/新約という言葉は表しています。
 ですが、新しい契約(新約聖書)は、古い契約(旧約聖書)を理解して初めて、その意味が明確になってくるんですね。
 
 聖書について話そうと思うと、あまりにいろいろなことがあって、何から話して良いのやら、とても迷います。
 先ずは、聖書全体を見たときに何が見えてくるかということを、書いて行きたいのですが、それは次回以降ということで、続けて目を通していただけたら幸いです。

 聖書は一般の書店にもあります。もし初めて買われるなら、主な所では新改訳第三版、新改訳2017、新共同訳、口語訳などがあります。内容は全く一緒ですが、訳された言葉が微妙に違うところがあります。また解釈も微妙に違ったりしていることもあります。
 聖書の翻訳は、学者間でも意見が違うところがありますので、どの聖書がお勧めということは言えないのですが、このメッセージでは主に新日本聖書刊行会の新改訳2017から引用させていただいています。

 キリスト教書店というのが都内には、私が知るだけでも5箇所あります。また各地の大都市にも、ひとつはあると思います。ネットでお調べいただければすぐにわかります。これらの専門書店では様々な信仰書や、賛美歌、CDなども見ることができます。
 またスマホなどにダウンロードできる聖書アプリも各種そろっています。これらのアプリの長所は、どんなに細かい語句でも検索できるという点です。また聖書注解が添付されているものもあります。

 是非お調べいただいて、聖書をお手元に置いてください。

 それでは、今日も良い一日を!

 God Bless You !
 
 
2019.12.21.Sat 11:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #17

【 聖霊-6 ともしび 】

"そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。"
新約聖書 マタイの福音書 25章1~3節

 この話は、イエス・キリストが再び迎えに来られる時のことです。その時、ともしびは持っていたけれども、油を用意していなかった「愚かな娘」の話です。ともしびとは聖霊のことです。

 愚かな娘と賢い娘はどちらも、ともしびは持っていました。聖霊はイエス・キリストを主として信じた者の内に住まわれる、神なる存在、内に燃えるともしびです。ですから、愚かな娘も賢い娘も、どちらもクリスチャンです。

 パウロはこう言っています。
"勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。" ローマ人への手紙 12章11節

 霊に燃えているとは、聖霊の火がいつも燃え上がっていて、聖霊との関係を日々深めようとする人の有様です。
 聖霊はクリスチャンの一人一人を、この世で特別な役割を果たすように導かれます。その役割というのは、人によっていろいろです。でもそれらはすべて、人々があなたを通して、そこに神を見るために与えられた役割なんですね。
 でもそれは自分の努力や誠意、力や頑張りによってできるようなことではありません。私たちの内にそんな力はもともとないのです。
 それはただ、聖霊の促しに耳を傾けて、従って歩むことによって実現するのです。しかも、従う力や従いたいという思いさえも、聖霊によって与えられるのです。だからとにかく聖霊を求める・・これが第一にするべきこと、ということになりますね。

 せっかくともしびをいただいているのに、それを高く掲げ、いつも光輝くようにしようとはせず、人の見えないところに置いて、それを無用なものとして取り扱ってしまう・・。それが入れ物に油を用意しなかった愚かな娘だというわけです。すなわち、聖霊を求めない人です。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(ルカ11:9) とは、聖霊のことを言っているんですね。

 聖霊は、信仰生活の要です。

 結論は、聖霊を求めなさい・・です。

 祈り・・「主よ、あなたとの関係を深めるということの意味が、私に分かるようにしてください。そしてそのためにこの私を聖霊で満たしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 これで6回にわたる「聖霊」は終わります。
 次回から「聖書」です。

 God Bless You !


 ※ 聖書のメッセージを初めてお読みになる方は、#1からお読みになることを、お勧めします。
2019.12.20.Fri 07:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #16
 
【聖霊-5 平安】

"わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。"
ヨハネの福音書 14章26~27節

 平安・・これも聖霊の働きなんですね。パウロはこのように言っています。
"肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。"
 ローマ人への手紙 8章6節

 この平安は、世が与えるのと同じように与えるのではない、とイエス様は言われました。世が与える平安というのは、私たちが平安になるために、なんらかの理由がくっついているというものです。例えばお金が十分にあるとか、良い会社に入ったとか、病気が一つもないとか、、何か安心材料があった上での平安なんですね。でもイエス様は「そのようには与えません」と言われました。ではどのように与えられるというのでしょうか。それは一言で言えば、不安材料の中での平安です。

 主が与える平安は、状況とは関係ないということなんですね。
 クリスチャンだって平安を失ってしまうことはいくらでもあります。でも、どうにもならない絶望的な状況の中で、心配もあるんだけど不安がない・・。その不思議な感覚は、私も体験することがありますし、そのような話は多く聞きます。
 八方塞がり、絶望という時に与えられる平安・・、それを手にするとき、私たちは状況がどんなに悪くとも神がここに働かれて、すべての壁を打ち破られることを予感するんですね。だって平安なんですから。

 神は私たちにこう言ってくださる方なんです。聖書のことばを三つご紹介します。

"主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。"
 詩篇 138篇 8節

"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"
 ローマ人への手紙 8章28節

"強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」"
 申命記 31章6節

 神との交わり、御霊との交わり、みことばとの交わりを深める時に出会うのが、この「平安」なんですね。

 祈り・・「主よ。あなたの御名をほめたたえます。あなたはどのような山や谷や暗闇の中でも、私たちを平安の内に、完全な勝利へと導いてくださるお方です。私の信仰を強め、聖霊を豊かに注いでください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 次回は「聖霊-6 ともしび」です。

 God Bless You !

  
2019.12.19.Thu 06:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #15
 
【 聖霊-4 神の計画 】

"こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。"
新約聖書 使徒の働き 16章7節

 聖霊は、私たちの歩み、また神との関係に於いて、神と深く関わるように私たちを教え、導かれる方です。
 一方、今日のみことばには、私たちを助け成長させてくださる方としてではなく、神の側の計画のために人を直接導くという、聖霊の働きの別の一面が書かれています。
 パウロは現在のトルコ一帯を宣教のターゲットとして考えていました。ところがそこに聖霊の介入があって、ギリシャ北部のマケドニアの方に行くように導かれたというのです。これは神の側の計画のために、聖霊が人を導かれたということです。

 またこのようなこともあります。神は特別に人を選んで、ある働きをさせるんですね。それは、牧師や宣教師などの働きをさせるために、神=聖霊は人を選んで、逆らうことができないほどの熱い献身の思いを与えるというものです。献身とは、神に自分の生涯をささげるということです。私たちはこれを「召命」と呼んでいます。神が人を用いる際には、聖霊がその人に直接強く働きかけるというわけです。

 また神は、歴史上のある時期に「信仰復興=リバイバル」という特別なことをなさることがありました。それは、キリストが天に上げられた後に聖霊が激しく臨んで、救われる人がものすごい勢いで加えられて行ったように、近代に於いてもそのようなことがいくつもあったというのです。それはひとつの教会に於いてであったり、地域に於いてであったり、ものすごい時には国という規模で見られたという記録があります。それを私たちは信仰復興=リバイバルと呼んでいます。
 リバイバルとは、人々の上に聖霊が圧倒的に臨むという出来事で、人々は神の威光と愛の中で、自分の罪や汚れを目の当たりにして、居ても立ってもいられないような悔い改めが、ものすごい勢いで広まっていくというのです。それは人の宣伝とかアピールとかによるのではなく、神のわざとしか説明のしようのない出来事です。
 リバイバルの時のような悔い改めがあるならば、当然キリストの十字架の意味も自分のこととしてリアルに迫ってくるし、それほどまでにして救いを用意してくださった神の愛が心に迫ってきて、神をほめたたえずにはいられない、賛美せずにはいられない、祈らずにはいられない・・それが大きな人の群れの単位で起こるというのです。
 これは圧倒的な聖霊の力の現れです。

 このような聖霊の働きの中で、生ける神の存在が、2000年にわたって世に示されてきたわけです。
 聖霊は、神のご計画が実行に移されるために、最前線で働かれる神なんですね。
 
 次回は「聖霊-5 平安そして求めなさい」です。

 God Bless You !

2019.12.18.Wed 05:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #14

【 聖霊-3 激しく下る 】
 
"すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。"
 新約聖書 使徒の働き 2章2~4節

 イエス様は、十字架で死んで墓に葬られた後、よみがえられ、五百人以上の弟子達に現れ、40日の間、神の国のことを語られてから、天に上げられました。その時イエス様は、助け主=聖霊を送るからと約束をされました。
 そしてその十日後。弟子たちが集まって祈っているところに大音響と共に〜、というのが、冒頭のみことばにある出来事です。

 この時、聖霊は祈っていた人たちの上に激しく下り、彼らは知らないはずの外国語で「神の大きなみわざ」を語り始めたというのです。
 その時、ペテロを筆頭とする十二弟子をはじめ、聖霊を受けた人々は、それまでとは全く違う人へと変えられていた、ということが書かれています。彼らは、イエスこそが聖書に預言されているメシア=キリストであることを、突然大胆に語り始め、また罪とか義とかさばきとかいうことについても、完全に見えている人のように語るようになり、またそこに病人が癒されるなど、奇跡のわざも伴ったというのです。
 聖書は、それ以前の彼らのなんとも情けない姿を、福音書の中で包み隠さず描いています。ですからその変わりようが劇的であることが、よくわかります。

 この時以来ユダヤ人たちは、自分たちが十字架にかけたあのイエスが、聖書に預言されていたキリスト=救い主だったのだとわかり、悔い改めてイエスを主と信じる信仰が、ものすごい勢いで広まり始めたのです。最初の日には三千人が加えられ、パプテスマ「洗礼」を受けたと書いてあります。(使徒行伝2:41)
 それ以降、ペテロやパウロの言行録である「使徒行伝」を見ると、全てが聖霊の主導のもとに進められ、ユダヤ人からさらに異邦人へと広がって行ったことがわかります。

 人は「聖霊によって」新しく生まれるのだということが、この出来事からもよくわかります。
 人が救われ、生涯をイエス・キリストを主として歩む、そのすべては、聖霊という神の御手の中で与えられるものなんですね。

 祈り・・「これを読まれる方が、信じる入り口からさらに一歩を踏み出せますように。」・・これは私の祈りです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 次回は「聖霊-4 神の計画」です。

2019.12.17.Tue 06:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #13
 
【 聖霊-2 御霊によって 】

"私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。"
新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章16節

 もうひとつの聖霊の働き。それは信じる者の内にあって、その歩みを守り、助け、導かれる。いわば日常的な聖霊の働きです。
 信仰生活をスタートした者は、手放しで安泰な歩みができるのかというと、実はそうではないんですね。むしろ様々な戦いにさらされるのだということが書いてあります。その戦いのひとつが「自我」との戦いです。
 ここでは肉の欲という言葉が使われていますが、それは生まれ持っての罪の性質。自己中心の性質で、それはいつも「欲望」の方に目を向けています。「新しくされた者」でも「肉の性質」は残るのです。でもそれに対して、「御霊によって歩む」なら大丈夫だよと言っているわけです。

 御霊は、神の御心そのままを、私たちに教えたり導いたりしてくださる方ですが、力そのものでもあるお方です。御霊には「思いを新たにする力」があります。からだを新しい力でみなぎらせてくださる方でもあります。
 信仰者の内には、神の思いと肉の思いがせめぎ合うという戦いがあるわけですが、はっきりと「自分の心は御霊に預けよう」と決める時、「神の思いの方を選択する力」が御霊によって与えられるんですね。
 こうして私たちは「御霊によって歩む者」とされていく、というわけです。

 聖霊は地上の歩みにおけるあらゆる場面で、実際に力となって支え、守り、教え、導いてくださるお方なんですね。

 御霊は・・、共に歩んでくださる神なのです。

 祈り・・「主よ、私に聖霊がもっとわかるようにしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 次回は、「聖霊-3 激しく下る聖霊」です。

 God Bless You !


 注・・ここで初めて「イエス・キリストの御名によって」という、クリスチャンの祈りの最後の言葉を書きましたが、これは神の子とされたクリスチャンが祈る時に使う言葉です。キリストを通してという意味のこの言葉は、父の前に出る資格(ただキリストのあがないによっていただいた) を示す身分証明書のようなものです。
 ですから、信仰を持っていない方は、まだこの言葉を使う人にはなっていないということになります。
 信じて神の子とされた者は、このイエス・キリストの御名によって、子が父に向かうように、大胆に祈ることができるんですね。
 これ以降の「祈り・・」は、この言葉を付けて書いて行きます。

 
2019.12.16.Mon 11:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #12

【 聖霊 】

"わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。"
 新約聖書 ヨハネの福音書 15章26節

 今までは、父なる神と、御子イエス・キリストのことを中心に見てきました。しかし、それだけでは神を理解するのには不十分なんですね。
 三位一体(さんみいったい) という言葉をお聞きになったことがあるのではないでしょうか。神は、父なる神と御子なるイエス・キリストと助け主なる聖霊という、三つの形で私たちに現れてくださいますが、それがひとつの神だというのです。ですから、この三つのお方の間には意見の食い違いがあったりすることは絶対にないわけです。
 
 イエス様はこの聖霊について、「その方がわたしについて証ししてくださいます。」と言われました。それはイエス様が本当はどういうお方なのかが、聖霊によって「分かる」あるいは「知る」ようになるというのです。私たちが、神のこと、罪のこと、キリストのこと、十字架のこと、それらのことがはっきり見えるようになるのは、聖霊の助けによるのだというわけです。

 福音を聞いて理解し、そして信じる。そして信じたその人の内に、聖霊は住まわれるようになります。
 でも実際は、内に住まわれる以前から聖霊はその人に寄り添い、働きかけてくださっているんですね。ですから、信じるというところまで導くのも、外から働きかけてくださる聖霊によることなんですね。この毎日の配信を読むように助けておられるのは、聖霊だということです。
 しかしその時点で、私たちは神に関することは、まだはっきり見えてはいないわけです。
 信じるのは、見たから信じるのではなく、見えていないものを信じるから「信じる」という言葉が成立するんですね。もし見えていたら、信じる必要はなくなるんです。「確信」とは意味が異なります。

"イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」"
 ヨハネの福音書 20章29節

 ですから、「信じてみよう・・かな」が、人生一大転換の入り口になるんですね。「信じる」は、聖霊に促される中での出来事ですが、それはあなたが意思を働かせて行うことなのです。

 祈り・・「神様、信じるということが意志による行いだということが、私にもわかるようにしてください。アーメン。」

 次回も聖霊についてお話しします。

 God Bless You !
 
2019.12.15.Sun 13:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #11
 
【求めているもの】

 次回は「聖霊」と書きましたが、#10をもっとやさしく書き直してみたくなりました。そうしたら、ちょっと違う話の流れになってしまいましたが、一旦踏みとどまるということで、どうぞお読みになってください。

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節

 道、真理、いのち、ということばが出てきます。
 道は、逸れることがなければ確実に先に進むように導いてくれるものです。
 真理とは、何があっても絶対にブレることのない、本当のことという意味です。
 いのち、それは私たちが思っているのとは違う「まことのいのち」があるのだとイエス様は言っています。それは死を通り越した「永遠のいのち」です。

 もし「わたしが〜だ」と言っている方がいるという話を聞いたら、その方のもとに行って確かめるしかないですよね。
 行ってみれば道と真理といのちがあるのだ、というのです。
 ここまで読み進められた方は、もうその方の前に立っている可能性があります。ここまで連れてこられたんです。そうでしたら、先ず腰を下ろしてみたらいかがでしょうか。腰を下ろすのはあなた自身です。

 あなたが探しているもの。それは、行くべき道と、不動の確信と、自分を本当に満たすいのち・・なのではないでしょうか。それは「神のところ」にあるんですね。
 信じてみようという決断は、そこに座ったあなたがご自分で行うことです。信じて告白できるところまであなたは来ているのです。

 次のみことばは、教会の外に掲げられていることがよくあって、多くの人が見ていることばです。

"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"
 マタイの福音書 11章28節

 今までのことを、すべて頷いてここまでこられたのなら、その方は、イエス・キリストが与えてくださる本当の休息と解放を、受け取るところに、今います。
 今神の聖霊が、その方に寄り添ってくださっています。ここが、神が用意された恵みの門の入り口なんですね。

 祈り・・「神様、私が求めているのは何なのか、分かるようにしてください。アーメン。」

 次は「聖霊」です。

 God Bless You !

2019.12.14.Sat 07:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #10
 
【 キリストを受け取る 】

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節

 イエス様ご自身が、道で真理でいのちである、と言うのです。でもイエス様ご自身との関係に距離があるとしたら、この言葉はただの知識で終わってしまいます。ところが、イエス様ご自身があなたの心の中に臨まれ、あなたを導くという存在になった時には、これらの道や真理やいのちという言葉の奥にある本当の意味が具体的に見えてくるんですね。そうしてあなたは、人生を確信の内に歩み(道)、死という言葉から来る謎が解き放たれ(真理)、自分の中にある満たされないところを満たす、まことのいのち(いのち) を知るというのです。
 イエス・キリストという存在は、受け取らなければただの知識で終わってしまうのです。次のような御言葉があります。

"人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
  ローマ人への手紙 10章10節

 心に信じるとは・・。
 イエス・キリストは、神であり、神の御子であり、人の子として来られた方であり、十字架であがないの供え物となってくださった方であり、よみがえって天に上げられ、神の右に座し、今も生きておられる方。そしてこの方は受け取ることができるお方なのだと理解し「私は救い主として信じることにしました」と心に決めるということです。
 義と認められるということは・・。
 その時私たちは、あの放蕩息子が父のもとに帰ってきた時のように、「よく帰ってきたね」と、手放しで喜んで迎えられるのです。それが義とされるということの意味です。
 そして口で告白するとは、あなた自身がそれを神に向かって言い表すということです。それは「イエス・キリストご自身を、私の主として心にお迎えします。私のこれからの歩みは、あなたが導いてください」という思いの、神に対する表明です。

 それであなたは、キリストご自身を救いとしていただくのです。
 その時からあなたは、キリストと共に歩む者となります。これだけで、帰るべきまことの父の家に帰った者としての歩みが、始まるのです。
 そうです。信じて、口で告白することによって・・です。

 ということは、そのまま自分で信じて、自分で告白すればクリスチャンになってしまえるわけです。ただ、その具体的な導きは、周りにいる信頼できるクリスチャンの方にご相談されることをお勧めします。
 その理由は、羊が一人でいると、すぐに迷子になってしまうからです。

 求めておられる方は、このようにお祈りください・・「神様、今私に、決断する力と確信を与えてください。そして私を導く人と出会えますように。アーメン。」

 次回は「聖霊」です。

 God Bless You !

 
2019.12.13.Fri 11:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #9

【 福音-3 復活 】

"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、"
新約聖書 コリント人への手紙 第一 15章3-4節

 パウロは、この三つのこと、即ちキリストの十字架と死と復活が、伝えたいことの核心中の核心で、それは聖書(旧約聖書) の預言に書かれているキリストとぴたり一致するのだ、と言っているわけです。そしてその中でも、キリストは本当によみがえられたのだということを、特に強調しています。
 十字架という、キリストによるあがない。そしてもう一つのキーワードが「キリストの復活」なんですね。

 イエス様の弟子の筆頭であるマタイも証言しています。イエス様は復活されたあと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) と言われたのだと。
 それは、今も私たちと共に生きておられる方なのだということを証ししているわけです。
 そして、そのキリストを受け取った人には、次のようなことが起こるというのです。

"私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。" (ローマ6:5)

 私たちの罪のために死なれ、新しくよみがえられたキリストが私たちの内に実現するのです。それはキリストが生きておられ、いのちとなってくださる存在だからこそ、起こることです。

 さらに、死の力を打ち破られたキリストは、私たちにとっての死の意味も、全く新しいものに塗り替えられたんですね。肉体の死は「終わり」ではないのです。

 私たちはキリストにあって、罪ゆるされ、新しく生まれ変わり、永遠のいのちをいただき、地では愛なる神の栄光を表す者となり、天には住まいが用意され、御国の民となり、、。ああ、受け取るものが多すぎて困っちゃいます。
 そして、ここが私たちが帰るべきところ、本当の家だというのです。そしてそれは「死」を超えた永遠というところにあるというのです。

 お迎えするのは、この生けるキリストなのです。
 このキリストをお迎えするに当たって、最初に求められること。それが、「御子イエス・キリストが、父なる神によって地上に遣わされ、あなたの罪のためのあがないを完了してくださったこと」を信じてうなづくこと・・。
 それであなたは、イエス・キリストを救い主としてお迎えする手筈が、整ったことになります。

 祈り・・「神様、私はまだあなたのことを知りません。もしまことの神なら私の背中を押して、あなたを受け入れることができるようにしてください。アーメン。」

 というわけで、次回は「キリストを受け取る」です。
 
 God Bless You !
2019.12.12.Thu 11:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #8
   
【 福音-2 キリストの十字架 】

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 前回と同じ箇所です。

 一瞬、耳を疑うようなことを言っています。絶対に無理なものが、「キリスト・イエスの贖い」という切り札によって、まったくひっくり返ってしまうのだと言うのです。
 神の前に出る資格がなかったはずの者が、神の前に正しい者とされるという一大逆転。帰るべき家に絶対に帰れなかったはずの者に与えられた、唯一の門の話です。そして、この門から入るのに資格は問われない。ただ「恵み」によって入れるのだ、というのです。

 モーセを通して、荒野を旅するイスラエルの民に与えられた律法の中に、罪のためのささげ物の規定というものがあります。定められた動物をいけにえとし、その血を祭壇に注ぐことによって、その人が犯した罪は完全に赦されるというのです。これは、人が考えてそのように決めたのではなく、神の側から提示されたものです。ですから人々の側では、まずそれを信じて納得する必要がありました。わかりました・・と。その上でささげ物をすれば、その罪が赦されたということが自らの内に現実となり、心は罪から解放されたのです。しかしそれは、罪を犯すごとにささげなければならないものでした。

 新約聖書に、イエス・キリストに関する次のようなことばがあります。
 "この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥め(なだめ)のささげ物です。" ヨハネの手紙 第一 2章2節

 これはイエス様がかかられた十字架のことで、それが神から提示されたものだと信じて納得する者の上に有効となる、過去と未来のすべての罪のためのささげ物だというのです。そしてこれは、先の動物のいけにえの規定が、全く新しいものに置き替えられたということでもありました。毎回のささげ物はもう必要ないのです。さらにそれは「全世界の罪のため」とあります。即ち、それがイスラエルの民だけではなく、すべての民、日本人のあなたのためのささげものでもあるというのです。

「これが自分の罪のために用意された、神の愛の故の、贖いの供え物なのだ」と信じて納得するとき、あなたは神の全面的な許しの前に立っているのです。
 それのために私たちに科せられた行動は、ただこの「信じる」という心の行動だけだというのです。
 イエス・キリストの十字架は、「罪のための贖いの供え物」という、神からのギフトなのです。そのギフトを人々に与えるために、御子イエス様があれほどの苦しみを受けなければならなかった。ここに神の愛の意味があるのです。

 次回は、福音3「復活」です。

 祈り・・「神様、イエス様の十字架があなたの愛のしるしであることが、はっきり分かるように、私の目を開いてください。アーメン。」

 God Bless You !

2019.12.11.Wed 13:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #7
 
【 福音(ふくいん)-1 】 

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる 〜 。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 「義と認められる」とは、神様から「なんら問題なし」とハンコを押されること。お前は正しい・・とされることです。と同時に、それは神のもとに帰ることのできる切符を得たという意味でもあります。しかしながら、自分をまっすぐに見れば、そんなことは絶対にあり得ない、というのが今まで見てきたことです。
 ところがこのみことばは、〇〇により、このあり得ないことが、現実のことになったんだよと言っているんですね。
 〇〇とは「キリスト・イエスによる贖い」です。
 そしてもう一つ。それは「神の恵みにより」と言っています。

 恵みとは、「お恵みをください」という言葉を思い出せばわかるように、自分は何もしていないのにいただく、という意味です。
 神の前に何かを差し出せるような者ではない。ただ「恵み」によってしか、受け取ることはできない。ここが非常に大切なポイントなんですね。
 ところが、このことがなかなか理解できない。受け入れられない・・。そのわけは単純です。その人は結局、恵みによってしか受け取れないとは思っていない、ということなんですね。それは「何か自分に差し出せるものがある」という思いの裏返しです。
 大体私たちは、見るのも、食べるのも、歩くのも、恵みによっていただいているのです。、

"主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。"
 旧約聖書 詩篇 34篇18節

 これが福音(ふくいん)と言われる、神からの「良き知らせ/英語ではGood News」を受け取るための「大前提」なのです。
 では早速、福音の核心である〇〇の部分、「キリスト・イエスによる贖いを通して」というところを、見ていきましょう。

  祈り・・「神様、もしあなたが本当の神なら、『すべてのものが、あなたから与えられている』ということが分かるようにしてください。アーメン。」

 次回は「福音-2 キリストの十字架」です。

 God Bless You !

2019.12.10.Tue 08:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #6
  
【父の愛】

"私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。"
新約聖書 ヨハネの手紙 第一 4章16節

 神は愛であると、聖書ははっきり言っています。無限の赦しといのちと祝福の神です。しかしそれだけの情報では、どうしても自分の尺度で神の愛を考えてしまいます。

 神は創造主であり、愛なるお方です。その方を父として愛し崇めるのは、造られた子としては、当然であり自然な行為であるわけです。しかも、人は神の似姿として造られた(創世記1:26) のですから、そこにある神の愛は、人の言葉では到底表しきれない、大きく深いものなのではないでしょうか。

 「神の愛」を考える上で、押さえておかなければならないことは、「それなのに人はまことの父に背を向けて、あんたなんか知らないよと言って、勝手に歩んでいる」というところです。そんな子に対する父の思いは、どんなものでしょうか。子を愛する父は、放蕩息子が家を出たままでいるのを、喜んでいるわけがありません。父の心は悲しみと嘆きとで一杯です。
 父は、帰ってこない息子を助けることは出来ないのです。その手を離れて、遠くに行ってしまっているのですから。そんな父が、喜んで無条件で息子を受け入れることができたのは、息子が「帰ってきたから」です。息子がしたことは、心を父に向けて、父の家に向かって歩き始めた・・それだけなんですね。
 
 父の愛とは、失われた羊(神のもとから迷い出た人々)を探し求める愛なのです。
 そして帰ってきた息子には、休みを与え、永遠のいのちを与え、その家の財産すべて「天のすべての霊的祝福」を与え、地上では決して見離さず見捨てずに共に歩まれる方・・。そのような愛なるお方です。(書いていたらキリがありません。勿論これらはすべて聖書の中にあることばです)

 まことの父なる神の家。天の御国。
 そこが私たちが帰るべき、本当の家なのです。

 私たちは、お父さん、ごめんなさいと言わなければならないのです。

 父の悲しみは、私たちがまことのいのちを損なったまま、滅びていこうとしている故の悲しみです。
 それ故に、大きく手を広げて私たちを迎えるために、ひとつの門を作られま たのです。
 それは、御子を人の子として遣わし、十字架に付けるということでした。
 父なる神は、そこにどれだけ大きな愛があるかを示そうとされたのです。

 次回の「福音(ふくいん)」で、それを見ていきましょう。

 神は愛です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.09.Mon 09:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #5

【 自分を低くする者 】

"あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。"
新約聖書 ルカの福音書 18章14節

 パリサイ人は、隣で祈っている取税人を見て「あのような者でないことを感謝します」と祈りました。生活上の律法をかたく守るパリサイ人、律法学者、祭司たちには、行いに於いて自分は全く問題ない者だという自負がありました。そんな彼らにとっては、どうしようもない者が神の前に受け入れられるなどという話は、不愉快千万でした。ましてや、神の前に最悪のことをしておきながら、それが赦されるなんて、あり得ないっ!と。これが放蕩息子の兄の立場です。
 イエス様はそんな彼らをこっぴどく糾弾しました。自分の内側をよく見てみなさいと。自分の内に、神の前に出るに相応しい、何かがあるとでも思っているのですかと。

 私たちは普段、自分の心の奥のことにはほとんど蓋をして、見ないようにしているのではないでしょうか。他人の心の奥はとてもよく見えるのに・・。
 こんなみことばがあります。

 "ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。"
 ローマ人への手紙 2章1節

 他人の心の中を見て点数をつける、そのあなた自身の点数は同じだというのです。でもまさか、同じだなどとは夢にも思っていない。これが自我の実態です。全然気がついていないのです。言われてもわからないのです。
 人はなかなか低いところに立てるものではありません。でも今日のみことばは「自分を低くする者が高くされる」と言っています。実はここに立たないと、神に出会うことができないんですね。

 今日、こう祈ってみませんか。
「神様、私の心の奥の奥までを、あなたの光で照らしてください。アーメン!」
 実はこれは、神に出会うための祈りなんですね。

 次回は「父の愛」・・放蕩息子の話のおさらいです。ここが「愛なる神」が「恐い神」かの、瀬戸際なんですね。いわば危険地帯です。慎重に歩みを進めていきましょう。

 神は「愛なる神」です。
  
 God Bless You !

 
2019.12.08.Sun 06:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
    2001-02てる絵

  2019年一年、皆様の応援に支えられて、なんとか新しい年を迎えることが出来そうです。毎年書いているような気がしますが、この歳になって現役で活動できることは、予想だにしていなかったことで、こうして今もいろいろな現場で活動できていることが奇跡のようです。
 TRIO’ (トリオッ)(pf,福田重男、b,森泰人、ds,市原康) は春と秋の二回ずつ、計4回の公演のみとなりました。2020年にはもう少し出来ると想います。取りあえず6月にツアーを考えていますので、よろしくお願いいたします。
 2019年の3月には母を天に見送りました。憎いことに、この日は忘れるなよと言わんばかりに、私の誕生日の二日前に天に召され、誕生日当日に葬儀という、最後にきっちりやってくれましたという感じです。こうして誕生日が母を想う日になりました。冒頭の写真は母が描いた絵です。
 そして2020年には私も70という、現実感の伴わない年齢に突入いたします。体力が続く限りがんばりたいと思いますので、皆様の応援をよろしくお願いいたします。
 そして、もうあまり時間がないという感覚の中、聖書の言葉をミュージシャンの感覚で、わかりやすくまっすぐに伝えられたらという思いで、毎日「G-Cafe 聖書のことば」を書き始めました。こちらも気が向かれたらご覧になって下さい。

 では、新しい年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 以下、ジャンル別の日程です。

● 大野雄二関連
 1/16(木) 大野雄二トリオ お茶の水 NARU (1/6と記載していました。お詫びして訂正いたします。)
 1/18(土) 大野雄二トリオ 鎌倉 ダフネ
 1/31(金) 大野雄二トリオ 新宿 ジャズスポットJ
 2/8(土) 大野雄二トリオ 調布・柴崎 さくらんぼ
 2/11(火) Yuji Ohno & Lupintic Six with Fujikochans 鶯谷 東京キネマ倶楽部
 2/15(土) Yuji Ohno & Lupintic Six 丸亀市 綾歌総合文化会館アイレックス
      (12月と記載していました。お詫びして訂正いたします。)
 2/20(木) 大野雄二トリオ お茶の水 NARU
 2/28(金) 大野雄二トリオ 新宿 ジャズスポットJ
   
● その他
 1/13(月) 「T D Y」直居隆雄トリオ/Recording Live 神楽坂 Glee
 1/17(金) 金城寬文カルテット 東京菊川 な〜じゅ
 2/22(土) 「T D Y」直居隆雄トリオ 沼袋 オルガンジャズクラブ abevafe
 
 以上、ライブの詳細は
  ドラマー市原康のホームページ http://i-produce.net 「ライブ」をご覧下さい。
  みなさまのお越しをお待ち申し上げております。

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 【G-Cafe 聖書のことば】2019.12.4より、当ブログにて毎日連載中

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2019.12.07.Sat 16:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
  
G-Cafe 聖書のことば #4
 
【 あなたは兄の側にいませんか 】

 "それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠(ほふ)られるとは。』"
 新約聖書 ルカの福音書 15章30節

 前回に続く放蕩息子の話の後半です。

 放蕩息子(弟)は、父の家に大歓待で迎えられました。ここに一つ忘れてはならないことがあります。それは、息子は自分の相続分の財産を全部前借りして使ってしまったのに、それが不問に付されているという点です。家で忠実に仕えていた兄はそのことが許せませんでした。今日の聖書の言葉は、その兄の言葉です。そりゃないでしょう・・と。

 前回、この例え話の中で、父と放蕩息子のことを見てきました。では兄とは誰のことなのでしょうか。兄は父の家で忠実に仕えている・・と自負していた人です。即ち、父の家にいて、自分は良い子だと思っている人たち。イエス様の周辺にいる人を思い浮かべると、自ずと見えてくる人たちがいます。それは律法学者や祭司、パリサイ人といった、神に仕える仕事をし、自分は先生と呼ばれて然るべきだと思っている人たちです。そして弟は、社会的には神から見捨てられている人たち、明らかに罪深い人たち。優等生から見たら「神の前に出る資格などあり得ない人」即ち、取税人や罪人と言われる、人々から見下げられている人たちです。そんな人たちがどうして父の家に迎えられるわけ?・・これが兄の言葉です。

 こうして見ると、この放蕩息子の話が言わんとすることは、
 まず第一に、父なる神様は、どうしようもない者でも、父の元に帰ろうと思うなら、大喜びで迎えてくださる方なのだ、ということ。
 さらにこの話の後半では、私たちに対して、次のように問いかけて来ます。
 あなたは自分のことを、社会的にもまあまあやってるし、少なくとも「あのような悪い人たち」ではない、普通の善良な人間だ・・と思ってませんか?
 それとも、自分はどう見ても神の前に出る資格などない、顔を上げることもできないような者だ・・思っている人ですか? どちらですか? 兄ですか、弟ですか? と。
 もっとはっきり言っちゃいますと、あなたは兄の側にいませんかという・・これがこの話の二つ目の問いかけです。
 ちょっと怖くないですか? でも神様の愛はとても深く、私たちの想像をはるかに超えています。この話は、それを知るために与えられたとても良い素材なんですね。

 続きは次回「自分を低くする者」です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.07.Sat 08:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #3
  
【 生き返った息子 】

 "この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。"
 新約聖書 ルカの福音書 15章24節

 今日の聖書の言葉は、イエス様が語られた例え話の中の「放蕩息子の帰還」と言われる有名な話の一節です。
 何不自由ない父の家から、遺産の分け前までもらって家を出てしまった息子の話です。息子は出て行った先でお金を使いまくり、宴会三昧。気がついたときには、金のない奴と付き合う友なんて、いないんだと気付く。どん底です。
 そこで我に帰った息子は、お父さんにちゃんと謝って「使用人でいいので家に帰らせてください」と言おうと心に決め、家に向かいます。
 帰ってくる息子を遠くに見つけた父は、駆けていって息子を抱きしめます。そして息子が謝る間もなく、早速大宴会の用意をさせ、本当の息子にしか与えない最上の着物、指輪、履き物を与えた、という話です。

 この息子とは罪人=私たちのこと。「死んでいた」とは、父から離れてまことのいのちを失っている状態を言い表しています。父は言うまでもなく、父なる神。この息子が父の元に帰ったとき、父は「生き返った」と言ったのです。
 この話のポイントは、父にとって、息子が何をしていたかは問題ではなく、帰ろうと心に決め、そちらに向かって歩き始め、帰ってきたこと。それこそが天における大きな喜びなのだ、というところです。

 息子の心の矢印は、完全に自分の方にだけ向いていました。そしてそれを当然のことだと思っていたのです。ところが自由気ままに暮らした挙句、どん底状態になった時に初めて、そこにある自分の誤りを予感したんですね。その時初めて、息子は心の矢印を父の方に向けました。このことを「悔い改め」と呼んでいます。
 私たちは、犯した罪を悔いて、もうそんなことはしないようにと心に決めても、何も変わりません。真の悔い改めとは、自分ではなく「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4節)と言われる神に、心を向けて歩み始めることなんですね。
 父なる神様は、帰ろうとするあなたを、掛け値なしに喜んで、迎えてくださる方なのです。

 「生き返った息子」への第一歩を、踏み出すことができますように。

 次回は、この話の後半です。

 God Bless You !
 
 
2019.12.06.Fri 10:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #2

【義人はいない】
 
" 義人はいない。一人もいない。"
ローマ人への手紙 3章10節

 義人とは、神の前に正しいと認められる人のことです。自分を義人だと言える人は、自分に相当甘い人だと言えそうですね。

 創世記には、アダムが神に逆らってエデンの園を追放されるという話が出てきます。人類のスタートが、神から離れてしまうという悲劇から始まったのだというのです。
 神が人を造られたのならば、神は私たちにとって、お父さんと呼ぶべき存在です。ところがどうしてもそれを認めたくない人間。人の歴史はそこからスタートしたというのです。
 もちろんお父さんから見たら、それはとても悲しむべきことです。自分の子が自分を顧みてくれないのです。聖書ではこれを罪人(つみびと)と言っています。

 「善悪の知識の実」だけは食べてはいけない、と神に言われていたアダムは、それを食べてしまうんですね。蛇に誘惑されたとは言え、それはアダムの「選択」でした。神から離れて、自分が善悪の判断をするする、という道を選んだのです。それは自分が神の座に付くという行為に他なりません。究極の傲慢です。そしてそれは、霊的には死んでいる状態即ち、まことのいのちである神から離れた状態だというのです。
 その結果、人は罪を犯す者となりました。この世のすべての悲惨な出来事は、その結果が形になって現れたものだというのです。そして肉体の死も、そこから始まったのだと。
 人は罪を犯すから罪人なのではなくて、罪人だから罪を犯すのです。

 みなさん。これでは絶望ですよね。でも、聖書のメッセージの価値を知るには、どうしてもこの土台を知る必要があるのです。神はこの動かし難い土台をひっくり返された、というのが聖書のメッセージなのですから。

 次回は、「死んでいたのに生き返った息子」です。

 昨日、読んでから祈ったという方がおられました。もちろんOKです。
 なんのこと?と言われる方は、12/2 の #22 をご覧ください。

 God Bless You !
 
2019.12.05.Thu 06:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #1
【創世記 1章1節】

"はじめに神が天と地を創造された。"
 創世記 1章1節

 「神が」という言葉を聞くとき、その受け止め方は人によって実に様々です。

 ここに書かれている神は、天地万物を造られた神であって、そこに存在するすべてのものは「被造物」であると、はっきり宣言しています。
 いわゆる八百万(やおよろず)と言われる数え切れないほどの神々も、すべて被造物であるところの人間が作ったものに過ぎないというのです。

 聖書の神は自らこう言われます。「わたしが神である。他にはいない。」(イザヤ46:9ほか)
 それに対し人は、心の奥で「神はいない」と言っているんですね。

 なんというギャップでしょうか。この神と人との関係のすべてを解き明かす書、そして世の始まりと終わりまでのすべてを言い切っている書。それが聖書です。
 聖書は道徳の本ではありません。人に定められた運命と、そこから選び取ることのできる二つの道を示した書なんですね。

 聖書は、1600年間に渡って、約40人の人・・それは王から漁師に至るまで、実に様々な人たちです・・によって書かれている書物ですが、その内容は一本の太い矢印で終わりの時、そして天の御国を指していて、少しもブレていないのです。普通でしたら直弟子でも、師とは言うことが少しずつ変わってくるものです。師弟関係でもないこれらの人たちがひとつの視点で書いている書物など、世界中どこを探しても見当たりません。聖書はまさに、創造主である神の霊感によって書かれた書物なのです。(2テモテ3:16)

 ではこれからその奇跡の書「聖書」の言葉を見ていきましょう。
 
 次回は「義人はいない」です。

 God Bless You !

(祈ってから読まれましたか?
今からでもその祈りはOKです。)

 
2019.12.04.Wed 10:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #22《お知らせ》

  「聖書のことば」 を書き始めて、三週間が経ちました。
 今までのものを読み返しましたところ、言葉の足りなさや、表現不足など、いろいろ気付かされることがありました。
 先日、ある方に二日続けて同じものを送ってしまったことがありました。その時その方は、二回目に読むと更にいろいろなことが見えてくるとおっしゃっていました。この21回の配信は、特に基本的な大切なところです。もう一度読み直すと、理解度もまたずいぶん違ってくると思います。そこで思い切って、この21回を再度見直し、改めて#1 からスタートすることにいたしました。名称も新しく、「G-Cafe 聖書のことば 」

 折角の再スタートですので、ひとつ提案があります。それは、読む前に祈るということです。これは神を信じていない方々への提案です。毎回読む前に祈るのです。
 いくつかのタイプを想定して、具体的に祈りの言葉を書いてみました。声に出さなくても大丈夫です。それによって、神は小さな祈りも聞いてくださるということを、体験していただきたいのです。
 この祈りを神は、確実に喜ばれます。なぜなら、祈るあなたは、すでに神の方に顔を向けているのですから。
 ただしこれは、文言を唱える「まじない」ではありません。本当にそうだと思える時だけ、心の中で祈ってみてください。最後に抵抗がなければ「アーメン」と言ってください。それは「私は本当にそう思っています」という意味です。

⚪︎ はじめの祈りの言葉 ⚪︎

A. このメッセージを、なかなか読めないという方・・
 祈り「神様、あなたが本当におられるまことの神なら、私がこれを読みたいと思うようにしてください。アーメン。」

B. ちょっと話が難しくて、分からないことが多いという方・・
 祈り「神様、あなたが本当におられるまことの神なら、分からないところが分かるようにしてください。アーメン。」

C. ここに書かれている神は、多くの神の中のひとつだという方・・
 祈り「イエス様が父と呼ばれる神様、あなたの他に神はいないとあなたは言われます。それが本当であることを私に見せてください。アーメン。」

D. 自分の悩みや問題の解決を願っている方・・
 祈り「神様、あなたが本当におられるまことの神なら、私に答えをください。アーメン。」

E. 読んでいて、いろいろなことがわかるのでおもしろいという方・・
 祈り「神様、あなたが本当におられるまことの神なら、確信を持てるようにしてください。アーメン。」

 (この部分だけプリントアウトして、いつでも見られるようにしておかれると、便利だと思います)

 では明日からの第一回は、
「創世記1章1節」です。

 ( G-Cafeとは、我が家で開催している家庭集会の名です。)

 God Bless You !

2019.12.03.Tue 06:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #21

【蒔かれた種】

 "良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」"
 新約聖書 マタイの福音書 13章23節

 みことば(聖書の言葉)を、地に蒔かれる種として語られた、イエス様のたとえ話です。

 よく耕された柔らかい心で、みことばを受け取る人は、みことばがそこから芽を出し、大きく育ち、多くの実を結ぶようになる、という話です。
 良い地とは、どんどん雨を吸収する水捌けの良い地です。それは、みことばをもっともっとと求める「渇いた心」のことなんですね。

 普段は忘れているかもしれませんが、誰でも心に渇いた部分を持っています。愛されたいとか、生きる目的を知りたいとか。それは人によって様々です。
 でも心の本当の奥が求めているもの・・それは「愛したい」ということなのではないでしょうか。

 人を喜ぶことができたら、どんなに幸せでしょうか。人の存在そのものが嬉しいのです。それは自分の子や恋人などに感じる喜びです。それが家族を始め、生活の中で向き合うすべての人に対して、そのような思いで立つことができたら・・。
 しかし世の中は、それを妨げることばかりです。私たちは「愛してはいけない」環境の中に置かれているかのようです。
 誰でももし、この一番奥の渇きに目を向けるなら、心が「良い地」になるのかもしれません。

 次回は、お知らせがあります。そして一つ、提案をさせていただきたいと思っています。

 今日も良い一日を!

 ではまた明日。
 God Bless You !

 
2019.12.02.Mon 06:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #20

【イエスは主】

  "もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。"
 新約聖書 ローマ人への手紙 10章9節

 クリスチャンは「主イエス・キリスト」という言葉をよく使います。そこにはイエスを絶対的な主権を持たれる神として言い表すと同時に、自分はしもべですという思いも込めて「主」と呼びます。
 ですから、イエスを主と告白するということは、そのようなお方として信じるということを口で言い表すと同時に、あなたと共に歩みますという、意志の表明でもあります。

 キリストと歩む者は、キリストを人生の主とし、主を愛し、主を喜び、主に従い、主により頼み、主をあがめて、主が喜ばれることを共に喜び、主の民として、この世の生涯を歩みます。

 主イエス・キリストは・・
 私たちを決して見放さず、見捨てないお方。
 私たちに関わる全てを成し遂げてくださるお方。
 その愛を、私たちの内から溢れさせて下さるお方。
 あがめられるべきお方。
 真実なるお方。
 歩むべき道の規範。
 真理という言葉の意味を教えて下さる方。
 知恵であり知識であるお方。
 私たちの罪のために義と聖めとあがないになってくださったお方。
 唯一の救い。
 不思議な助言者。
 力ある神。
 永遠の父。
 平和の君。
 そして、、いのち。

 ・・その他にも多くの言葉をもって聖書の中で言い表されているお方です。

 次回は「蒔かれた種」です。

 God Bless You !

 
2019.12.01.Sun 07:03 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書のことば #19
 
【行う力-2 弱さ】

 "しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。"
 新約聖書 コリント人への手紙 第二 12章9節

 私たちは「行い」のこととなると、真面目な人であればある程、自分はきっちりした人であろうと、一生懸命に努力しようとします。
 ところが、自分はどうすることもできない「弱い者」であることを、初めから知っている人なら、「行い」を人に見てもらおうとかいうことは、あまり考えないものです。実はそのことは信仰者にとって、マイナス要素ではないんですね。なぜなら、そうでもなかったら、本当の力であり知識であり癒しである方のところに、行こうと思わないからです。

 本当の力、解決は「主にある」ということを、私たちは経験をいくら積んでも、また知識として知っていても、なかなかそこに行かないんですね。でも「弱さ」という、自分が認めざるを得ない状況に置かれると、そっちへ行ってみようかなと・・初めて思うわけです。

 「私たちがするべきこと」とは何かと言うと、「行う力を下さいと主に求める」・・、これが私たちが取るべき行動なんですね。

 なぜこの発想に辿りつかないかというと、実は主という存在が、そのような方だと思っていないからなんですね。本当にそうだと思っていれば、誰でも一目散にそこへ行きます。
 肝心なのは「弱さ」に到達することなんですね。弱さが「自分にとって当たり前のこと」となることなんですね。

 御言葉を通して、これを行いなさいと、主から語られたら、「主よ、それを行う力をください」と祈りましょう。その時にあなたは、する力のないあなたにそれをさせてくださる主に、出会うのです。

 次回は、「イエスは主」です。

 God Bless You !
 
2019.11.30.Sat 10:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #18
 
【行う力】

"私たちはみな、〜 主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
新約聖書 コリント人への手紙 第二 3章18節

 前々回に引用した聖句(聖書のことば ) には、この最後の部分が抜けていました。「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 御霊(みたま)=聖霊。イエス様は父のもとから助け主を送ると約束されました。それが聖霊です。この存在は「三位一体(さんみいったい)の神(父,子,聖霊)」の中のひとつですので、神そのものと考えて良い存在です。
 信じた者の内には、聖霊が宿ります。この聖霊の働きによって「主と同じかたちに変えられて行く」というのです。

 しかし同時にイエス様は、行いについての規範を示されているんです。
 私たちがすべきことの基本は、次の二つに要約できるというのです。

  ひとつ目は、心といのちと知性を尽くして、主なる神を愛しなさい。
  もう一つは、自分自身のように、隣人を愛しなさい。

 さらにイエス様は、もっと具体的にも、いろいろなことを言われているんですね。しかも「ちょっとムリ」みたいなことばっかりなんですね。
 山上の垂訓 (マタイ5:17 - 47) と言われるもので、一番有名なのが「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」という、あれです。
 おまけに、その最後にはこう書いてあるのです。
"ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"

 それ、ムリでしょう!となります。ですが、これらのことを聖霊によって行う者へと、変えられて行くというのです。

 もし自分の努力でそんな人になろうと思っても、行う力などどこにもないことが、だんだんわかってくるんですね。それじゃあ、主と同じ姿に変えられて行くどころか、その正反対であることをますます思い知らされて、惨めになって行くばかりじゃないですか。

 聖霊によってとは、一体どういうことなのでしょうか。そろそろ「私たちの側でするべきこと」をはっきりさせなければいけませんね。

 次回「行う力-2 弱さ」で見ていきましょう。

 God Bless You ! 

2019.11.29.Fri 08:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書のことば #17

【信仰と行い】

"行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。"
新約聖書 ヤコブの手紙 2章18節

 人は何かを行うことによって救われるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じるという「信仰」によって救われる・・。
 これがこの16回を通して見てきたことですが、この救いの話が「信仰生活」の話とごっちゃになってしまうことが、よくあるようです。

 「救い」とは、まことの神のもとに帰るという話です。そして帰った時点で、今度は「信仰生活」が始まるのです。「救い」と「信仰生活」は全く別の話です。
 それが何故ごっちゃになるかというと、救われても相変わらず「行いが伴わないと救われない」という感覚が残っているからです。そうすると当然、そんな力など自分にはないものだから、行いのことなどとても考えられない信仰生活が始まっちゃうんですね。そうなると神のもとに帰った者でありながら、いつのまにか自分の思いのままに行動するという、放縦の生活の中にどっぷり浸かってしまったりするんですね。そうなると、あれっ! クリスチャンになったのに、世間の人とやることが全然変わってないわ、となるわけです。

 クリスチャンは、聖霊を内側に宿しています。聖霊は絶えず私たちに、神が示される方向を示してくれます。それは人によって様々ですが、大抵の場合、自分の考えとは異なることが多いです。なぜなら、古い性質が私たちの内に残っているので、どうしても神に背を向ける方向に心が向くからです。
 しかし、自分の考えではなく、聖霊の促しに従って行動した時には、いつも主が共にいて、すべての意味で最善に導いておられるのだということが、はっきりわかったりするんですね。そうすると私たちは、ますます神に従って行きたいと思うようになる。

 そして気がついたら、人々があなたを見る時、そこにあなたの内におられる神を見るようになる・・。何故なら、「主に従う」ということでそのような存在へと、あなたは変えられて行くからです。「主と同じ形」へと・・。(2コリント3:18)

 マザー・テレサは、その見本のような存在ですね。

 ああ、自分は聖人でもあるまいし、そんな力はないよ、と思っちゃいますよね。
 よくわかります。(笑)

 そこで次回は「行う力」です。

 God Bless You !

2019.11.28.Thu 19:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

 今まで、16回に渡って、私が信仰生活の中で受けたことを、聖書に照らし合わせつつ、書いてきました。
 11月11日に、突然これを始めて、取りあえず今は毎日更新をしています。

 しかしながら、今まで書いたものを見てみますと、言葉が足りなかったり、思っているのと違うイメージで伝わってしまうような表現をしていたりと、反省しきりであるわけです。

 先日、これを毎日お送りしている方に、誤って前日のものをダブってお送りしたことがありました。その時その方がおっしゃったことは、二回目に読むと、またさらに理解が広がることに気がついたと・・。

 ということで、現在アップされている #1〜#16 までを、もう一度見直し、表現の仕方や、足りないところを足すことにしました。

 ということで、今までの記事が、すでに過去のものと少し変わっています。
 良かったらご確認下さい。

 さらに続けていきますので、どうぞご覧になって下さい。

 これを読まれる方々の上に、
 特に、ここでしかこのようなものを読まれる機会のない方々に、
 神様の導きがありますように。

 God Bless You !
 
 
2019.11.28.Thu 19:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書のことば #16

【聖書を一言で】
 
 ここまで読み進められたあなたは、次の聖書の言葉が、リアルに伝わってくるのではないかと思います。
 これは、聖書がその全体を通して言おうとしていることを、一言で言い表した箇所だと言われています。

  "神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
  新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節

 今日はこの御言葉を、ご自身でゆっくり味わってください。


   神は、実に、
   そのひとり子を
   お与えになったほどに
   世を愛された。
   それは
   御子を信じる者が、
   一人として
   滅びることなく、
   永遠のいのちを
   持つためである。

   ヨハネの福音書
   3章16節


 次回は「信仰と行い」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.28.Thu 19:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #15

【救われるとどうなるのか】

"私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 6章5節

 イエス・キリストを救い主として受け入れた者は、キリストの死と同じようになり、キリストの復活とも同じようになると、パウロは言っています。
 今時の言い方をすれば、イエス・キリストがインストールされたとでも言いましょうか。その人はイエス・キリストを内に頂いている者として、歩み始めます。
 しかしながら、キリストにある全ての性質に瞬間的に生まれ変わる、というわけではありません。私たちが持つ生まれながらの罪の性質は、そのまま残るからです。パウロはそのことを「この宝を土の器の中に入れている」(2コリント4:7) と言いました。

 ということは、キリストを内にいただいた者は、「変わって行く」のです。パウロはこんな風にも言っています。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」(2コリント3:18)
 変えられていくのです。どういう方向に変えられて行くのかというと、肉=古い性質には死んで、主と同じかたちに・・というわけです。主と同じ形にとは、主の聖さに限りなく近付くということです。

 そんなこと、程遠いですよね (笑) 。
 でも、それでいいのです。変えられて行くのですから。

 「主の栄光」を言葉に言い表すことなど、到底できませんが、その人は確実に、主の栄光を表す「世の光」へと変えられて行くというのです。

 God Bless You !
 
 
2019.11.27.Wed 10:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #14

【正しい人】

"こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
新約聖書 マタイの福音書 25章46節

 再びこの聖句です。この文は、永遠の刑罰に入らないで済むのだ、というのが主旨です。
 でも自分を「正しい人」とは言いにくいですよね。

 聖書に登場する代表的な人物は、ほとんどがひどい失敗を犯す、情けないと言われも仕方がない人ばかりです。モーセにしてもダビデにしても、ソロモンにしても、ひどい失敗をしています。新約聖書の書簡の多くを書いているパウロなどは、自分を罪人の頭であると断言しています。12弟子の筆頭のペテロも然りです。では、正しい人なんているのでしょうか。いるのだとしたら、どういう人のことでしょうか。

 イスラエルが王国となった初代の王はサウルと言います、そして二代目がダビデです。この二人ともに、神の前に大きな罪を犯しました。しかし二人の間には決定的な違いがありました。
 サウルは罪を示されてもなお、自分を弁護し、最後まで保身の姿勢を変えませんでした。しかしダビデは罪を指摘されたときに、それを認め、神の前にひれ伏し、悔い改めたのです。サウルの王位は退けられ、ダビデの家系は「ダビデの子」と言われるメシヤの家系となるという、この上ない祝福に預かるのです。
 
 義人即ち神の前に正しい人などは、一人もいないと、聖書は断言しています。ですから、もし私たちが正しいとされることがあるとしたら、それはダビデのように、あの放蕩息子のように、自分の罪を認め、主のもとへ帰ろうと心に決めて、その一歩を踏み出す・・それ以外に神の前に「正しい人」では、私たちはあり得ないということです。

 「義人は信仰によって生きる」(ガラテヤ人への手紙3:11) とは、このことです。

 正しい人とは、このまことの神を、崇めるべき神として認める人。その一言に尽きるのです。

 逆に言えば、神の前に正しいとされる道を閉ざされている人は、一人もいないということです。これはすべての人に開かれている門なのです。

 これは神がなされたことです。人が考え出すようなレベルのことではないのです。
 これこそが人類に提示された、神の恵みなんですね。

 Amazing Grace という賛美歌は、そのことを謳った歌です。
 邦題は「驚くばかりの恵みなりき」。
 
 次回は、「救われるとどうなるのか」です。

 God Bless You !

2019.11.26.Tue 08:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #13
 
【永遠のいのち】

  "こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
  新約聖書 マタイの福音書 25章46節

 今日は「永遠のいのち」という言葉について、見てみたいと思います。

 これはイエス様が、マタイの福音書の24章以降、世の終わりの時について話されたことと、それに伴う4つの例え話をされた部分の、最後のことばです。
 ここで言われていることは、イエス様が再び来られること(再臨)と、そこで人々は死んだ者も含めて、御国を受け継ぐ者とそうでない者が選別されるという「さばき」のこと。そしてそのあとに来る天の御国のことが語られています。イエス様が「天の御国」について、話されている箇所は50近くあります。このことが福音の重要なポイントであることがわかります。

 永遠のいのちとは、御国で生かされる者に与えられるものであることがわかります。ヨハネの黙示録には、それに関わるこの世の最後の時の様子が、恐ろしいほどリアルに予告されています。

 それによれば、天の御国でのいのちを保証された者は、復活のからだをいただき、まずこの地上に実現する楽園「千年王国」を治める者として立てられるのだというのです。
 さらにその後には、神に敵対する勢力 (千年間縛られていたサタンに属するもの) が解き放たれた瞬間、永遠の火に投げ込まれ、そして死んだ全ての者がよみがえって、「その行いに応じて」さばかれるのだと言うのです。
 そしてそのあとに、天から下りて来る永遠の御国「天のエルサレム」が実現するというのです。これが黙示録に書いてあることです。

 「永遠の」という言葉の意味は、「固定された」というようなイメージなのではないでしょうか。
 そして「いのち」はと言いますと、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。キリストご自身と、神と、共に、あるいはその中に生きること。それが「いのち」だということになります。

 では、「永遠のいのちに入る正しい人」とは、どんな人なのでしょうか。

 次回は「正しい人」です。

 God Bless You !

※ 世の終わりについて、触れていない重要な事柄に「携挙」があるのですが、敢えて後回しにしています。


2019.11.25.Mon 11:23 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #12
 
【父の愛】

 神は愛であると、聖書ははっきり言っています。無限の赦しといのちと祝福の神です。しかしそれだけの情報ですと、どうしても自分の尺度に合わせた愛のイメージになりがちなんですね。

 神は創造主であり、愛なるお方です。その方を父として愛し崇めるのが、造られた子としての当然であり自然な行為であるわけです。しかも人は、神の似姿として造られた(創世記1:26) のですから、そこにある神の愛は、人が言葉に表すことなどでは、とても及ばい、大きく深いものではないでしょうか。

 私たちが押さえておかなければならない部分は、その私たちが、父に背を向けて、あんたなんか知らないよと言って、勝手に歩んでいるというところです。そんな私たちに対する父の思いは、どんなものなのでしょうか。子を愛する父は、放蕩息子が家を出たままでいるのを、喜んでいるわけがありません。父の心は悲しみと嘆きとで一杯です。
 父は、帰ってこない息子を助けることは出来ないのです。その手を離れて、遠くに行ってしまっているのですから。そんな放蕩息子の父が、喜んで無条件で息子を受け入れることができるのは、息子が帰ってきたからです。

 息子はある時決意しました。自分には資格はないけど、父の元へ帰って、父に謝り、家の片隅にでも置いてもらいたい。そう思って帰ってきたら、びっくり。大歓待でした。息子はもう一度心を父に向けて、父の家に向かって歩き始めただけです。

  まことの父なる神の家。
  そこが私たちが帰るべき、まことの家なのです。

  父の悲しみは、愛の故なのです。

  そのためには御子をも惜しまなかった・・。
  それは、御子を惜しまないで死に渡された、ということです。

  あなたは、それほどに愛されているのです。

 God Bless You !
 
2019.11.23.Sat 10:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #11
 
【救いとは-2】

  "狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。"
  新約聖書 マタイの福音書 7章13節

 イエス様のことばです。ここに、ひとつの現実が、短くさらっと語られています。それは、「滅び」という確定事項があるのだということ。そして、ただひとつある「狭い門」から入れば、そこから逃れることができる、ということ。
 狭い門とは、イエス・キリストのことです。

 ヨハネの黙示録には「第二の死」という言葉が4回出てきます。人は一度死ぬことが定められているというのは、ほぼ全ての人が認めるところです。しかしそれは肉体の死です。では霊魂は不滅なのでしょうか。聖書にはこう書いてあります。この世の最終段階において、全ての死んだ者が神の前によみがえって、裁きを受ける。そこで第二の死による永遠の苦しみを伴う滅びか、恵みの救済による永遠のいのちかという、究極の分かれ道があるのだと。

 何度も言いますが、福音は滅びからの救済情報なんです。滝壺に向かう川に浮かぶ舟に乗って、何も知らないで昼寝している人たちに、岸辺から大声で警告を発しているのです。「このロープにつかまれ!」と。

 新約聖書のヘブル人への手紙9:27-28には、このように書かれています。

 "そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。"

 さばきは、この地上ではなく、死後にあるんですね。救いとは、そのさばきによる「永遠の滅び」からの救いなんです。

 そしてそのために、イエス・キリストは再び来られる(再臨)と、聖書は言っています。

 あなたは救いを選び取りなさい。これが福音 = Gospel = Good News のメッセージなんですね。

 次回は、「父の愛」です。

 God Bless You !

2019.11.22.Fri 06:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #10
  
【救いとは】

"私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"
新約聖書 エペソ人への手紙 2章3節

 不従順の子らとは、神を認めない、生まれながらの人のことです。これまでは罪人という言葉で表現してきました。

 その性質は、神の与える規範ではなく、自分が善悪を判断すると言いながら、結局は自己中心、自己保身という「自分ファースト」に生き、欲望のままに動くというもの。そしてそれは悪しき行いは勿論のこと、善行でさえ自分を満足させるために生きているという罪人の姿です。
 私たちもまた、それらの人たちの一人として、罪人として歩んでいた者で、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だった、と言っています。

 罪の報酬は死です(ローマ6:23)・・という言葉がありますが、このままの私たちは「死」が待っているのみだというのです。その死とは誰にでも必ずやってくる肉体の死と同時に霊的な死・・それはまことのいのちである神から離れた状態のままの死です。それを聖書では「滅び」という言葉で表現しています。

 でも、ここで終わらないで下さい。続きがありますから。それは・・、

 そんな私たちが、神が提供された脱出の道(イエス・キリストという救い主)をただ信じて、心にお迎えすることにより、「神の御怒り」は取り除かれ、その罪は不問とされ、良く帰って来たと、天の御使いの大軍勢の歓声と共に、父なる神に迎えられる・・。

 これが救いで、これを伝えるのが福音= Good News というわけです。
 福音とは「良い知らせ」なのです。

 次回。もう一度「救いとは」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.21.Thu 09:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #9

【福音4 イエス・キリスト】

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節

 イエス様ご自身が、道であったり、真理であったり、いのちであるということが言えるのは、その存在を私たちが受け取ることができる、という前提があるからです。
 イエス・キリストという存在を受け取った時に、歩むべき道が見え、全ての物事の謎が解け、いのちというものの意味がわかるようになる、というのです。

 次のような御言葉があります。

"人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
  ローマ人への手紙 10章10節

 心に信じて義と認められる。何を信じるのかというと、先ず創造主なる神がおられること。そしてその神が私たちの罪のあがないとなるために、人として来られて十字架にかかられて死に、三日ののちによみがえられ、今も生きておられるという、イエス・キリストの存在。それを「私は信じることにしました」と心に決めることを、神は良しとされるということです。

 そして口で告白するとは、あなた自身がそれを神に向かって言い表すということです。それはキリストご自身を「私の心にお迎えします」という、思いの表明です。

 それであなたは救われるのです。これが神が与えてくださっている約束です。

 その時からあなたは、キリストと共に歩む者となります。これだけで、神のみもと、帰るべきまことの父の家に帰った者としての歩みが始まるのです。これが救いというものであり、恵みによって、即ち代価なしに与えられるものなのです。

 今日の結論。イエス・キリストご自身が救いなのです。


 次回は、何から救われるのかということを、もう少し見ていきたいと思います。

 God Bless You !

2019.11.20.Wed 13:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #8

【福音3 復活】

"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
 キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、"
新約聖書 コリント人への手紙 第一 15章3-4節

 パウロは、この三つのこと、即ちキリストの十字架と死と復活が、核心中の核心だと言っています。そしてその中でもキリストは本当によみがえられたのだ、ということを特に強調しています。
 そして聖書(旧約聖書) の預言にも、その通りのことが書かれているのだ、と言っているわけです。

 イエス様の弟子の筆頭であるマタイも証言しています。イエス様は復活されたあと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われ、見ている前で天に上られたのだと。(マタイ28:20)
 それは、今も私たちと共に生きておられる方なのだ、という意味なんですね。

 パウロは、ここが一番大切なことなんだ。本当なんだと、口を酸っぱくして言っているわけです。
 それは、イエス・キリストは、信じて心にお迎えすることができる、具体的な存在なのだ、ということなのですから。

 そして、心にキリストを迎えた者は、死からよみがえり,死の力を打ち破ったキリストのいのちをいただく者とされる、というのです。これがあなたのうちに実現した時には、「死」の意味が全く別のものになります。

 それは、「死で終わりではない」。死は一つの通過点にしか過ぎないという、それまでとは全く異なる死生観へと変わるのです。

 というわけで、次回は「イエス・キリスト」です。
 
 God Bless You !
 
 
2019.11.19.Tue 10:57 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #7

【福音2 キリストの十字架】

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 前回と同じ箇所です。

 一瞬、耳を疑うようなことを言っています。絶対に無理なものが、「キリスト・イエスの贖い」という切り札によって、まったくひっくり返ってしまうのだと言うのです。
 神の前に出る資格がなかったはずの者が、神の前に正しい者とされるという一大逆転。帰るべき家に絶対に帰れなかった者に与えられた、唯一の門の話です。そして、この門から入るには、何も資格は問われない。ただ「恵み」によって入れるのだ、という話です。

 「キリスト・イエスの贖い」を通して、それが実現するというのですが、一体、どういうことなのでしょうか。

 モーセを通してイスラエルに与えられた律法の中に、罪のためのささげ物の規定というものがあります。人はそれぞれの財力に応じて定められた動物をいけにえとし、その血を祭壇に注ぐことによって、その人が犯した罪は完全に赦されるというのです。これは神の側からの約束ですから、まずそのことを信じなければなりません。信じた者はささげ物をすることで、その罪は赦されるのです。しかしそれは、罪を犯すごとにささげなければならないものでした。

 聖書に次のようなことばがあります。

 "この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥め(なだめ)のささげ物です。"
 ヨハネの手紙 第一 2章2節

 これはイエス様がかかられた十字架のことで、それは自分の過去と未来のすべての罪、さらに「世全体の罪」のためのささげ物だというのです。先の動物のいけにえの規定が、全く新しいものに塗り替えられたというのです。しかも、毎回のささげ物は一切不要で、このささげ物で全てが完了したのだと。
 人類史上、最も残酷と言われる死刑により、人となった御子という罪のない体がささげ物とされ、血を流されたのです。そしてそれは神ご自身によって備えられたささげ物だというのです。
 実はこれが、「神は愛である」という意味の真髄なのです。

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節

 これは自分の罪のための贖いの供え物だと信じるとき、あなた神が備えられた門の入口に立っているのです。

 次回は、福音3「復活」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.18.Mon 07:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #6

【福音(ふくいん)】

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
新約聖書 ローマ人への手紙 3章23-24節

 私たちは神の前に出る資格はない、ということを前回に書きました。

 罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す。例え善良な市民を最後まで貫いたとしても、心の中は罪の巣窟。それが罪人の姿です。そしてそれはアダムがエデンの園を追放されて以来の、全ての人間に受け継がれている「罪の性質」から来るのだというのです。心の中だけだったら、人には見えないかもしれません。しかし全能の神の前には通用しません。

 罪を犯す者は罪の奴隷ですと聖書にあります(ヨハネ8:34)が、私たちはそこから解放される必要があります。本当の光の中に戻るべき者なのです。もし戻ったら、私たちの心はどのようなものになるのでしょうか。
 それは、人を喜び、神を喜び、そして罪を犯してしまうようなお互いを、あわれむ心です。しかしそのような心は、残念ながら元々の私たちにはありません。
 本当の解放、喜び、いのちは、神の内にあります。もし私たちがそこに帰るなら、この光と喜びの中に生きる者へと変えられるのです。

 さて、今日のみことば、ローマ3:23-24 の最後のことば、「義と認められる」とは、神様から「なんら問題なし」とハンコを押されること。お前は正しい・・とされることです。しかし自分をまっすぐに見れば、そんなことは絶対にあり得ないわけですが、なんと、その道が開かれたというのです。

 福音(ふくいん)とは、そのことを知らせるメッセージのことです。

 英語で言うともっとわかりやすいです。Good News !

 続きは次回「福音2 キリストの十字架」です。

 God Bless You !

2019.11.16.Sat 07:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #5

【自分を低くする者】

"あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。"
新約聖書 ルカの福音書 18章14節

 何かふさわしい行いがなければ、神の前には出られないと、思ってはいませんか。

 パリサイ人は、隣で祈っている取税人を見て「あのような者でないことを感謝します」と祈りました。律法をかたく守るパリサイ人、律法学者、祭司たちには、行いにおいては全く問題ない者だという自負がありました。だからこそ、自分は神に受け入れられると思っていたのです。そんな彼らにとっては、どうしようもない者が神の前に受け入れられるなどという話は、不愉快千万でした。ましてや、神の前に最悪のことをしておきながら、それが赦されるなんて、あり得ないっ!と。これが放蕩息子の兄の立場です。
 イエス様はそんな彼らをこっぴどく糾弾しました。自分の内側をよく見てみなさいと。神の前に出るのに、自分に相応しい何かがあるとでも思っているのですかと。

 父なる神は完全な聖さをまとった方なので、悪や不正は、例え心の中だけだとしても、そのままでいいよとは絶対に言われない方です。
 私たちは、この光なる全く聖い方のもとに招かれているのです。ところが、そこに帰る資格はどこにもない。それが私たちです。

 そんな私たちですけど、自分は全く資格のない者だということを本当に認めた時、神様がなさった大きなわざが見えて来るんですね。それが「自分を低くする者」が高くされる、その時なのです。

 次回はいよいよ「福音(ふくいん)」です。

 God Bless You !


 
 
2019.11.15.Fri 22:04 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #4

【あなたは兄の側にいませんか】

"それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠(ほふ)られるとは。』"
新約聖書 ルカの福音書 15章30節

 前回に続く放蕩息子の話の後半です。

 放蕩息子(弟)は、父の家に大歓待で迎えられました。ここに一つ忘れてはならないことがあります。それは、息子は自分の相続分の財産を全部前借りして使ってしまったのに、それが不問に付されているという点です。家で忠実に仕えていた兄はそのことが許せませんでした。今日の聖書の言葉は、その兄の言葉です。そりゃないでしょう・・と。

 前回、この例え話の中で、父と放蕩息子のことを見てきました。では兄とは誰のことなのでしょうか。兄は父の家で忠実に仕えている・・と自負していた人です。即ち、父の家にいて、自分は良い子だと思っている人たち。イエス様の周辺にいる人を思い浮かべると、自ずと見えてくる人たちがいます。それは律法学者や祭司、パリサイ人といった、自分を「優等生」だと思っている人たちです。そして弟は、社会的には神から見捨てられている人たち、明らかに罪深い人たち。優等生から見たら「神の前に出る資格などあり得ない人」即ち、取税人や罪人と言われる、人々から見下げられている人たちです。そんな人たちがどうして父の家に迎えられるの?・・これが兄の言葉です。

 こうして見ると、この放蕩息子の話は第一に、父なる神様は、どうしようもない者も、父の元に帰ろうと思うなら、大喜びで迎えてくださる方なのだ、ということを言っているわけです。そしてさらに私たちに対して、次のように問いかけて来ます。
 あなたは自分のことを、社会的にもまあまあやってるし、少なくとも「あのような人たち」ではない、普通の善良な人間だ・・と思っている人ですか?
 それとも、自分はどう見ても神の前に出る資格などない、顔を上げることもできないような者だ・・思っている人ですか? どちらですか? 兄ですか、弟ですか? と。

 もっとはっきり言っちゃいますと、あなたは兄の側にいませんかという・・これがこの話の二つ目の意味です。

 じゃあ、どうすればいいの?という話になります。

 続きは次回「自分を低くする者」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.14.Thu 10:19 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

聖書のことば #3

【死んでいたのに生き返った息子】

"この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。"
新約聖書 ルカの福音書 15章24節

 今日の聖書の言葉は、イエス様が語られた例え話の中の「放蕩息子の帰還」と言われる有名な話の一節です。
 何不自由ない父の家から、遺産の分け前までもらって家を出てしまった息子の話です。息子はそこでお金を使いまくり、宴会三昧。気がついたときには、金のない奴と付き合う友なんてものは、いなかった。どん底です。
 それで我に帰った息子は、お父さんにちゃんと謝って「使用人でいいので家に帰らせてください」と言おうと心に決め、家に向かいます。
 帰ってくる息子を遠くに見つけた父は、駆けていって息子を抱きしめます。
 息子は謝りの言葉を言おうとするのですが、お父さんは息子の顔を見れば、そんな事一目でわかるんですね。そして早速大宴会の用意をさせ、本当の息子にしか与えない最上の着物、指輪、履き物を与えた、という話です。

 この息子とは罪人=私たちのこと。「死んでいた」とは、父から離れてまことのいのちを失っている状態を言い表しています。父は言うまでもなく、父なる神。この息子が父の元に帰ったとき、父は「生き返った」と言ったのです。
 そしてこの話のポイントは、父は、息子が何をしていたかは問題ではなく、帰ろうと心に決め、そちらに向かって歩き始めたこと、それが喜びに満ちた大祝会の時になった、という話です。

 息子の心の矢印は、完全に自分の方にだけ向いていました。そしてそれを当然のことだと思っていたのです。ところが自由気ままに暮らした挙句、どん底状態になった時に初めて、そこにある自分の誤りを予感したんですね。その時初めて、息子は心の矢印を父の方に向けました。このことを「悔い改め」と呼んでいます。

 この話は、父なる神の家に帰るための第一歩の話なんですね。

 では、この続きは次回に。

 God Bless You !
 
 
2019.11.13.Wed 05:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書のことば #2
 
" 義人はいない。一人もいない。"
ローマ人への手紙 3章10節

 義人とは、神の前に正しいと認められる人のことです。自分を義人だと言える人は、相当自分に甘い人だと言えそうですね。

 創世記には、アダムが神に逆らってエデンの園を追放されるという話が出てきます。人類のスタートが、神から離れてしまうという悲劇から始まったのだというのです。神が人を造られたのならば、神はお父さんと呼ぶべき存在なのに、それをどうしても認めようとしない人間としてスタートしてしまったというわけです。
 もちろんお父さんから見たら、それはとても悲しむべきことです。自分の子が自分を顧みてくれないのです。聖書ではこれを罪人(つみびと)と言っています。

 神から離れて、自分を善悪の判断の基準にする。すなわち自分を神とするという傲慢な性質の結果、人は罪を犯すのだというのです。この世のすべての悲惨もその結果だというのです。

 人は罪を犯すから罪人なのではなくて、罪人だから罪を犯すというわけです。
 ではその事態に、神は何をされたのでしょうか。これが、聖書に書いてあることです。

 続きは次回、「死んでいたのに生き返った息子」です。

 God Bless You !
 
 
2019.11.12.Tue 08:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
聖書の言葉 #1

何人かの方に配信している聖書の言葉・・
もったいないのでブログにも掲載することにしました。

まずは聖書のド頭

"はじめに神が天と地を創造された。" 創世記 1章1節

 「神が」という言葉を聞くとき、それは人によって実に様々ですね。

 ここに書かれている神は、天地万物を造られた神であって、そこに存在するすべてのものは「被造物」であると、はっきり宣言しています。
 いわゆる八百万(やおよろず)と言われる数え切れないほどの神も、すべて被造物である人間が作ったものに過ぎないというのです。

 聖書の神は自らこう言われます。「わたしが神である。他にはいない。」(イザヤ46:9ほか)
 それに対し、私たちの心の奥の奥にあるのが「神はいない」なんですね。

 この神と人との関係のすべてを解き明かす書、そして人の始まりと終わりまでのすべてを言い切っている書。それが聖書なんですね。

 God Bless You !
 
 
2019.11.11.Mon 15:45 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
TRIO' pf.福田重男、b.森泰人、ds.市原康
年内の二回ポッキリ

 
11/25(月) 代官山LEZARD
11/26(火) 熊谷スペース1497
 
・・LEZARDでは、スェーデンからの素晴らしいゲストをお迎えすることになりました。
マイケルブレッカーに一番近いと言われる男、ts.オーベ・インゲマールション。
TRIO'との共演は、この時しか見られないかも・・です。
早めのご予約を! 市原までメールを! ichihara@i-produce.net

TRIO:オーベ

 
そして「純TRIO'」は熊谷スペース1497のみとなります。ご予約はお店に。
048-529-1745
こちらもお見逃しなく。

TRIO2016bpc.jpg
2019.11.02.Sat 23:13 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
ドラマー市原康ライブインフォメーション11-12月号のスケジュールに、11/24(日)、大野雄二トリオ モーションブルー横浜 と掲載いたしましたが、市原の手違いでした。この日の公演はございません。
お詫びして訂正させていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
2019.10.18.Fri 05:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
http://i-produce.net
http://twitter.com/ichiharayasushi
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