" 彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。"
創世記 35章4~5節
ヤコブの娘ディナの出来事があって後、神である主はヤコブに現れて、「立って、ベテルに上り、そこに住み、祭壇を築きなさい。」と言われました。(1節)
このベテルは、ヤコブが兄から逃れる旅に出たとき、神の使いがはしごを上り下りしている幻を見た、その場所です。
娘ディナの出来事で近隣住民との関係が悪くなったときに、主はヤコブに、このあとどうすれば良いかをはっきりと示されたわけです。
この時ヤコブが家族に命じたこと・・それは、「あなた方の中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。」でした。
この時すでに、ヤコブの家族の中にも異国の神々の影響が入り込んでいたんですね。
現に妻のラケルは、父が礼拝していたテラフィム(像)を盗みだし、それを大事に持っていたのです。
ヤコブはその全てを、今まで住んでいたシェケムの樫の木の下に埋めました。
そして旅に出たとき、それは神の圧倒的な臨在と守りの中での出発となったのです。それが今日の箇所です。
二回前のタイトルは「新しい出発」でした。
しかしヤコブはその新しい出発をした途端に、娘ディナの出来事という大変なトラブルに巻き込まれます。
そして、その後に、ヤコブとその家族が「偶像を捨てた」とき、それは生ける神の守りの中を歩むという、真の新しい出発となったんですね。
偶像や耳輪・・それは心の中を指すもの、すなわち「まことの神を信じないあらゆる事柄」を指しており、もし私たちもそれらをすべて捨て去り、新しい旅路への出発をするなら、そこには神の奇跡を見ながら歩むという、ダイナミックな歩みが待っているのだということを、ここでは教えてくれているのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" それで、ヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは私に困ったことをして、私をこの地の住民カナン人とペリジ人に憎まれるようにしてしまった。私は数では劣っている。彼らが一緒に集まって私を攻め、私を打つなら、私も家の者も根絶やしにされてしまうだろう。」
彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように扱われてもよいのですか。」"
創世記 34章30~31節
ヤコブはやっと帰るべきところに帰り、そこに家を建て、祭壇を築き、イスラエルとしての新しい歩みが始まる・・はずでした。
ところが、さっそく問題が起きるのです。(43章全部)
レアの娘のディナが、その土地の娘を訪ねようと出かけていったら、族長ハモルの子シェケムが「彼女を見て、これを捕らえ、これと寝て辱めた」というのです。
シェケムと族長である父のハモルは、友好的にディナとの結婚を願い出るのですが、ディナと同じ母を持つ兄のシメオンとレビは激しく怒り、その町のすべての男を殺し、その財産のすべてをかすめ奪うという結果になってしまいます。
そしてそのあとにヤコブが言った言葉が今日の箇所です。
結局このことでシメオンとレビは、地域の人から警戒され、安心できない状況を招いてしまったわけです。ところが彼らは、そんなことよりも妹のことが大切だと、父との確執にまでこの話は発展します。
しかしこの結末を別の視点から見るなら、ディナは取り戻され、イスラエルは他民族との混血によってその純粋性が失われるという、神の民としての最大の危機が回避されたということが見えてきます。
神の側から見るならば、神はご自身の民を「世と混ざり合うこと」から守られたのです。
この時点で神の民が世と混ざり合い、その存在が特別なものでなくなってしまったら、このあとの神の壮大な計画は、ここで断ち切れになってしまうのです。
ここでも神は、罪びとのなせるわざの上に、そのご計画を進められるという型を見ることができるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ。"
創世記 33章20節
ヤコブと和解をした兄エサウは、ヤコブを自分のところに向かえようとするのですが、ヤコブはやんわりとそれを断り、兄エサウがいる南方のセイルではなく西方のスコテに移動し、その地の一画を買い取り、そこに家を建てます。(12-19節)
それはカナンの地のシェケムという町に属するエリアにありました。(17節)
シェケム・・、それはアブラハムがカナンの地にやってきて最初に足を止めた所で、神のアブラハムに対する最初の約束が語られたところです。
わたしは、あなたの子孫にこの地を与える・・。(創世記12:7)
そしてアブラハムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた・・、それがこのシェケムです。
ヤコブは恐らく父イサクから、そのことは聞いて知っていたでしょう。
ヤコブはやっと帰るべきところに帰ってきたという、感慨深い思いがあったのではないでしょうか。
エル・エロヘ・イスラエル・・それは「イスラエルの神である神」という意味です。
神が最初に約束されたその場所に、いよいよ「イスラエル」の名の記された祭壇が築かれたのです。
今までひどいこともし、またひどいこともされて、やっとその場所から逃れ、神に向き合い、祝福をいただき、自分のしたことも赦され、帰るべきところに帰って、祭壇を築いた・・。
それが25章から33章までの話の大きな流れです。
このヤコブの祭壇は、ここから新しい歩みをスタートさせようという決意の象徴です。
私たちも、そのように主にあって新しい一歩を踏み出す決意をするならば、それは偉大な神のみわざを見る、大きな祝福の歩みのスタートとなるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。"
創世記 33章3節
ヤコブは足を引きずる状態で、いよいよ兄エサウに会うことになります。
一方エサウは、四百人の人を従えてこちらに向かってきます。
そこでヤコブは、自分の家族を四つに分け、二人の女奴隷とその子たち、そしてレアとその子たち、そして一番大切な存在であるラケルとその子ヨセフを最後に残して並ばせ、自分はその先頭に立ちました。(1-2節)
長子の権利を奪い取り、恨みを買い、逃亡したヤコブ・・。
そのヤコブは、夜を徹して神と格闘し(祈り)、その結果、自分を守る力は奪い取られ、自分を憎んでいるであろうはずの兄の前に、自分を弁護しようとはせず、ただただ低い姿勢を取る者へと変えられていたようです。
そして、先には使者を使わして、自分は一番後ろに残るような者でしたが、今や家族の先頭に立って、ヤコブは兄の前にひれ伏す者になっていたのです。
" エサウは迎えに走ってきて、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。" (4節)
結局この和解は、夜を徹しての祈りの結果、ヤコブは兄の前にひれ伏す心が与えられたと同時に、兄の前に出る勇気も与えられて実現したというわけです。
心が砕かれるなら、人の前にへりくだると同時に、人を恐れることもなくなるんですね。
主の前にひれ伏すとき、私たちは人を愛する心と、人の前に出ていく心が与えられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。"
創世記 32章31節
ヤコブが「祝福をいただくまで、あなたを去らせません」と、一晩中神と格闘した結果、ヤコブはイスラエルという名に変えられ、神の民の父となる約束をいただきます。
この時主はヤコブに、「あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」と言われました。(28節)
ヤコブは格闘に勝ったのでしょうか。
ヤコブはすでにこの格闘の中で、ももの関節を打たれ、それは外れて普通には歩けないような状態になっています。(25節)
勝った・・、それはヤコブのいのちをかけた祈りに神が応(こた)えられた、ということなのではないでしょうか。
夜が明けてから、ヤコブは先に送り出した家族のところに向かうのですが、彼は足を引きずっていました。それが今日の箇所です。
これから、自分を憎んでいるであろう兄のエサウに会うというのに、ヤコブは戦うことも何もできない状態になっていたのです。
私たちが本当に大切なことに臨まなければならないとき、神は私たちをまったく無力な者とされることがあるようです。
でもこれは実は、神がなさるいつものパターンなんですね。
なぜそのようなことをなさるのでしょうか。
それはひと言で言えば、神がなされたとしか言いようのない結果となるためです。
そのために、自分の能力や知識は必要ないのです。
求められているのはただ、主は私に良きことをしてくださる方だという「信仰」なのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」"
創世記 32章26節
ヤコブは家畜としもべ、そして家族と全財産を先に送り出し、自分は一人残りました。
その時「ある人が夜明けまで彼と格闘した」とあります。(24節)
「その人はヤコブに勝てないのを見て取って、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」というのです。(25節)
そのときにその人が言ったのが今日の箇所です。
その格闘は「夜が明けるまで」続き、ヤコブはその人から祝福をもらうまでは、絶対にその人を放しませんでした。
そしてそれに続くのが以下の27.28節です。
"その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」"
この人は、神であり、また人である、と自ら言っています。
ならばそれは、紛れもなく人としてこられたキリストに他なりません。
結局ヤコブは、神と夜を徹して格闘したのです。
それは私たちの信仰生活になぞらえるならば、夜を徹しての祈りです。
神は、ヤコブの「勝ち」を認め、ヤコブの名を「イスラエル」と改めました。
ヤコブという名の意味は「押しのける者」で、実際にヤコブは長子の権利を兄から横取りするような者でした。
そんな者が神と格闘し、イスラエルという、神の民としての祝福の名をいただいたのです。
どんな者であろうと、とにかく神に向き合い格闘する者かどうか・・、ここがどうもキモの部分のようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その夜をそこで過ごしてから、ヤコブは自分が手に入れたものの中から、兄エサウへの贈り物にするものを選び出した。"
創世記 32章13節
ヤコブは兄エサウへの和解のことばを託し、使いを送るのですが、エサウが四百人を引き連れてやってくると聞いて、非常に恐れます。
そして祈ったのが、前回の祈りです。
その祈りは「あなたはこう言われたではありませんか」という祈りでした。
そしてそのあと、ヤコブはその神の約束を根拠に、早速行動に出るのです。
ヤコブは、やぎ、羊、らくだ、牛、ろば・・合わせて550頭を選び出し、その群れを三つに分けて、しもべたちに先を行かせるように命じます。
三組はそれぞれ距離を置き、それぞれに「これはしもべヤコブからの贈り物です。ヤコブは後方におります」と言わせます。
エサウが三回も同じ光景を見れば、少しは心変わりがするかも知れないと思ったわけです。
そして、最後に二人の妻と女奴隷、そして十一人の子たちに、ヤボク川を渡って行かせ、ヤコブは一人残ります。(14-23節)
ヤコブは恐れのあまり、こんなことをしたわけです。
主の約束のことばに従うなら、それがどんなに拙(つたな)い行動であっても、とにかくやればよいのだということを、ここでは教えてくれているようです。
しかし、ヤコブはこのあと一人で神と向き合い、神との徹底的な時間を過ごしています。それがこのあとの24節以降の話です。
信仰による行動と、神との交わり・・
この両輪によって、その行動がどんなに拙いものであっても、その信仰生活は実を実らせていくんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ。
私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。
どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。
あなたは、かつて言われました。『わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする』と。」"
創世記 32章9~12節
伯父ラバンとの悪い関係の問題が解決し、いよいよ兄エサウのいる地域に近づいたその時のことです。神の使いがヤコブに現れました。(1-2節)
その時やコブは勇気を得て、いよいよ兄のところに行く備えを始めます。
ヤコブはまず先に使いを送り、今自分は多くの財産を持って帰ってきたことと、兄の好意を得ようとしていることとを、エサウに知らせます。
しかし、帰って来た使いがヤコブに知らせたことは、エサウが四百人を従えて迎えに来ようとしているということでした。
ヤコブは非常に恐れ、先ず自分の宿営を二つに分けます。
どちらかがやられても、半分は助かると思ったわけです。(7-8節)
その時のヤコブの祈りが、今日の箇所です。
私はあなたの約束に従ってきました・・と。
すべてはあなたから与えられるのです・・と。
そして具体的な願い、「兄の手から救い出して下さい」・・と。
さらに自分の気持、「私は恐れています」・・と。
そしてヤコブは、最後にもう一度、神の約束を盾にとって、神に訴えるのです。
「わたしはあなたを必ず幸せにする」と言われたではありませんか・・と。
主は私たちに、赦しと、守りと、永遠のいのちを約束されているのです。
私たちも恐れに支配されたときには、この神の約束を根拠に祈ってみませんか。
主は「信仰に」答えてくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」"
創世記 31章24節
ヤコブは夜逃げのようにして、ラバンのもとから逃げ出します。
後ろからはラバンが追ってくる・・、そして目的地には自分の命を狙うであろう兄のエサウがいる。
この旅は初めから前途多難ならぬ、前後多難、八方塞がりの旅でした。
ヤコブがラバンを欺いて逃げ出したこと(20節)、そしてこともあろうに、ラバンが最も大切にしていたであろう偶像のテラフィムをラケルが盗み出してしまったことで、ラバンの怒りは頂点に達していました。(19節)
ラバンは身内の者たちを引き連れ、ヤコブを追い、七日で追いつきます。
何が起きるかわからない一触即発の状態・・。
ところがここに神が介入されるんですね。それが今日の箇所です。
ヤコブの逃げ方にしろ、ラケルがやったことにしろ、それはきわめて人間的な弱さや罪深さを象徴するようなことです。
しかし神が現れて、それを責めようとするラバンに「善悪は論じないようにしろ」と語られたというのです。
そして最終的には、ラバンとヤコブは平和協定を結び、ラバンは娘たちと最後の別れをして帰って行くというのが、この話の結末です。(22-55節)
このことを通して私たちは何を見るのでしょうか。
ヤコブやラケルの罪深さや弱さ? それとも罪深い者であるのにあわれみを受けている自分?
実はその視点の持ち方ひとつで、私たちの心はまったく異なる状態へと導かれていきます。
愚かで弱い自分の上にある神のあわれみと赦しをいつも覚え、その愛と平安の中で生かされていることをいつも喜ぶこと・・。
それが、この箇所が教えてくれることなのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ラケルとレアは答えた。「私たちの父の家には、相続財産で私たちの取り分がまだあるでしょうか。
私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。あの人は私たちを売り、しかもその代金を食いつぶしたのですから。"
創世記 31章14~15節
今日の箇所は、ヤコブが「あなたの生まれた国に帰りなさい」と神に告げられたことをラケルとレアに話をしたときの、彼女たちの反応です。
「あの人は私たちを売り」とは、花嫁料として父親に支払われるものを指すもので、それはヤコブの20年間の無償の働きでした。
しかし、父親としては、それを娘のために蓄えておくべきであったにもかかわらず、その形跡はどこにもなかった、すなわち食いつぶしたと、娘たちは見ていたようです。
それで彼女たちは言いました。「神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものです。さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさって下さい」と。(16節)
ラバンとの関係が冷え切ったことと、妻たちも父親に不信感を抱いたこと、そして妻たちは「神がお告げになったことをすべてして下さい」と言った・・。
ヤコブにとって、生まれ故郷に帰るための障壁はもう何もありませんでした。
ただ、この旅の先には、恐らく自分を恨んでいるであろう兄のエサウがいるということ・・、それだけが残された問題でした。
一歩踏み出すには状況が整った・・、しかし先には明らかに待ち受ける問題がある・・。
ヤコブは、神である主が言われたことに聞き従いました。(17節)
神は状況を整えることで、私たちの行動を促されることがあります。
それでも前途多難であることは見えている・・。
もしそんなことがあるなら、私たちは恐れずに出て行くべきなのではないでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしは、あのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに誓願を立てた。さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」"
創世記 31章13節
ベテル・・、それはヤコブが伯父のラバンがいるハランに向けて旅出ったときに、神からの幻を夢の中で見たその場所です。
そこでヤコブが見たのは、地と天をつなぐはしごを御使いたちが上り下りしているという幻でした。
神の領域につなげられているという祝福に与(あずか)っていることを見たヤコブは、そこで誓願を立てました。
それは、主がこの旅路を守り、無事に父の家に帰らせて下さるなら、父イサク、また祖父アブラハムと同様に、あなたは私の神です・・というものでした。(28:20-22)
神はこの誓願を覚えておられ、「さあ立って、あなたの生まれた国に帰りなさい」と言われたのです・・。
それはもうラバンとの関係に悩まされることなく、神との関係の中で、神のご計画に与(あずか)る者となるということの保証に他なりません。
神があなたを導かれるところ、それは自分を縛るすべての環境から解放されて、神との関係に生きる所なんですね。
そのために神はヤコブの環境をすべて整え、このあと妻たちの心もヤコブとひとつになって、ヤコブ一族はラバンから離れていくのです。(14-16節)
帰るべき所・・それは神のふところです。
そこに行く行程に、恐れや不安はありますが、神はそのためならあらゆる環境を整えて、あなたとその家族が神とともに歩む者となるその道を用意して下さるのです。
恐れないで、ただ信じていなさい。(マルコ5:36)
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」"
創世記 31章3節 (前回と同じ箇所です)
ヤコブはもはや、伯父のラバンのもとにはいられなくなっていました。
その絶妙なタイミングで、主がヤコブに語られたのが、このことばです。
あなたの父たちの国に帰りなさい・・。
しかしそこには、自分を今も恨んでいるであろう兄のエサウがいます。
ヤコブにとっては、今回も先の見えない、恐れを伴う旅になるわけです。
そのヤコブに言われた主のことばが、「わたしは、あなたとともにいる。」でした。
なんと力強いことばでしょうか。
イスラエルの民がモーセに率いられて、奴隷状態にあったエジプトから脱出し、いよいよ約束の地カナンに入ろうとするときにも、主はモーセを通して、民にこのようなことばを語られています。
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたと共に進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記 31章6節)
エジプトを脱出して約束の地に入るというこの出来事は、罪の奴隷であった私たちがイエス・キリストを通して約束の地(天の御国)に入ることの「型」です。
ですからクリスチャンである私たちにも、この同じ約束が与えられているんですね。
それは、どんな危険が待ち受けていようとも、主は確実にあなたとともにおられ、あなたを目的地にまで導いて下さるという約束です。
私たちはいつも、この主イエス・キリストに目を注いでいれば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」"
創世記 31章3節
ヤコブの伯父ラバンは、ヤコブのものとなるはずの家畜を息子たちにあげてしまい、ヤコブの報酬を少ないものにしました。
しかし神はヤコブを祝福し、ヤコブの持つ家畜を殖(ふ)やされ、結局はラバンの息子たちが「ヤコブは父のものをみな取り、その父のもので富む者になった」とまで言うようになりました。(1節)
さらにラバンのヤコブに対する態度も以前のようではなく、二人の信頼関係は明らかに壊れていきました。(2節)
神はヤコブが、これ以上そこにとどまることはできないような状況をつくられたんですね。
そして「あなたの父たちの国に帰りなさい」言われたのです。
ラバンのもとにいたヤコブの二十年間は、ただひたすらラバンに仕える日々でした。
ラケルのためと思って仕えていた初めの七年は結局は姉のレアのため、そのあとの七年は愛するラケルのため、そしてその後は、約束通りには与えられなかったところの貧弱な家畜の群れのために仕える六年でした。
ヤコブは自分が不当に扱われていることを身に感じながら、この二十年間を過ごしてきたわけです。
神は、この二十年をかけてヤコブを忍耐の人として造り変え、そして多くの富をもって生まれ故郷に帰るための万全の備えをしてくださったというわけです。(9-12節)
神は時間を用い、最善のタイミングで次の一歩を踏み出す状況を作られ、新しい世界に私たちを導かれる・・そういうお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった。"
創世記 30章43節
この人とはヤコブのことです。
伯父のラバンはヤコブがいることによって、自分がとても祝福されていることを自覚していました。(30:27)
ラバンはヤコブがその力を増し、自分から離れていくのを恐れていたんですね。
そのことが、前回の家畜の件にも現れています。
ラバンは、ヤコブがほしいと申し出た異種の家畜の多くを息子たちの所に移してしまい、結局ヤコブに与えられた羊とやぎは、ほとんど余り物のようなものでしたが、ヤコブはそれを巧みに増やし、結局強い群れはヤコブのものとなり、弱い群れはラバンのものとなったというのです。(36-42)
ラバンの意図に反して、ヤコブは益々強い勢力を持つ存在になったのです。
この出来事は、ヤコブのずる賢さによってラバンの財産を奪ったという話ではなく、ラバンによる妨害の中でヤコブは知恵をいただき、大いに祝福される者となったという風に受け止めるべき所です。(35-43節参照)
それで結局、ヤコブとラバンとの関係は悪くなるのです。
そしてどういうことになったかというと、ヤコブはその家族を連れてラバンから離れ、あのカナンの地に帰ることになるのです。
ここにも、人間模様の上に神のご計画が進められるパターンを見ることができるんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ラバンはその日、縞毛と斑毛の雄やぎと、ぶち毛と斑毛の雌やぎのすべて、すなわち身に白いところのあるもののすべて、それに、黒毛の子羊のすべてを取りのけて、息子たちの手に渡した。"
創世記 30章35節
ヤコブは、レアによって六人の子を、ラケルの女奴隷ビルハによって二人の子を、レアの女奴隷ジルパによって二人の子を、そして不妊だったラケルによって一人の子ヨセフを得ます。(〜24節)
ヤコブは十一人の子を得たとき、伯父のラバンに対し、もう十分に仕えてきたので、独立させてほしいと申し出ます。(25節〜)
ラバンはその申し出を受け入れ、報酬は何がほしいかとヤコブに尋ねたところ、ヤコブはぶち毛と斑(まだら)毛のすべての羊、黒毛の子羊、そして斑毛とぶち毛のやぎ・・それらを自分の分としてもらいたいと申し出ます。
その時のラバンの答えは「よろしい。あなたの言うとおりになれば良いが」でした。(34節)
できるものならやってみろ・・みたいなニュアンスですね。
伯父のラバンが群れの中から取り分けたこれらのやぎや羊の中で、ヤコブが申し出た種類と重なっていないのはぶち毛と斑毛の羊、そしてしま毛の雄やぎだけでした。
すなわち、ラバンはヤコブが申し出た種類の大半を、ヤコブに渡す前に息子たちにやってしまったのです。
ラバンはひどいやつですか?
このひどさは、実はあなたの内にある・・。
「ラパンは」ではなくて、「あなたは」というのが、いつもみことばが示そうとしていることなんですね。
そしてそれはすべて、そのような者を赦し、愛してくださる主を覚える・・そのためなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。"
創世記 30章8節
ヤコブに最も愛された妻ラケルは、自分に子が授からないのを見て、自分の女奴隷ビルハをヤコブに妻として与えます。(30:3)
こうしてラケルは、女奴隷ビルハによって二人の子、ダンとナフタリを得ます。
このときラケルが言った言葉が今日の箇所です
さて今度は姉のレアが、自分がこれ以上身ごもらないのを見て、ラケルと同じように、自分の女奴隷をヤコブに与えます。
「死に物狂いの争いをして」とは、直訳すると「神の争いを争った」です。
しかし、この姉と妹の争いは、ただ自分の心を満足させるための熾烈(しれつ)な戦いに過ぎず、「神の争い」などということばとはほど遠いものです。
しかし、ここでも見ることができる神のご計画・・。
それは人の思いや愚かさによって展開される出来事の上に、神のご計画が着実に実現されていくという・・、これはヤコブとエサウの事件以来、ずっと見てきたことです。
そしてイスラエルの12部族は、ここから生まれるのです。
人は神の前に出るにはおよそ相応しくない者である・・、しかしその上に、神のご計画はなされる・・。
これが変ることのない、神のなさり方の基本であり、そこに神は人へのあわれみと愛を現されているのです。
そのことのクライマックスが、ユダヤ人によってキリストが十字架にかけられるという出来事であるわけです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」"
創世記 30章2節
ラケルは次々と子を産む姉に嫉妬したことによって、一気に罪の泥沼にはまってしまった・・これが前回の話でした。
ラケルは「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」と言いました。ラケルは子ができないことの責任をヤコブに取らせようとしたのです。
それでヤコブの心は怒りに満たされたというわけです。
でもヤコブの怒りは、自分のせいにされたことによる怒りというより、ラケルの神への不遜な態度に対する怒りだったのではないでしょうか。
それでヤコブはひと言、ラケルに言いました。「胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ」と。
神と私たちとの関係・・それは、私たちの心が、そこにおられる神を認めるかどうかにかかっているんですね。
ところが私たちの心は常に揺れ動き、神を離れて「自分」に目が行ってしまうのです。
私たちは自分の内にも、このラケルがいることを覚えるべきなのではないでしょうか。
私たちは常に、今自分の上に起きているこの出来事は、神の御手の中で起こっているのだというところに立つべきなんですね。
私たちの心は、常に神に向くことによって、揺れ動かなくなるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」"
創世記 30章1節
レアはヤコブに四人の子を生みました。ところがラケルは不妊で、一人も子が与えられず、そのことでとても苦しみます。
それでラケルは、とても悪い状態に陥ります。
そのひとつは嫉妬。もう一つは「人のせいにする」という思考。そして三つ目は神への不遜です。
嫉妬はひと言で言うなら、人の上にある祝福を喜べない心です。
見なければいけないのは、自分の上にある祝福なのに、他人の祝福に目がとまった途端に、そちらを基準にして自分を見てしまうのです。
ラケルは夫から一番に愛されている存在ではなかったのでしょうか。
そして二つ目、「人のせいにする」・・。
子ができないのはヤコブのせいではなかったはずです。
これは問題点を自分の内にではなく、人のうちに見るという心の姿勢です。
そして三つ目、神への不遜
いのちは神が与えておられるのです。「私は死にます」というのは神の主権という領域に介入しようとする心、すなわち「高慢」という心の状態です。
ラケルは、姉が祝福されているのを見て、一気に罪の泥沼にはまってしまったんですね。
私たちが注目すべきなのは、先ず自分のことなのではないでしょうか。
それは自分中心という意味とは違う、自分のありのままの姿を先ず見て、それが神の祝福の中で与えられているものだと認識することです。
それが神の前に立つ者の、正しい視点の土台なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。"
創世記 29章31節
婚礼の一週間を過ぎて、ヤコブは結局二人の妻を娶(めと)ることとなりました。
しかしヤコブが愛していたのは妹のラケルです。
それでもヤコブはレアに対しても夫の分を果たしていたわけですが、レアにとっては自分が嫌われているという、辛い立場であることに変わりはありませんでした。
主は、この嫌われているレアの胎を開かれ、続けて四人の子を与えられたというのです。しかしラケルは不妊でした。
レアが産んだ子は、長男のルベン、そしてシメオン、レビ、ユダでした。
この四人の中の三男と四男が、このあと生まれるイスラエル12部族の中の最重要部族の祖となるのです。
レビ族は祭司職だけで生活するという、特別な部族でした。
そしてユダ族は、王を生み出し、メシヤ・・来たるべき救い主を生み出し、全世界の祝福の元となる部族となるのです。
ここにも救いの型が見られますね。
世の中からは何の価値も見出されていないような、辛く苦しい生涯を送る者を、神はちゃんと顧みてくださっていて、その祝福はすでにその人の上に溢れるばかりに注がれているのです。
あとはそれらの人々が一人でも、この主を見上げることができるよう、力を尽くしていくというのが、私たちの役目なのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」
創世記 29章25節
ラケルを妻に迎えるための七年間は、ヤコブにとって、あっという間でした。
それでラバンは婚礼の祝宴を催したのですが、日が落ちたころにラバンはラケルではなく、姉のレアをヤコブの所に連れて行ったので「ヤコブは彼女の所に入った」というのです。(22-24節)
そして朝になって、見ると、それはレアであった・・それが今日の箇所です。
当時は、夜になれば天幕の中は全くの暗闇だったのか、ヤコブは朝まで、そこにいるのがレアだとは気がつかなかったようです。
私たちから考えると、レアも複雑な心境だったのではないでしょうか。
ヤコブは、自分のことをラケルだと思って抱いているのですから・・。
ヤコブはラバンに抗議します。
すると、姉から順番にしか嫁にはやれないのでそうしたのだという答えが返ってきます。
でも、この七日間の婚礼を終えたら、ラケルも妻として与えよう・・。
その代わり、もう七年間、あなたは私に仕えよ・・と。(26-27節)
今の私たちから見たら、ヤコブとエサウの事件もそうですが、どちらかというと、みんなめちゃくちゃですよね。
しかしその中で、神の摂理は実現して行くわけです。
これらのめちゃくちゃな人々、、それは実は、自分自身が鏡に映し出されているようなものだという視点でこれを読んでいかないと、恐らくわけがわからなくなると思います。
神のあわれみは、罪人すなわち私たちの上に注がれ続けているのです・・これが聖書が言いたいことの肝(きも)なんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。"
創世記 29章20節
ヤコブとラケルの奇跡の出会いのあと、ラケルの父ラバンはヤコブからすべての事情を聴き、ヤコブは当面の間この伯父の家に滞在することになります。(12-14節)
ひと月経ったころ、ラバンは毎日自分の家で仕えるヤコブに、その働きの報酬は何が良いかと尋ねます。
そこでヤコブは、二人の娘のうちの妹のラケルを愛していたので、ラケルを妻として迎えられるなら七年間この家に仕えますとラバンに伝えたところ、ラバンはそれを承諾しました。(15-19節)
そして・・というのが今日の箇所です。
ヤコブは、七年間の労働も、愛(いと)しいラケルを妻に迎えられるという希望の中では、毎日が楽しくて仕方がありませんでした。
そしてそれは「ほんの数日のように思われた」というのです。
それは、七年先が待ち遠しくて限りなく長い時間に感じたのではなく、喜びと楽しさのゆえに、毎日が充実していて「時間を忘れていた」ということに他なりません。
ヤコブは与えられた希望の故に「今を喜んで生きる」人になっていたのです。
同様に私たちクリスチャンは、私たちを愛してくださる主にまみえるとき、すなわち主との婚宴の時が約束されている者です。
ならば、私たちの地上の生活は、その希望の故に「今を喜んで」を生きる者となっている・・はずなのです。
それは、後悔や先にある恐れなどからは解放された「時間を忘れる」毎日です。
この約束は、あなたに与えられているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石を転がし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。
そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。"
創世記 29章10~11節
ヤコブは自分が旅をして到達したこの地が、まさに目的地であったことを知ります。
そしてそこに、求めていた妻の候補が一人現れたのです。
ヤコブはその娘ラケルと、羊の群れを見て、すぐに井戸の蓋の石を転がし、羊の群れに水を飲ませました。
ヤコブは羊に水を飲ませている間、神がこのようにして、ジャストミートの形でラケルと出会わせてくださったことを知って、躍り上がるほどのうれしさに満たされていったに違いありません。
そしてヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた・・。
"主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは測り知ることもできません。" (詩篇145:3)
人は、神のみわざを目の当たりにしたとき・・泣くんですね。
ヤコブは600㎞の旅をしている間、主に出会い、主の祝福のことばをいただき、確信をもって目的地に向かって歩み続けました。
しかし、そのときにはまだ何も見ていないのです。
しかし今、自分の信仰と現実が一つであったことを、ヤコブはその目で見たのです。
私たちクリスチャンも、まだ何も見えていないのに「その時」に希望を置いて歩んでいますが、実際に主にまみえるときには・・、ああ自分の信仰は確かなものだったんだと知って・・、
私はきっと、声をあげて泣くのではないかと思うのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" それでヤコブが「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」と尋ねると、彼らは「よく知っています」と答えた。
ヤコブは彼らに尋ねた。「その人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ほら、娘のラケルが羊を連れてやって来ます」と言った。"
創世記 29章5~6節
ヤコブは兄エサウの復讐から逃れ、また同時に母リベカの兄ラバンの所に行ってその娘を妻に迎えるという二つの目的のために「東の国の人々の国」へ行きました。(1節)
その行程は約600㎞、ほぼ東京〜大阪間です。
そしてアブラハムのしもべが主人の息子イサクの嫁探しに出かけたときと同様、この出来事も井戸のところで起きました。
ヤコブはそこにいる羊飼いたちに尋ねると、そこがまさに目的地であることがわかり、しかもそこに伯父ラバンの娘のラケルが羊を連れてやってきたというのです。
こんなことは、神の介入なしにはあり得ないことです。
私たちクリスチャンと共に歩んでくださる神は「この神」なんですね。
ですから私たちの人生の歩みの中で起こること・・そこに偶然はひとつもないのです。
様々な出会い、それが良いものであっても悪いものであっても「そのことを通して」神がなされようとしていることがあるのです。
そしてその神は、「私たちを幸せにするために」いつも共におられ、私たちに語りかけてくださる神なのです。(申命記8:16参照)
なんと力強いことでしょうか。
この真理を、特に不本意な出来事の前に立たされたときに、しっかりと思い起こしたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」"
創世記 28章20~22節
ヤコブは、夢の中に主が現れ、祝福のことばをいただきました。
そこで枕にしていた石を起こし・・おそらく大きな石だったのではないでしょうか・・、それを立てて記念碑として油を注ぎ、主を礼拝しました。(16-19節)
油を注ぐとは、契約の儀式のことです。
それは、神が約束してくださったことを受け取り、確かにその契約を結んだ者として、そのように信じますということを神の前に表明したということです。
そして立てた誓願は、「私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」でした。
十分の一ということばは、聖書には主へのささげ物という意味で41回出てきます。
アブラハムがイエス・キリストを予表するメルキゼデクという祭司にささげたのは、戦利品の十分の一でした。
レビ記27:30では、地の十分の一は、地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。・・とあります。
十分の一・・それは自分のものではないという、主への信仰の表明であるわけです。
私たちも十一献金といって、教会でのささげ物をしますが、それは得たものすべては主が与えてくださったという信仰の表明なんですね。
マラキ書3:10には「こうして神を試してみよ」と言われており、それは神を試みて良いと言われる唯一のことですから、是非一度試してみることをおすすめします。
十分の一をささげようと心に決めた途端に、あなたの心は神に近づいていることを知るに違いありません。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」"
創世記 28章17節
主がヤコブに夢の中で語られた祝福、それはアブラハム、イサクとまったく同じでした。
ところでこの夢の最初は、次のようなものです。
・・すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。(12節)
そして眠りから覚めて言ったヤコブのことばが、今日の箇所17節です。
ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ・・。
聖書には「天」ということばと「地」ということばが出てきます。
天とは、時には天空を指しますが、ここで使われている天とは「神の領域」のことです。
ヤコブが見たこのまぼろしは、神の領域と地の領域とがつながっているというまぼろしだったわけです。
地に属する者が、神の恵みとあわれみによって、天とつながる者とされた・・それがクリスチャンです。
そして天につながる一本のはしご、そして「天の門」・・、それは私たちを天につなげてくれる唯一の救い主、イエス・キリストを象徴するものにほかなりません。
旧約聖書はここでも私たちに、救いの型を見せてくれているのです。
天につながる一本のはしご・・それは一本だけでした。
それがイエス・キリストなんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」"
創世記 28章15節
ヤコブは伯父ラバンのいるハランに向かって旅立ちました。
その途中の一夜の出来事・・。
ヤコブは夢を見ます。それは天に届くはしごが地に立てられていて、神の使いたちがそのはしごを上り下りしていた・・というものでした。
そこで主のことばがヤコブに臨みます。
それはアブラハムとイサクの上に与えられた祝福の約束とまったく同じものでした。
さらに・・、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、この地に連れ帰り、約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない・・と、これは「もったいなすぎる」ような、ヤコブにとってはおよそ分(ぶん)不相応と思われるような祝福です。
しかし主は、初めからヤコブを選ばれていたんですね。
主に選ばれる人の基準って、何なのでしょうか。
少なくとも「資質」の問題ではなさそうです。
ただヤコブはエサウのように他の神々には近づこうとしなかった、ただそれだけです。
よく考えれば、それは私たちの救いとまったく同じだということに気がつきます。
主は受ける資質など全くないような者を招かれ、その人がただ主イエス・キリストに目を向け、信じたというだけで永遠のいのちを与えて下さるお方なのです。
主の祝福は100%の「恵み=受け取るだけ」であり、「あわれみ」なんですね。
これまでのヤコブとエサウにまつわる一連の出来事は、そのことをこれでもかというほど私たちに教えてくれているのではないでしょうか。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" さらにエサウは、カナンの娘たちを、父イサクが気に入っていないことを知った。
それでエサウはイシュマエルのところに行き、今いる妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻として迎えた。"
創世記 28章8~9節
エサウは父が改めてヤコブを祝福したこと、そして父の家の血のつながっている者から妻を迎えるために、ヤコブを送り出したことを知りました。
それでエサウは、両親が自分の二人の異邦人の妻を気に入っていないことに気がついたというのです。
それでエサウは、イサクの兄イシュマエルの娘を妻として迎えます。
しかしこのイシュマエルは、アブラハムの妻サラから生まれたのではなく、女奴隷エジプト人ハガルから生まれた子でした。
エサウはこれで両親も少しは安心するかと思ったのでしょうか。
しかしこの妻も結局、エジプト人という異邦人の血が混ざった娘であったわけです。
そしてここでエサウについての話は終わり、次に出てくるのはエサウの子孫の一族、異邦人としてのエドムなのです。
私たちクリスチャンは、神の子としての系図に入れられる者となりました。
しかしその歩みの中に「他の血」すなわち、神以外の偶像をそこに混ぜては絶対にいけないんですね。
そのようなことをするなら、私たちはそのまま霊的な「異邦人」になってしまうのです。
主だけをあがめ慕い求めていくことは、私たちにとって、神の国の相続人として歩み続けるための最重要ポイントなのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" こうしてイサクはヤコブを送り出した。彼はパダン・アラムの、ラバンのところに行った。ヤコブとエサウの母リベカの兄、アラム人ベトエルの子ラバンのところである。"
創世記 28章5節
イサクはリベカの促しもあり、改めて自らの意思をもって下の子ヤコブを祝福することを心に決め、ヤコブをリベカの実家に送り出します。
こうしてヤコブは、母リベカの兄ラバンの所へ向かいました。
エサウは一杯のスープのために、自分の長子の権利をさげすみ、そんなものはおまえにやると弟のヤコブに宣言してしまいました。
そしてそれがまさか、このような結末になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
一方ヤコブは、父をだまして祝福を自分のものとしましたが、まさかそのあと、父の家にはいられなくなり、ひとりで逃避行に出ることになるとは、これもまた夢にも思っていなかったことなのではないでしょうか。
人はみな、自分の行いの刈り取りをする・・すなわち、その結果を見ることになるということを、ここでは見せられているように思います。
と同時に神は、そのような人の愚かさや弱さからくる出来事の中で、神はご自身が言われたことを確実に成就されるお方であるということを、このあとの創世記の流れで、さらには聖書全体からもそれを見ることができるわけです。(29章〜50章)
私たちは自分のことばや行いの結果を見させられます。
しかし主は、そのことをも用いて未熟な私たちを扱われ、そして私たちを主に相応(ふさわ)しい器として変えて行かれつつ、確実に天の御国へと導いて下さるんですね。
神はおよそ相応(ふさわ)しくない者に祝福を与えることで、神の一方的な愛と赦しをそこに現されるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」"
創世記 27章46節
この前の41〜45節には、母リベカがヤコブに、兄エサウがあなたを殺そうとしているから今すぐ私(リベカ)の兄のラバンの所へ逃げなさいと言った、そのときのことが記されています。そしてこの46節・・。
リベカは夫イサクを説得するために、エサウの嫁たちの問題を持ち出したのです。
神である主によって祝福されたアブラハムの血筋が、他の神々を拝む民(エサウの妻たち)によって汚されてはいけないということを、リベカはイサクに訴えたわけです。
このリベカのことばは、イサクが確信をもってヤコブをラバンの元に送り出すためには十分なものでした。
そしてこのことで、神の民の血筋は守られることになったのです。
結局リベカと息子のヤコブは、罪深い弱さを持ちながらも、イエス・キリストへの系図の最初の部分を担保した(守り抜いた)のです。
この出来事は、どんなに弱くまた罪を犯してしまうような私たちであっても、ただ主から目を逸らさないでいるなら、その歩みの上に神は、ご自身の計画を現わしてくださるのだということを教えてくれているのではないでしょうか。
私たちに求められること・・それは私たちがどんな者であるにしても、またどんなことがあったとしても、「主のことを思っている人かどうか」・・ただそれだけなんですね。
主はその人の上に、みこころを成し遂げられ、ご自身を現してくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 父イサクは彼に答えた。「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。
おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」"
創世記 27章39~40節 前回と同じ箇所です。
この同じ箇所を「預言」として見るとき、そこには驚くほど正確な未来が語られていることがわかります。
それはこの時から更に1000年後のことです。
ヤコブの子孫すなわちイスラエル王国は栄華を極め、約束の地を支配し、そして周辺国も支配していました。
その中のひとつに「エドム」という国があります。このエドムこそがエサウの子孫なんですね。兄が弟に仕えるとは、このことだったわけです。
そしてこのエドムという国は死海南東の、肥沃ではない、どちらかというと山岳地帯で、荒野の続きのような地域でした。
おまえの住むところには地の肥沃がなく、上から天の露もない・・というこのイサクのことばの通りです。
そして「しかし、おまえが奮い立つなら・・」とあります。
それはイスラエルの王国が南北に分裂してから、約100年後に起こりました。
エドムは南ユダ王国に背き、自分たちの上に王を立てたのです。すなわち「奮い立った」のです。
そこに戦いはありましたが、結局「エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。」(列王記第二 8:22)
こうしてエドムはイスラエルのくびきを解き捨てたわけです。
このイサクの預言は、未来をそのまま語ったものだったんですね。
聖書の神は、これから後に起こることを正確に語られるお方なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 父イサクは彼に答えた。「見よ。おまえの住む所には地の肥沃がなく、上から天の露もない。
おまえは自分の剣によって生き、自分の弟に仕えることになる。しかし、おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てるだろう。」"
創世記 27章39~40節
「私のためには、祝福を取っておられなかったのですか。」(36節) と、泣いてすがるエサウに、イサクはこれも預言のようなことばを語ります。
それは、エサウは厳しい環境の中で、しかも常に戦いの中を生き抜いていかなければならないというものでした。しかし最後に不思議なことが語られます。
「おまえが奮い立つなら、おまえは自分の首から彼のくびきを解き捨てる」・・
それはヤコブとの関係から解放されるという意味です。
それでエサウはヤコブに対する殺意に燃えます。(41節)
しかしヤコブを殺すことで、エサウの心は本当に解放されるのでしょうか。
結局この話は人間関係の縛りから解放される・・という話です。
長い時の流れが過ぎ、ヤコブが本当にへりくだった者として帰ってきたとき、やっとエサウにもヤコブを赦す心が与えられました。この時エサウは初めて、ヤコブのくびきから解放されたんですね。(33章)
奮い立つ・・、それは力を振り絞って自分の道を切り開くという意味ではなく、時間がかかったとしても心と力を尽くして「平和の神」というところに立ち続ける、という意味なのではないでしょうか。
力は主イエス・キリストにあるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」"
創世記 27章33節
ヤコブが父イサクをだました直後に、兄のエサウが獲物を仕留めて帰り、父のもとにおいしい料理を持ってきます。(30-32節)
それで・・というのが、今日の箇所です。
先の祝福はだまされてやった祝福であることがわかりました、と同時にそれは軽々しく変更のできるものではない、厳粛なものでした。
それは神の御名による祝福、そしてアブラハムに与えられた神の約束の流れでの祝福でした。
それはイサクの人間的な願いからくる遺言としての祝福ではなく、預言 (神からのことば) として与えられたものでした。
彼は必ず祝福されるだろう・・。
この一連の出来事を読むとき、私たちはそこにある理不尽さに、どうしても目が行ってしまいます。
結局ヤコブはそのままおいしい汁を吸うって話か・・と。
しかしヤコブの歩みはこのあとの逃避行に始まり、最後の死に至るまで、それはとても厳しいものでした。
神はヤコブを、それなりに扱われたんですね。
それはまさしく、罪人が恵みによって救われ、そこから神に取り扱われながら成長していくクリスチャンの信仰生活の「型」その物を見ているようです。
ではこのあとのヤコブの生涯を見て行きましょう。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"「諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」"
創世記 27章29節・・前回と同じ箇所です。
祝福ということばには、どういう意味があるのでしょうか。
「神が祝福される」と言う場合、それは大きく捉えるならば、そこに神がご自身を現され、そこに良いことをされ、それを人々が見るようになるということです。
そしてその祝福は、繁栄とか力とか信仰とか・・様々なことの上に表わされるわけです。
では、神ではなく人が人を祝福するというのは、どういうことなのでしょうか。
このイサクのことばの中では、「呪う」と「祝福する」ということばが対比されて出てきます。
簡単に言ってしまえば、呪うとはその人の上に悪いことが起きることを願うことで、祝福するとは、その人の上に良いことが起きることを願うという意味です。
しかし聖書全体を通してその背後にある本質的な意味を考えるならば、のろうとは神から切り離されることを願うことで、祝福とは神が共におられることを願うことだということが見えてきます。
このイサクのことばは、明らかに先のことを語っている預言(神のことば)です。
ならばそれは、現代の私たちの上に置かれているものでもあるわけです。
おまえ=イスラエル・・この民は今でもユダヤ人として、世界中に特別な民として存在しています。
そして私たちはこの民を見るとき、世界の始めから終わりまでを支配され、この先にはっきり計画を持たれる神をそこに認めるべきなんですね。
この民を祝福する・・それはこの終わりに時に際して、神の御心が更に前進することを願うことだと・・その意味が見えてくるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"「諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」"
創世記 27章29節
イサクは自分のところに来たのがエサウだと思い込んで、弟のヤコブを祝福してしまった・・、それが今日の箇所です。
ところで、この二人の子がまだリベカのおなかの中にいるとき、主はリベカに「兄が弟に仕える。」とはっきりと宣言されたことを覚えておられるでしょうか。(25:23)
この時すでに、主は弟ヤコブの方を祝福することに決めておられたんですね。
リベカは、このことを夫イサクに話していたに違いありません。
イサクは、このことをすでに知っていたはずなのです。
しかしイサクがそれを知っていて、敢えて主に逆らったとは考えにくいです。
おそらく長男を祝福するというのは、イサクにとって至極当然のことで、そのことに何の疑問もなくそれをしようとしたのではないでしょうか。
しかし主はそんなイサクを用いて、弟の方を祝福するというそのご計画を遂行(すいこう)されたというわけです。
仮に主がリベカに語られたことをイサクが覚えていたとしても、長男の前で弟のヤコブを祝福することなど、イサクにはとてもできなかったかも知れません。
ところがイサクは思いの限り、ヤコブの方を祝福したのです。
この出来事は神である主が、イサクが自信をもってヤコブを祝福することができるようにするためのものであった・・という見方もできるわけです。
主は弱い私たちを用いて、そのご計画を確実に進めて行かれるお方のようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
"「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」"
創世記 27章24節
前回の記事を読んだ方から、「エサウがかわいそうで納得がいかない」という声をいただきました。
このところずっとその点を扱ってきたわけですが、もう一度・・。
エサウは異邦人の妻を二人迎え、両親を悩ませました。エサウは、ヤコブが作っていた食べ物ほしさに、長子の権利を「そんなもの、おまえにやるよ」と言いました。エサウは神の祝福というものに対して熱心ではなかったようです。
一方ヤコブは、一杯の煮物で兄から長子の権利を奪うという姑息(こそく)なことをします。そして実際に長子の権利を自分のものにするために父と兄を欺(あざむ)くのです。
ヤコブは「長子の権利」すなわち神の祝福を渇望していました。
以前にダビデ王のことを引き合いに出したことがあります。
このダビデの前のイスラエル王国の初代の王サウルは主に選ばれた器だったのですが、神のことばをないがしろにして、聖絶せよと言われていた敵のすべてのものの中から、自分が良いと思うものを残して神の怒りを買います。それは、神のことばに対して熱心ではなかったということです。
一方ダビデは、手下からその妻を強引(ごういん)に奪い、その手下を殺してしまうという罪を犯し、神の怒りを買います。
しかしダビデは、この怒りを買ったときにさえ主を求め続け、主から離れようとはしませんでした。
ダビデとヤコブ、そしてエサウとサウル・・そこにある明確な違いは「主を熱心に求めているかどうか」だけであることがわかります。
神の御前に相応しくない者が主に顔を向け、この方のもとに行くならば、主はその人を祝福されるのです。
ここに「福音」の基本があるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね、わが子よ。」彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、取り計らってくださったのです。」"
創世記 27章20節
ヤコブは母リベカと共に、父イサクをだます計画を実行するために父のところに行ったとき、「おまえはだれかね」と尋ねる父に嘘をついて言いました。
「長男のエサウです。私はお父さんが言われたとおりにしました。どうぞ、起きて座り、私の獲物を召し上がってください。そうして、自ら私を祝福してください」と。(18-19節)
そしてそのあとが、今日の箇所です。
あなたの神、主が私のために、取り計らってくださったのです・・。
このことばはヤコブにとっては父をだますためのことばに過ぎません。
しかし同時にそのことばは、主の計画から見ると、確かにその通りだとも言えます。
ヤコブの嘘と、神の計画の真実とが重なっているのです。
それは言ってみれば「預言的な」ことばでした。
しかし私たちから見れば、「よくこんな嘘をつけたものだ」の一言に尽きます。
ヤコブにとってそれは、あくまでも保身のための嘘にすぎません。
聖書には、神の目から見て人として相応(ふさわ)しくない行いをしてしまう人物が、これでもかというほど出てきます。
神の計画の中にあって、人はあくまでも「罪人、弱い者」なんですね。
そしてその上に、神のあわれみと愛があるというのです。
これがあくまでも聖書のメッセージの基本なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブは父のところに行き、「お父さん」と言った。イサクは「おお。おまえはだれかね、わが子よ」と尋ねた。"
創世記 27章18節
ヤコブは恐れるのですが、結局母リベカのいうことを聞き、母の計画を実行に移しました。
前回の記事を読まれた複数の方から、このリベカとヤコブが良くないことをやったにも関わらず、神は兄のエサウではなく、このヤコブからイスラエルという神の民を誕生させたということについて、どうしても納得がいかない、理解ができない、という声がありました。
実は、そのようなことが聖書の中には多く記されています。
その代表があのダビデ王です。
ダビデが自分の手下の妻バテ・シェバを、非道な方法でその夫から奪い取り、しかもその夫を殺してしまったという事件。
ダビデはそのことによって神の怒りを買い、バテシェバによって授かった最初の子のいのちを取り上げられてしまいます。
しかしその子が死んだとき・・、ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女の所に入り、彼女と寝た・・。(第二サムエル12:23)
そしてそれによって生まれた子が、あのイスラエル王国の最も栄華を極めた王、あのソロモンなんですね。
ヤコブからダビデ、そしてこのソロモンからの系図がキリスト誕生につながっているのです。
およそ相応(ふさわ)しくないと思われるような者によって、その祝福の系図が綴られているのです。
なぜそのことに納得がいかないのか・・、それは神に相応しくない者が祝福されるというところなのではないでしょうか。
しかし神は、およそ相応しくない者を赦し、しかも天のすべての霊的祝福を与える神・・その神によってあなたも私も赦され、祝福をいただく者となったのではいでしょうか。
リベカはあなたのこと、ヤコブはあなたのこと、ダビデはあなたのことなのです。
ハレルヤ! (私たちを御子の贖いによって赦されたお方、主の御名をほめたたえます)
【理解を超えた主の導き】 創世記193
" さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」"
創世記 27章8~10節
イサクは年を取って、目がかすんでよく見えなくなっていました。(1節)
そのイサクは長男エサウを祝福するために、まず獲物を捕ってきて、それを料理して食べさせてくれとエサウに言います。
エサウはさっそく狩りに出かけたのですが、母リベカは、この祝福は長男にではなく、弟のヤコブが受けるべきだとし、あることを画策します。
それが今日の箇所です。
ヤコブは母リベカのこの提案に尻込みします。
大体、兄は毛深いし、いくら目が見えなくてもそんなことしたらすぐにばれてしまい、祝福どころか、のろいをこの身に受けてしまうでしょう・・と。(12節)
しかしリベカはヤコブに、兄エサウの着物を着させ、ツルツルの腕や首回りには子やぎの毛皮を巻き付けさせ、強引(ごういん)にこの計画を実行させます。
長子の権利がエサウに行ってはならないことは、リベカの確信でした。
リベカは当然自分がした悪を認識していました。しかしそれは、神に押し出されてしたとしか言いようがない・・というのがこの出来事です。
神はこの出来事を通して、イスラエルの民の初穂であるヤコブをその祝福に与(あずか)らせるのです。
これこそが、聖霊の促しの中で、ただその人は動いたとしか言いようのないことなのかも知れません。
すべての人は罪人であるというのが、聖書が主張する原則です。
そして神は、その罪深く弱い者を用いて、人類の歴史を導いてこられたんですね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エサウは四十歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。
彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。"
創世記 26章34~35節
さて、ヤコブの兄エサウはヒッタイト人の娘を、それも二人、妻に迎えたという記事が突然出てきます。
そしてこの二人の妻は、イサクとリベカすなわちエサウの両親にとって「悩みの種」となったというのです。
ヒッタイト人とはすなわち異邦人で、地元の民の娘でした。
ですから彼女たちは、自分たちの風習をそのままエサウの家庭に持ち込むことになります。
二人ですから、その影響力は相当に強いものがあったと思われます。
イサクとリベカにとって最も大事なことは、アブラハム以来自分たちを祝福し、導いてこられた主である神を第一とすることでした。
ところがエサウの家には、別の空気が流れていたというわけです。
人がその家で最初にクリスチャンになると、そこには当然のことながら二つの空気が流れ始めます。
しかし私たちの主は、その家族をもその祝福の中に導こうとされるお方です。
それを知った私たちは、それをなんとかしなければと思ってしまいますが、私たち自身には、その場の空気を変える力など、これっぽっちもありません。
私たちができること・・、それはただ主に目をとめていることだけなんですね。
それだけで、主はそこに立って(臨んで)くださるのです。
主に立っていただかなければ、何も起こらないということを、肝に銘じましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らは言った。「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。"
創世記 26章28節
イサクは新しく移住したベエル・シェバにおいても大きな勢力を持つ一族となりました。
そこで、以前に寄留していた地の王アビメレクがやってきて言った言葉・・それが今日の箇所です。
イサクがアビメレクのところに寄留していた当初から、主はイサクを祝福し、異常とも言えるほどの勢いでその勢力は増し、さらにそこから出たあとも、その勢いは衰えなかったようです。
アビメレクが、イサクの勢力を叩き潰すのではなく、盟約を結ぼうとした理由・・、それは「主があなたとともにおられることを確かに見た」からでした。
主の祝福は、そのようにはっきり見えるんですね。
新しく救われたクリスチャンが、明らかに以前とは違う人になっていることを人々が見る・・これも主の祝福が外に見えてきた形です。
しかし、その祝福がどこから来たのか、本人がはっきり言わないことには、人々はなぜそうなったのかを知ることはできません。
主に栄光を帰す・・、それは、こうなったのは「主の故なのです」と言い表すということです。
あなたが「イエス様を信じた時からこうなったんです」と言うならば、人々はそこにイエス・キリストがおられるからなんだと、知ることができるのです。
主に栄光を帰す・・、そこには大きな力が働くのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" 主はその夜、彼に現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」"
創世記 26章24節
イサクはレホボテと名付けた井戸の所まで来て、やっと平安を得てそこに住みました。(22節)
そしてさらに「彼はそこからベエル・シェバに上った」(23節) とあります。
今日の箇所は、このベエル・シェバに移ったその夜のことです。
主からイサクに、二回目の約束のことばが与えられます。
一回目は、飢饉のために近隣のペリシテ人の地に移り住むように導かれたとき。そしてこの二回目・・。
どちらも移住して新しい生活が始まろうとするそのとき・・それは先が見えず、大きな不安がそこにあるときでした。
しかしながらこれらの約束は、自分が死んだ後の遥(はる)かに先のことです。
この周辺の国々をあなたに与えるとか、そこであなたの子孫を増し加えるとか・・。
それでもイサクは、主が現れて語ってくださったことによって、「今」がこの約束された将来につながっているのだということを確信し、この場所に祭壇を築き、そこに天幕を張ったんですね。
さて、私たちにも約束が与えられています。
それは天の御国と永遠のいのちという、天のすべての霊的祝福の約束です。
しかしこれも確かに「今」ではなく先のことです。
それでも私たちは、この約束によって今の時を歩む者とされているのです。
イサクのように、与えられた約束の上に立ち、主を礼拝しつつ歩む者でありたいものです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」"
創世記 26章22節
イサクは非常に裕福になりました。それでペリシテ人はイサクをねたみ、イサクの父アブラハムが掘った井戸をすべて土で埋めてしまうという、不穏な出来事が起こるようになりました。
そこで王アビメレクは、イサクに出ていってほしいと願い出ます。(15-16節)
イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住みます。(17節)
そしてその地でイサクは、ペリシテ人が塞いだ井戸を掘り起こし、湧き水を見つけるのですが、その土地の羊飼いたちは、それはわれわれのものだと言ってイサクと争います。(18-20節)
そのときイサクは彼らに抵抗することはせず、もう一つの井戸を掘ります。
しかしそこでもまた、彼らはイサクと争います。
この時にもイサクは争おうとすることはせず、さらにもう一つ別の井戸を掘りました。(21節)
そしてそこでは争いが起きませんでした。
この時にイサクが言った言葉・・、それが今日の箇所です。
「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」
イサクは誰とも争うことをせず、そこから去り、新たにチャレンジをし続けました。
そしてやっと「主が与えられた地」を見つけたんですね。
それは自分が思いもしなかったところだけど、そこには平和があったというのです。
このイサクの姿勢・・、私たちが困難に出会った際の、大事な道しるべとなってくれるかも知れませんね。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。
こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。"
創世記 26章12~13節
神の祝福を約束されたイサク・・。
その弱ささえも主は用い、王の命によって身を守られるという「絶対安全な」処遇を与えられ、イサクはこのペリシテ人の国に住めることとなり、さらにその上に、このようにあふれるばかりの祝福を与えられたというのです。
イサクが世渡りに長けているとか、何か特別な才能があったとかいうことは、どこにも書いてありません。
主がイサクを「祝福された」のです。
"主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。" (箴言10-22)
弱さを通しても良きことをされ、更に「主が祝福された」ということで百倍の収穫を見、ますます栄えて、非常に裕福になったというのです。
それは主がイサクと共におられた、ということに他なりません。
ところで、” 聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。" (第一コリント12:3) とある通り、イエスを主と告白する私たちクリスチャンは、聖霊すなわち主がともにいてくださるようになった者です。
だったらそれは、主の祝福があなたの上にあることが確定したということでなくて何でしょうか。
こうして私たちは、永遠のいのち、天のすべての霊的祝福を約束され、その生涯を終えるそのときまで、「祝福の原因」である主が共にいてくださる者とされているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" アビメレクは言った。「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」
そこでアビメレクは、すべての民に命じて言った。「この人と、この人の妻に触れる者は、必ず殺される。」"
創世記 26章10~11節
イサクがいたところに飢饉が起こり、イサクはペリシテ人の王アビメレクのもとに行って、そこに寄留しました。(1節)
しかしここでイサクは、美しい妻リベカの故に自分が殺されるのではないかと恐れ、「あれは自分の妹です」と偽って暮らしていました。
ところが、それが嘘であることが王アビメレクに知れてしまい、そのとき王がイサクに言った言葉・・それが今日の箇所です。
イサクは父のアブラハムと同様、妻に姦淫の罪を犯させることを知りながら、ただ自分の身を守るだけのために人々を欺いていたわけです。
それはその人の心の弱さの露呈以外の何物でもありません。
ところがアビメレクはイサクを責めこそしましたが、結局はイサクを完全に守るためのお墨付きを与える結果となったのです。
この出来事を見て思い起こすみことばがあります。
" 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。" (ローマ人への手紙 8:28)
私たちは弱さ、愚かさを身に帯びています。
しかし主は、そのことをも用いて益としてくださるというのです。
主を知った者は、もう自分にこだわる必要はないのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟(おきて)とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」"
創世記 26章5節
神である主はイサクに言われました。
わたしは・・あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす・・。
そして最後に言われたのが、今日の箇所です。
主への務め・・それは、主の「命令」と「掟」と「おしえ」を守ることだというのです。
主の命令・・。イエス様が私たちに語られた二つの命令は、主の命令のすべてを網羅(もうら)するのだとイエス様は言われました。(マタイ22:37-40)
その第一は、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
そして第二は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というものです。
次に「掟」という言葉を見ると、次のみことばを思い出します。
" 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。" (詩篇119:71)
そのおきてとは、ひとことで言えば、苦しみや試みは、主の愛を知るために与えられるという「主のおきて」です。
「教え」・・それは、主から直接語られることば・・、私たちにとっては聖書のみことばです。
そうやって主を慕い求めて歩むその歩み・・それこそが「主への務めを果たす歩み」だというわけです。
愛、苦しみ、みことば・・この三つは、信仰生活の重要なファクター(要因)であるようです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
「あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。
そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」
創世記 26章3~4節
さて、先の出来事の後、イサクが寄留していた地に飢饉が起こりました。
それでイサクは近隣のペリシテ人の王アビメレクのもとに移住しました。
そのときに主がイサクに現れて言われたのが、今日の箇所です。
わたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす・・と。
神である主は、アブラハムに言われたのと同じことばで、イサクにその祝福の約束をされました。
あなたの子孫によって、地のすべての国々が祝福を受ける・・。
今までの歴史を振り返って、そのことばがぴったり当てはまるのは、このイスラエルのユダ部族の子孫として人のかたちを取ってこられた神、イエス・キリストによって地の果てまでの世界中の民の上に、神の赦しの福音が宣べ伝えられている・・、そのこと以外にはありません。
主は七度にわたって、アブラハムに祝福を告げられました。そしてさらに息子のイサクにも同じように語られたのです。
そして約束の地カナンがイスラエル民族に与えられることも、そして地の果てまでのすべての民が祝福を受けることも、すべて実現しているのです。
同じように人類は、2000年の間にわたって主の祝福(救い)の約束、すなわち天の御国の福音をずっと聞かされ続けているのです。
主は私たちに、これから確かに起きる事を語り続けておられるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮(あなど)った。"
創世記 25章34節
この時代、人でも家畜でも、初子(ういご)は神に属するものとされ、特別に価値があると考えられていました。
エサウはその価値を侮ったというわけです。
そして後になって、その代償となるような出来事が起こり、結局弟のヤコブが長子の権利を受け取ってしまいます。
聖書は私たちクリスチャンについて、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3) と言っています。
そして黙示録 21章7節では、「勝利を得る者は、これらのものを相続する。」とあります。
これこそが長子の権利であって、それが信じるすべての者に与えられるというのです。
ところが、私たちもこの権利を侮ってしまうことがあるんですね。
この世の歩みにおいて、私たちは常にある種の戦いに晒(さら)されています。
それは御霊の思いを取るか、肉の思いを取るか・・。
肉の思いを取ってしまったと思い当たる経験は、おそらく100%の方にあるのではないかと思います。
しかしそれこそが「長子の権利を侮った」その瞬間なんですね。
私たちはいつも、この大きな恵みによる祝福を覚え、それを侮ってもとの暗闇の生活に舞い戻ってしまうことのないようにしたいものです。
私たちは、天にあるすべての霊的祝福をいただいているのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。"
創世記 25章32~33節
ヤコブが「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言ったそのことばに対して、空腹と疲れで死にそうになっているエサウは、目の前の煮物を取るしかありませんでした。
長子の権利は目に見えないものです。そして目の前にはおいしそうな、そして今まさに自分に必要なものが、そこにはあったわけです。
しかしながら少し落ち着いて考えれば、一杯の煮物よりも長子の権利の方がはるかに重要なものであることは、だれにでも分かるはずです。
エサウは「現状」のみに心が奪われて、大きな過ちを犯してしまうんですね。
エサウは本当は怒れば良かったんです。
自分が取ってきたこの獲物はだれのためだと思っているのか・・と。
その煮物を自分に食べさせないというなら、この獲物はおまえになどやるものか・・と。
しかしエサウはそれどころではなく、自分の状況・・死にそうになっている・・ことと、目の前にある煮物に目と心が奪われて、正しい判断がまったくできませんでした。
私たちも、目の前のことに心を奪われて、一番大切なものを捨ててしまうこと・・、ないでしょうか。
一番大切なもの・・?
それは、自分のいのちであり、喜びであり、力であり、いつもいつも良き助言者である、主イエス・キリストであることは言うまでもありません。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。"
創世記 25章30~31節
リベカがイサクに生んだ双子、エサウとヤコブは成長し、エサウは得意の狩りをする人になり、一方ヤコブは活動的な人ではなく、家の仕事をしていたようです。
ある日、エサウが狩りから疲れ切って帰ってきたとき、ヤコブはちょうどおいしそうな煮物を作っていました。
エサウはどうかそれを食べさせてくれと、ヤコブに懇願します。
普通に考えれば、さあさあお疲れ様でした、どうぞ食べてくださいと言うのが筋です。
しかしヤコブはなんと、「今すぐ私に長子の権利を売ってください」と言ったというのです。
一杯の煮物を餌にして、兄の長子の権利を奪おうとしたのです。
エサウは家族のために狩りをして帰ってきたのに・・です。
前回「神は、人のいかにも人間くさい弱さをそのまま用いて、最後には弟のヤコブを、神の民イスラエルの始祖とされた」と書きました。
その「人間くさい弱さ」・・、そこには悪辣(あくらつ)さもあるんですね。
あなたはこのヤコブを責めますか。
聖書はすべての人は罪人であると断言し、さらに「すべて他人をさばく者よ・・さばくあなたは同じ事をしている (ローマ2-1)」 と、私たちすべての者の罪深さの実態を鋭く指摘しています。
もしあなたがこのヤコブを見るとき、ヤコブを責めるのではなく、自分の内にある同じような悪辣さを見る機会となるならば、それはこの上なく幸いなときになるに違いありません。
なぜなら、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれた・・、それが改めて分かるときになるからです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。"
創世記 25章26節
イサクの20年間の祈りが応えられて、リベカはついに双子を授かります。
この時、後から出てきた弟は先に出てくる兄のかかとをつかんでいたというのです。
それは先に出てくる兄に対して「ちょっと待て」と言っているようです。
しかしこの事は、その後の二人の行く末を象徴するかのような出来事でした。
神である主はすでにリベカに語っておられました。
この二人は大いなる国民となるが「兄が弟に仕えるようになる」と。(23節)
そしてそのご計画を実現させるために神は、このあとの話を見ていけばわかる通り、人(ヤコブ,リベカ,リベカの兄ラバン) のいかにも人間くさい弱さをそのまま用いて、最後には弟のヤコブを、神の民イスラエルの始祖とされるのです。
私たちクリスチャンの上にも、どうしてこんなことが起こるのだろうというような、ある種の運命的な出来事が起こることがあります。
そこでいつも思い知らされるのは「自分の弱さ」です。
しかし神である主は、そういう私たちの弱ささえも用いて、私たち一人ひとりの上にあるご計画を実現される方であるということを、このヤコブの生涯は教えてくれるんですね。
私たちは、このような弱い自分、時には神様を悲しませてしまうような自分を愛し、守り導いてくださる主を、ただ信じて歩んでいけば良いのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)