"イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に連れ出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」"
出エジプト記 16章3節
イスラエルの全会衆はエリムを出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイの間にあるシンの荒野に入った・・。これが16章の1節です。
エジプトを出てからちょうど一ヶ月が経ちました。
イスラエルの会衆はこの旅にうんざりしたのか、モーセとアロンに不平を言います。
あの奴隷時代は良かった・・と。
あのとき彼らは苦しく、叫んで主を呼び求めていたのではなかったのでしょうか。
さらに彼らは、「主の手にかかって死んでいたら良かった」などと言いました。それは主に呪われて死ぬ方がましだという意味です。
さらに彼らは、モーセとアロンに向かって彼らは、俺たちを殺す気か・・と、怒りと不信のことばを投げつけたのです。(3節)
荒野の旅、それは私たちの信仰生活を象徴するものです。
しかし私たちはこの信仰生活の中で、必ずしも喜べない状況の中を歩まされることがあります。
このイスラエルの会衆のことばは、私たちに置き換えれば、あの頃は飲んだり食べたり、何も考えないで好きなことをしていて良かったなあ。あの頃がなつかしい。こんな生活まっぴらだ。もう死んだ方がましだ。こんな生活のどこに希望があるんだ・・と、そう言っていることになります。
この出エジプト記を読み進むならば、主はこの荒野の旅を通して私たちを試みることによって、主がどのような方であるかを教え、その信仰を養い、そして最後には「幸せにする」のが主の目的なのだということがわかります。(申命記8:16)
主との信頼関係を損なう心の思い・・、それがどれだけの回り道になるか・・。それを出エジプト記から申命記にかけて、主は私たちに教えてくれているのではないでしょうか。。
主は、あなたを幸せにすると、断言しておられるのです。
この辛い今・・それは主を信じてみようと、信仰の心を目覚めさせるときなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子(やし)の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。"
出エジプト記 15章27節
アビブの月の15日に、イスラエルの民はエジプトを出ました。
そして、紅海を渡り、マラにたどり着き、さらに彼らはエリムに着きます。
そしてこのあと16章1節ではこのエリムをあとにしてシナイ方面に向けて出発し、「第二の月の十五日」すなわち一ヶ月目にシンの荒野に入ったとありますから、今日の箇所に出てくるエリムは、エジプトを出てからほぼ中間、二週間目くらいのところだったのではないでしょうか。
紅海を渡ってから三日経って、あの苦い水のあるマラに着いています。
マラでは水が飲めるようになったとは言え、イスラエルの民はそこに落ち着く間もなく出発したと思われます。
そしてやっと着いたこのエリムには十二の泉がありました。
それはおそらく二百万の民を潤すのに十分だったのでしょう、。
そしてそこには、七十本のなつめ椰子があったと記されています。
ナツメ椰子というのは、イスラエルの民の代表的な食料でした。
やっと一息つけるところにたどり着いたという感じです。
それにしてもこれから先のことを考えると、それは決して安心できるとは言いがたい状況です。
安心できる状況ではないけど、必要最低限は満たされている・。
本当に「主にのみ」依り頼んで出発するとき、私たちの信仰生活もこのようであるのかもしれません。
何も保証されるものがない・・。
しかしそこには私たちの全てをご存知の全能の主がおられ、今こうして生かされている・・。
それは実は、何も保証がないのではなくて、私たちの歩みにかかわる完全な保証がそこにはあるということなんですね。
そしてそれは「死」をも含む、その先の永遠に向けての保証でもあるのです。
私たちは、不安の中に置かれていたとしても、完全な保証をいただいている者なのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟(おきて)と定めを授け、そこで彼を試み、
そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」"
出エジプト記 15章25~26節
前回と同じところから始まり、さらにその先までが今日の箇所です。
主はモーセに、苦い水を甘くするという奇跡を見せられ、あなた方に紅海を渡らせたわたしは今もあなたとともにいるのだということを、ここでもう一度覚えさせ、その上で掟と定めを授けられたというのです
もし、あなたの神、主のみ声にあなたが確かに聞き従い・・・それは、主から語られたら確実に従うということです。
主の目にかなうことを行い・・・それは、主が喜ばれることを基準にしていつも行動するということです。
主の命令に耳を傾け・・・それは、自分の心の願いと主の命令の両方を目の前にするとき、主の命令の方に耳を傾けるということです。
その掟をことごとく守る・・それは、主とともにあることをいつも喜ぶということに他なりません。
そうすればわたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない・・・。
エジプトで下したような病気とは、心を頑なにする者に対して神が下された疫病のことでしょうか。そのようなことは決して起こらないという神の約束です。
主に従い、主と心を一つにし、主の御思いをいつも選び取るとき、わたしはあなたを癒やすと、主は言われたのです。
癒やす者である・・それは「癒やすことができる者」というより、癒やすことを目的としてあなたとともにいる者だということを、主は語られているのではないでしょうか。
あのシナイ山にて示された十戒の、まずは基本的な祝福の型を、主はさっそくここで示されたというわけです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。"
出エジプト記 15章22~25節
いよいよイスラエルの民は約束の地カナンに向けて旅立ちます。
彼らは三日間荒野を歩いても、水を見つけることはできませんでした。
そしてやっとマラというオアシスまで来て水を見つけるのですが、その水は苦くて飲めなかったというのです。
私たちは、主に出会って新しい歩みが始まります。そしてそれは、希望に満ちた出発だったはずが、最初からそれはひどいものだったという体験をされたことはないでしょうか。
まさにこの出エジプトは最初から踏んだり蹴ったりといったような旅立ちでした。
民はモーセに向かって、飲み物がないじゃないかと不平を言います。
それでモーセは主に向かって叫ぶと、主は一本の木を示され、それを水の中に投げ込んだなら、水は甘くなったというのです。
主は彼らを、ギリギリのところまで追い込まれて、奇跡のみわざを見せられる・・、これは私たちが今まで見てきた、主のなさり方の典型的なパターンです。
主はこのようにして、イスラエルの民が本当に主に信頼することを学ぶように導いて行かれるわけですが、これはそのはじめの一歩に過ぎなかったというわけです。
信仰の歩みを始めたばかりの者の目の前に立ちはだかる壁・・それは「信仰を働かせる機会」として、主が私たちに与えてくださるものなんですね。
信仰を働かせる・・それは決意を伴う心の「行動」です。
不平ではなくて、信仰の方を選び取ることを学んでいこうではありませんか。
その時主は、苦い水を甘くされるというのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【あなたの罪の重荷は「取れる」】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=TC4YBRE71nY&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
"モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。"
出エジプト記 15章22~25節
いよいよイスラエルの民は約束の地カナンに向けて旅立ちます。
彼らは三日間荒野を歩いても、水を見つけることはできませんでした。
そしてやっとマラというオアシスまで来て水を見つけるのですが、その水は苦くて飲めなかったというのです。
私たちは、主に出会って新しい歩みが始まります。そしてそれは、希望に満ちた出発だったはずが、最初からそれはひどいものだったという体験をされたことはないでしょうか。
まさにこの出エジプトは最初から踏んだり蹴ったりといったような旅立ちでした。
民はモーセに向かって、飲み物がないじゃないかと不平を言います。
それでモーセは主に向かって叫ぶと、主は一本の木を示され、それを水の中に投げ込んだなら、水は甘くなったというのです。
主は彼らを、ギリギリのところまで追い込まれて、奇跡のみわざを見せられる・・、これは私たちが今まで見てきた、主のなさり方の典型的なパターンです。
主はこのようにして、イスラエルの民が本当に主に信頼することを学ぶように導いて行かれるわけですが、これはそのはじめの一歩に過ぎなかったというわけです。
信仰の歩みを始めたばかりの者の目の前に立ちはだかる壁・・それは「信仰を働かせる機会」として、主が私たちに与えてくださるものなんですね。
信仰を働かせる・・それは決意を伴う心の「行動」です。
不平ではなくて、信仰の方を選び取ることを学んでいこうではありませんか。
その時主は、苦い水を甘くされるというのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」"
出エジプト記 15章21節
イスラエルの民がみな海から上がったとき、追っ手は海の中に沈み、民は完全にその追っ手から解放されました。
そしてモーセとイスラエルの子らは主への賛美の歌を歌いました。(1-18節)
その時アロンの姉ミリアムという女預言者とそれに従う女たちがタンバリンを持ち、踊りながら出てきて人々の前で歌った・・。(20節)
モーセの一族であるレビ族は、後に礼拝を司る祭司の一族となるわけですが、このときすでに預言という賜物がミリアムに与えられていたんですね。
アロンはモーセの兄ですから、ミリアムはモーセの姉ということになります。
このミリアムこそ、ファラオがイスラエルに生まれる男子はすべてナイル川に投げ込んで殺すように命じたときに、生まれたばかりのモーセをパピルスのかごに入れてファラオの娘の目に止まるようににした、(2章1-10節) あの姉なのだと一般的には考えられていますが、残念ながらそれが明記されている箇所はありません。
女預言者ミリアムは歌いました。
主に向かって歌え・・。
私たちが礼拝にて歌う賛美歌・・それは、主に向かって歌うんですね。
ただ歌を歌うのではなくて、主に向けて賛美のことばを発するのです。
主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた・・。
まさしくこの出エジプトの出来事は、聖書に記されている人類史上、主の御力が表された出来事の中で、最大とも言える神の奇跡です。
出エジプト・・それは私たちの救いの「型」であると、何度も書いてきましたが、私たちがこの世から救い出されて神のものとされたという、クリスチャンそれぞれのうちに起きたこの出来事、そしてそれが御子イエス・キリストによって成し遂げられたという出来事こそが、人類史上最大の神の威光が表された出来事なんですね。
ですから、私たちは、今の自分がどこから切り出されて、どのような者になったのかということを、主の前に出たとき、すなわち礼拝をするときには、心から力一杯賛美の歌をささげなければならないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。"
出エジプト記 15章19節
この19節には、イスラエルの民が海の中の道を進んで救われたその出来事が、まとめのようにして一言で記されています。
今日はこのことばを通して、私たちの信仰生活における「窮地」について考えていきましょう。
イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った・・。
イスラエルの民が絶体絶命の窮地に追いやられた、やっとその時点で主はご自身を現されました。
目の前の海とは、どう見ても克服しようのない壁が立ちはだかっている、そのことを示すものです。
そして注目すべきは、本当に絶体絶命となるその道を、主が導かれてきたという点です。それは主が敢えて、その状況に人々を導かれたということです。
そしてそこまで導いてから、主はモーセに海に手を伸ばすように命じたわけです。
モーセという存在は、私たちの「信仰」を象徴するものです。
信仰によって、「その海の上」に手を伸ばしたとき、海は分かれた・・。
それは少なくとも、その絶体絶命の状況から逃げるのではなく、そこに手を差し出すこと、すなわちそれに向き合って信仰を働かせることを意味します。
するとそこには「乾いた地面」が現れたというのです。
それは明らかにそこを行けという意味です。
そしてそこを行ったら、追っ手もそこに入ってきて民を脅かしました。
それは、与えられた脱出の道においてさえも、安心できない状況が続くということです。
しかしイスラエルの民が海を渡りきったとき、その安心できない状況は一気に消し去られたのです。
神が私たちのためになさること・・、それはいつもこのようなんですね。
問題に向き合って信仰を働かせる・・、それは嵐の中を前進する上で、まず最初に思い起こすべきことなのです。
そのとき主は、あなたにご自身を現してくださるのです。
ハレルヤ! (主の御名をほめたたえます)
" あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。
主はとこしえまでも統べ治められる。」"
出エジプト記 15章17~18節
今日のこの17-18節は、イスラエルの民がエジプトから救い出されたときに歌った、感動的な主への賛美の最後の部分です。
この最後の部分はその賛美の、いわゆる締めの部分で、神がこの先の遠大なご計画において最終的になさろうとしていることを、預言とも言える形で歌っている箇所です。
何度も書いていますが、出エジプトは、神の救いの計画の「雛形」です。
一言で言えば、罪の奴隷であるすべての人をこの世から救い出し、神の子とし、永遠の御国の民とするという、天地創造の時点ですでに神がもっておられたそのご計画の全体を、この出エジプトという出来事は表しているというわけです。
あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる・・。
それは約束の地カナンのことですが、このゆずりの山こそ、この世からすくい上げた人々によって構成される天の御国であり、選ばれた人々はそこに「植えられる」と言っているのです。
そしてそれは「御住まいのためにあなたがお造りになった」と表現されています。
すなわち、神ご自身の御住まいのために神はそれをお造りになるというのです。
天の御国・・、これこそが神が喜ばれる、神の最も望まれていた御国の実現だというわけです。
そしてそれは、主の御手が堅く建てた聖所であり、そこで主はとこしえまでも王として統(す)べ治められるというのです。
このイスラエルの賛美の歌には、すでにこの神の最終目標が見事に歌い上げられているのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。"
出エジプト記 15章2節
イスラエルの民は主の圧倒的な力により、エジプトから救い出されたことを知りました。
そこでまず最初に彼らがしたこととして記されているのがこの15章の1節から18節までの、主に向かって歌った賛美の歌です。
今日の箇所はその一部の一節です。
主は私の力・・、このことばは私たちが日常的に口から出したい信仰のことばですね。主「が」あなたの力なんです。
また、ほめ歌・・、私たちはこの主なる神を私たちの地上での生涯の完全なる「オールマイティ」として、恵みによっていただいたのです。ですから主は私の「ほめ歌」なんですね。
主は私の救いとなられた・・、今までは他に求めていたものがあったかもしれない。しかし今はこの主以外に救いはない・・このこともいつも心に刻んでいたいですね。
そして・・、この方こそ私の神・・、と毎日大声で叫びたい。この方こそ私たちがこの世に生を受けて見いだすことのできた最大の宝なのです。
私はこの方をほめたたえる・・、私たちは、主への賛美を毎日ささげるべき者なんですね。
イスラエルの民の信仰はこの時点でマックスに達しました。
ただ、何度も書いていますが、その舌の根も乾かないうちに極度な困難に遭遇すると、そんなことはすっかり忘れて、モーセと神に絶望し、エジプトは良かったなどという不遜なことばを発するようになる・・。(16章3節参照)
しかし、これも私たちなんですね。
私たちは日頃から祈りとみことばをもって、この最高の宝、オールマイティである主に近付くことに、心を尽くそうではありませんか。
そこが勝利の場所なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。"
出エジプト記 14章31節
イスラエルの民が対岸に上がり、振り返ってみると海の水は元に戻り、海辺には死んだエジプト人が多数浮かんでいました。
彼らは主がなされた決定的なこの出来事を見て・・というのが今日の箇所です。
主を恐れること、そして主とそのしもべモーセを信じること・・。
主はそのような信仰へと民を導いたのです。
もしその信仰がずっと続いたなら、イスラエルはあっという間に約束の地カナンを征服できたはずなのですが、イスラエルは四十年もの間、荒野の旅をつ続けることになります。
それは結局、八方塞がりの困難な状況に立たれたとき、主を恐れることと主とそのしもべモーセを信じる、その信仰をこの民が忘れたことによるものでした。
せっかく信仰が最高の状態にまで引き上げられたのに、そうではなくなってしまったのです。
私たち信仰者に与えられる試練、そして八方塞がりの困難・・、それは、私たちが「信じるとき」として与えられるものなんですね。
困難が主を忘れるときになってしまうならば、その辛い旅はいつまでも続くことになるのかも知れません。
すべてを主に明け渡し、主は必ず良きことをして下さる方であることを信じて、その信仰を主に言い表す・・。
「あなたは必ず良きことをして下さる方です。ですからこのすべてのことについて感謝します。」・・と。
その時私たちは、困難の中に生ける主が働かれるという奇跡を見ながら、ますます信仰を深めて歩む者とされるのです。
忘れてならないのは、主を恐れること、そしてこの主を徹底的に信じることなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【背を向ける者を愛されたイエス】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=MPbWAmYKSic&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。"
出エジプト記 14章30節
主はモーセに「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ」と言われました。
そしてファラオとその全軍勢の上には水が覆い、残った者はひとりもいませんでした。(23,26-28節)
こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた・・。
ファラオとエジプト軍が滅ぼされて、もはや誰も追って来ないことが確定した日その日を、「救われた日」だと言っているわけです。
何度も書いていますが、この出エジプトは私たちの救いの「型」です。
イスラエルの民は、主の力によってエジプトを脱出したわけですが、本当に救われたのはいつまでも執拗に追ってくるファラオが滅んだときだというのです。
もう誰も追ってこない・・。
そのことを私たちの救いということに置き換えると、それは私たちを追う者、すなわち「死の力」が滅ぼされたときだということになります。
その死の力が打ち破られたとき・・それは実は二千年前にすでに完了しているんですね。
イエス・キリストが十字架で死なれ、三日の後に復活されたことにより、私たちを追う死の力はすでに滅ぼされたのです。
そしてその時以来、死を切り札として私たちを責めようとするサタンの力も同時に骨抜きにされたのです。
救いが確定したとき・・それはイエス・キリストがよみがえられたときなんですね。
救いはすでにイエス・キリストによって完了しているのです。
あとは人がそれを受け取りさえすれば、救いはその場でその人の上に実現し、その時から約束の地(天の御国)に向かってこの地上の旅が始まるという、それまでとは全く異なる、新しい歩みが与えられるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし、エジプトの陣営を混乱に陥れ、
戦車の車輪を外してその動きを阻んだ。それでエジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」"
出エジプト記 14章24~25節
ファラオの全軍勢は、イスラエルの民に続いて海の中にまで入ってきました。
それは真夜中の出来事でした。
21節には「主は一晩中、強い東風で海を押し戻し」とありますので、この二百万の民は、真夜中の暗闇の中、ただ行く先を示す火の柱を頼りに海の中の道を歩き続けたということになります。
今日の箇所に「主は火と雲の柱の中からエジプトの陣営を見下ろし」とありますので、このとき主の柱は、火の柱と雲の柱の二本があったんですね。
雲の柱はイスラエルの民の後ろに回り、エジプト軍に真っ暗闇をもたらしました(20節)。
そして火の柱はイスラエルの民の前方を照らし、彼らを導いたのです。
主は海の中まで追ってきたエジプト軍の戦車の車輪を外してその動きを拒み、彼らは大混乱に陥ります。そして結局主は海の水を彼らの上に戻し、彼らは完全に滅ぼされてしまうのです。
このことを、私たちが救われた時の「型」として見ると、その時の私たちは、火の柱を見て進んでいくという、新しい歩みの始まりだったということがわかります。
しかもその救い出されたその時には、ただ真っ暗闇の中にいて、頼りになるのは「火の柱のみ」だった・・。
その火の柱こそがイエス・キリストであり、神のみことばであったというわけです。
闇の中から助けを求めた私たちは、光を見てそこから救い出されたのです。
そして今も、たとえ暗闇の中に置かされるようなことがあったとしても、そこにはただそれに従っていれば良い「光」が、私たちには与えられているのです。
私たちは暗闇の中にあっても、恐れてはならないのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。
イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。"
出エジプト記 14章21~22節
主は一晩中、強い東風で海を押し戻し・・とあります。
どれほどの強い風だったのでしょうか。
海の水が戻ってしまって、水は彼らのために右も左も壁になった・・というのです。
これは力学的にはちょっと想像できないことのように思われます。
しかも民が進んでいったその海底は「乾いた地」だったというのです。
聖書には天地創造の始めから終わりまで、奇跡が満載です。
それを科学的に証明しようとする向きもありますが、もともと科学というのは被造物である人間が、創造者である神がなさったことを分析する学問なのであって、その「科学」をもって創造者のことを解明するなど、できるはずがないのです。
科学とは、被造物である人間が、その与えられた能力によって少しずつ神の作品を解明していく学問に過ぎないのです。
この海が分かれた話も、「科学的」に考えようとするなら、海の水が分かれるほどの強い風が吹いたのなら、民はいっぺんに吹き飛ばされてしまうではないか・・という話になってしまいます。
こうして私たちは、神の奇跡をあるはずのない寓話として受け止め、生きて働かれる神が現実になさることへの期待・・すなわち信仰を骨抜きにしてしまうんですね。
どうにもならないと諦めてしまいたくなる出来事・・それは私たちの日常生活において、いくらでもあることです。
「こればっかりはどうにもなりません」ということばを、しかも確信をもって言われるのを聞くことがよくあります。
自分で神を狭くする・・。
私たちはそれを日常的にしてはいないでしょうか。
信仰の大きさは、あなたの神の大きさそのものなのです。
信仰がなければ、神に期待するなどということはあり得ないのです。
神を小さく、狭くしてしまうことがありませんように。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、
エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。"
出エジプト記 14章19~20節
それまで雲の柱は民の前を進み、民はその雲の柱について移動してきました。
そしてそれが行き止まりの海になってしまったというわけです。
しかし神はここで、「わたしの栄光を現す」と言われました。
それが出エジプト最大の奇跡、海が分かれて二百万の民がそこを渡るという出来事です。
ところがすでにエジプトの軍団は民に近付いていて、民はもう生きた心地もしない、絶体絶命の窮地に立たされていました。
そうしたら今まで民を導いてきた雲の柱は、イスラエルの民の後ろに回ったというのです。しかもそれは真っ暗な雲で、エジプト軍は近付くこともできず、そこに押しとどめられ、動くことができませんでした。
この話を聞くと、イエス様がユダヤの民のことを嘆いて言われたことばを思い出します。
" わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。" (マタイ23:37)
これは、神がそこまでして民を導いてこられたのに、おまえたちはその主である神を退(しりぞ)けてしまっている・・という嘆きのことばですが、この出エジプトにおける雲の話は、まさにその「雌鶏が雛(ひな)を翼の下に集めるようにして」という主の守りの御手そのものを見させられているようです。
主なる神様は、このように私たちを扱われるお方なんですね。
先頭に立って導かれるし、あるときには後ろに回って守られる・・。
主は私たちを、いつもその御翼(みつばさ)の陰にかくまってくださるお方で、私たちはまさに「主の雛(ひな)」なんですね。
私たちはどうすれば良いかって?
この御翼の陰に身を隠していれば良いのです。(詩篇61:4参照)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 見よ、このわたしがエジプト人の心を頑なにする。彼らは後から入って来る。わたしはファラオとその全軍勢、戦車と騎兵によって、わたしの栄光を現す。
ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 14章17~18節
わたしの栄光を現す・・。
それは、このあとを読み進めばわかることですが、イスラエルの民が海を渡り切ったとき、しかもファラオとそれに従う全軍勢がまだ海の中の道を進んでいるとき、主は両側に立ち上がる海の水を即座に元に戻し、エジプト軍はファラオもろとも、すべての者が溺れ死んでしまう・・という出来事のことです。
神がこのような大量殺戮をされることが、どうして「栄光を現す」ことになるのですか? と感じる人もおられるのではないでしょうか。
人の命の重さ、大切さを私たちに教えてくださる神が、どうしてそんなことをされるのですか・・と。
神に滅ぼされる人・・それは聖書全体を見ると数えきれないほど出てきます。
そしてそこに共通することは、それらの人々はみな、神に敵対する人だということです。
栄光を現すとは・・、神が人を愛し、人がその神を認めるとき、その者を神は特別に「ご自分の瞳のように」(申命記32:10参照) 扱ってくださる・・、そういう意味なのです。
神はすべての人を、ご自分のもとに立ち返らせるために、そのひとり子を送ってすべての人の罪の贖いとしてくださるほどに愛してくださっているお方です。
そしてもう一つ先の段階としては、私たちの側がその神を信じ、この方を心を尽くして愛する・・その時に人と神との愛の関係が成立するんですね。
この両者が成立したときに神は、人というものの存在を永遠のものとするように定められたのです。
エジプト軍のすべてが海にのまれてしまう・・そのことで主なる神様は「わたしの栄光を現す」と言われましたが、それは最終的に、神を愛する者を神は救うのだという意味なのです。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい・・。(マタイ22:37)
これがいのちの道なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。"
出エジプト記 14章16節
恐怖におののく民に向かって、モーセは力強く「主があなた方のために戦われるのだ」と宣言し、あなた方はただ黙っていなさいと言います。(13-14節)
しかしその当のモーセは、主に叫んで助けを求めていました。
15節で、主はモーセに「なぜあなたは叫ぶのか。イスラエルの子らに前進するように言え」と言われています。
民を導くモーセにとって、主との関係だけが頼みの綱であり、他に頼るものなど何ひとつありませんでした。
そして返ってきた主のことば・・それが今日の箇所です。
私は、モーセが杖を海に触れたら海が分かれたのだと思っていました。
しかしここをよく読むならば、あなたの杖を上げ・・とあります。
杖は天に向かっていたんですね。
そしてあなたの手を海の上に伸ばし・・とあります。
モーセが自分の手を海の上に伸ばしたときに海は分かれたのです。
杖は天を指し、海の上に伸ばしたのは自分の手だったということです。
ここに私たちの日常生活における大きなヒントが隠されているような気がします。
例えば・・、私たちが直面する問題の中で、ダントツなのが「人間関係」ですが、その問題となる人と向き合っているそのとき、私たちは心の杖を天に向け、同時に自分の手すなわち実際の行動である「ことば」を発する・・。
モーセが海に手を伸ばしたとき、もう片方の杖を持つ手は天に向けられていたのです。
肝心なのは、杖を持っている方の手なんですね。
そのときに海が分かれたのです。
そして「海の真ん中の乾いた地面」を行くことができたのです。
私たちにはこの「信仰の杖」が与えられているのに、それを用いない手があるでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【「存在」に対する愛】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=S6Aqbidl3G8&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。"
出エジプト記 14章16節
恐怖におののく民に向かって、モーセは力強く「主があなた方のために戦われるのだ」と宣言し、あなた方はただ黙っていなさいと言います。(13-14節)
しかしその当のモーセは、主に叫んで助けを求めていました。
15節で、主はモーセに「なぜあなたは叫ぶのか。イスラエルの子らに前進するように言え」と言われています。
民を導くために、当のモーセは、主との関係だけが頼みの綱であり、他に頼るものなど何ひとつありませんでした。
そして返ってきた主のことば・・それが今日の箇所です。
私は、モーセが杖を海に触れたら海が分かれたのだと思っていました。
しかしここをよく読むならば、あなたの杖を上げ・・とあります。
杖は天に向かっていたんですね。
そしてあなたの手を海の上に伸ばし・・とあります。
モーセが自分の手を海の上に伸ばしたときに海は分かれたのです。
杖は天を指し、海の上に伸ばしたのは自分の手だったということです。
ここに私たちの日常生活における大きなヒントが隠されているような気がします。
例えば・・、私たちが直面する問題の中で、ダントツなのが「人間関係」ですが、その問題となる人と向き合っているそのとき、私たちは心の杖を天に向け、同時に自分の手すなわち実際の行動である「ことば」を発する・・。
モーセが海に手を伸ばしたとき、もう片方の杖を持つ手は天に向けられていたのです。
肝心なのは、杖を持っている方の手なんですね。
そのときに海が分かれたのです。
そして「海の真ん中の乾いた地面」を行くことができたのです。
私たちにはこの「信仰の杖」が与えられているのに、それを用いない手があるでしょうか。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」"
出エジプト記 14章13~14節
海を目の前にし、エジプト軍を背にするという窮地に追い込まれ、イスラエルの民はいきなり不平を言い出します。それが前回の箇所でした。
「荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れてきたのか。〜 エジプトに仕える方が良かったのだ」などと、人々はここまで導いてきたモーセに、そこまで言うかというほど辛辣なことばを投げつけました。
それに対してモーセは答えました。それが今日の箇所です。
それは、民を神のもとに導くリーダーにふさわしい、力強いことばでした。
そしてこのことばは、私たちもそのまま受け取ることができることばです。
恐れてはならない・・。
私たちは、もう恐れる必要のない者とされているのです。死という最大の難関をクリアし、決して見放さず見捨てないと言われる主が共におられるのですから。
あなた方は、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない・・。
私たちは、以前の世界とはすでに切り離された者なのです。
神から離れたまま滅びるという定めからは完全に贖い出され、天の御国の住民とされた者なのです。
主があなた方のために戦われるのだ・・。
私たちの力は主の内にあるのです。その主が私たちの内にいてくださるのです。
このことが曖昧になっているのだとしたら、本当にそうなのだとはっきり心に言い聞かせる必要があります。
そしてとどめのようにモーセは言いました。・・あなた方は、ただ黙っていなさい・・。
私たちは窮地に追い込まれると、口から余計なことばがいくらでも出てきます。
そのときこそ口を閉じ、心を主に向け、信仰を働かせるときなんですね。
窮地に追い込まれたとき・・、それは黙るとき。そして共にいてくださる主に目を向けるときなのです。
主があなたを導かれ、救い出してくださるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」"
出エジプト記 14章11~12節
イスラエルの民が去ったことを知らされたファラオとその家臣たちは、再び心を頑なにして、すべての戦力をそこに注いで、イスラエルを追いました。
一方、「イスラエルの子らは臆することなく出て行った」とあります。(8節)
イスラエルは雲の柱に導かれて、自信をもってエジプトを出て行ったのです。
ところがいざエジプト軍が後ろから迫ってくるのを見、さらに前方は海で逃げ場がないことを知ると、途端にその口からひどく不信仰なことばが出てきます。
それが今日の箇所です。
この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕える方が良かったのだ・・。
主ご自身があれほどの奇跡をもって導き出されたのだから、目の前にエジプト軍が迫り、絶体絶命の状況におかれたからといって、どうしてそんな不信仰なことが言えるのか・・と、傍観者としては言いたくなります。
しかも民はこのあと、海の中を渡るという奇跡の中で助けられたときには、そこで主への賛美を歌ったというのです。(15章1-18節)
なんだか情けないような気がしてきます。
しかし私たちに、果たしてそんなことを言う資格があるのでしょうか。
出て行くときには「臆することなく」出て行ったはずのイスラエルの民・・。ところがいざ窮地に追い込まれると、人が変わったようになってしまう・・。
それって実は、私たち自身の姿なのではないでしょうか。
窮地・・、そこで私たちは自分の本当の姿を見せられます。
私たちはそこで、自分の愚かさを見、しかもそんな私たちを忍耐をもって助け出してくださる主に出会うんですね。
大前提・・それは私たちは弱い者であるということ。
そしてそんな私たちの上に、主の変わらぬ愛があるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。"
出エジプト記 14章4節
主はモーセに告げられました。
引き返して、海辺に向かって宿営せよ・・と。(2節)
そしてファラオが追ってくるからねと、主は言われるのです。
それが今日の箇所です。
二百万の民が海辺に向かって宿営するとは、その追っ手に背を向けて、さらに目の前は海だということです。
それはいわば八方塞がりの状態ですが、イスラエルの子らはその通りにした・・とあります。
彼らは出発してまだ数日・・。ただひたすら自分たちを導く雲を見てそれについて行ったわけです。
しかし突然引き返し、宿営したと思ったら、目の前は海だったというのです。
民の心はどれほど不安に襲われたことでしょうか。
しかし主がモーセに言われたことは、その時「わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す」ということでした。
それは、ご自分が全能のまことの神であることを、エジプトにも知らしめようとされているという意味です。
天地万物は、主が造られました。
そしてこの世は主がお造りになられ、今もサタンが暗躍することを許されています。
そして聖書に記されている終わりのときの筋書きは、神である主がご自身を明確に現され、神の民を滅びから救い出すというものです。
その終わりのときに、主はこの方に背を向けるすべての者たちにも、ご自身をはっきり現されると、聖書は言っているんですね。
まことの神である主は、人々にご自身を現すお方なのです。
その第一弾が、御子イエス・キリストのマリヤからの誕生、そして第二弾が終わりの時のイエス・キリストの再臨なのです。
結局このあとにおきる紅海での出来事も、この終わりの時の「型」なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。"
出エジプト記 13章21~22節
ラメセス〜スコテ〜エタムと、出エジプト二日目です。(12:37,13:20参照)
この一団は「女.子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人であった」とありますから、すべてを合わせれば、少なく見積もっても二百万人はいたのではないでしょうか。(12:37)
さて、いよいよ出発した民には、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導かれた。そしてその柱の中には主がおられたというのです。それが今日の箇所です。
この柱は、たとえ民が二百万人だとしても、小さな子供でさえ目を上げさえすれば、誰もが見ることのできた「神のしるし」でした。
こんな心強いことはありませんね。
神はそのようにして、ご自分の民を導かれたのです。
さて、私たちクリスチャンにも、実は主はそのようにしてくださっているんですね。それが御霊(みたま)すなわち聖霊です。
昼は雲の柱・・それは目を上げさえすれば見えるのです。
夜は火の柱・・それはたとえ真っ暗闇の中に落ちてしまったとしても、目を上げさえすれば必ず見えるのです。
しかし、もし下ばかり向いていて上を見上げなければ、この雲の柱は見えないんですね。
同様に私たちも、問題ばかりに目を向けて下を向いているのではなく、目を上げて主という方の存在に目を向けるならば、私たちには御霊が見えるのです。
私たちには、それが真っ暗闇の中であったとしても、火の柱としてはっきり見える「御霊」が伴って、私たちを導いてくださるのです。
下を向かずに、上を見て歩みましょう。
その時に、御霊がそこにおられることがわかるのですから。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。"
出エジプト記 13章19節
モーセはエジプトを出るとき、一人の人の遺骸を携えていました。
それはその時から約四百年前に、エジプトにおいて王に次ぐ権力者となったヨセフのミイラでした。彼はイスラエル民族の始祖アブラハムのひ孫に当たります。
このヨセフは自分が死ぬとき、この民が約束の地に帰ることをはっきり告げ、そのときには自分の遺体もそこに運び、その地に葬るようにと、兄弟たちすなわちイスラエルの十二部族の長たちに命じたのでした。
そのときのことが創世記の50章24-26節に記されています。
エジプトを支配するほどの権力者であったのなら、自分に属するイスラエルの民がエジプトで繁栄して豊かになることを想定するのが普通ですが、ヨセフはそうではなく、この民がこの地を出て約束の地カナンに帰るということを、既成の事実のように語っているのです。
実はこのことは、ヨセフの曾祖父アブラハムにも主はすでに語られているんですね。
" 主はアブラム(アブラハム)に言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。" (創世記 15章13~14節)
これが出エジプトから遡(さかのぼ)ること、六百年前の主のことばです。
このことは私たちに何を教えているのでしょうか・・。
それは、主のご計画はすでに語られていて、その通りになるのだということです。
ならば、今の私たちにすでに語られていること、すなわち旧約の預言書でも語られ、イエス様も語り、弟子たちも、特にヨハネが黙示録においてはっきり語っている「終わりの日」・・、
それも主のご計画であって、それは確実に実現するのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。"
出エジプト記 13章17~18節
二百万の民はいよいよ約束の地に向けて出発しました。
エジプトから約束の地カナンまでは直線距離にして200キロメートルくらいのもので、それは東京から浜松までもないくらいの距離です。
しかしこの民は、この目と鼻の先にある約束の地に入るのに、実に四十年もかかってしまうんですね。
それはなぜかというと、イスラエルの民が約束の地の近くまで行って偵察隊を出したときに、敵があまりに強そうなので怖じ気(おじけ)づき、「こんなことならエジプトで死んだ方がましだった」などという不信仰のことばを発した・・。
それに対して神の怒りが下ったというのが、その原因でした。
主はこのような民の性格を、初めからご存じだったようです。
「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」と主は考えられたというのです。
それで主はこの民を、直線コースであるペリシテ人の地へは導かずに、「葦(あし)の海に向かう荒野の道に回らせた」・・。
しかし葦の海とは紅海のことで、それはもっと悪い、いわば行き止まりのコースでした。
主はどうしてこのような逃げ場のないところまで民を追い込んだのでしょう。
それは、民をまず完全な八方塞がりの状態に置き、そこであの世界中の誰もが知っている「紅海の水を分けて民にそこを通らせる」という、出エジプト最大のクライマックスの場面をわざわざ作られ、ご自身が決して裏切ることのない、まことの神であるということをそこに見せつけられる・・、そのためだったということが、このあとを読んでいくとわかります。
しかしこれって実は、いつもの主のなさり方なんですね。
そのことを私たちは、創世記以来、何度も何度も見てきました。
絶望・・それは、主がご自身を現される前夜なのです。
私たちは絶望に直面したときには、このような主が共にいてくださることを思い、感謝の声を上げるべきなのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
モーセは民に、主がエジプトでなされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた「その日」に、そしてその後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。(4-10節)
そして今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこのことが記された聖書があるからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きた神である主のこの大いなるみわざ「出エジプト」・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちに、そして全世界の人々にも、この聖書を通して語り継がれてきたというわけです。
そしてこの出エジプトの出来事は、私たちクリスチャンの救いをそのまま「型」として表しているのです。
私たちはこの神の大きな計画のただなかにいるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
"その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』"
出エジプト記 13章8節
モーセはこれから後に行うべき過越の祭りと、それに続く種なしパンの祭りについての掟を、民に告げました。
「その日」とは出エジプトをした後、約束の地カナンにイスラエルの民が入る「その日」のことです。
実は約束の地に入るはずのその予定日は、モーセがシナイ山で十戒を与えられてから、それほど先の話ではありませんでした。
民はそのとき、すでに約束の地を目の前にしていたのです。
それはエジプトを出てから二年も経たないくらいのタイミングだったと思われます。
ですから「その日」というこのことばは、結構近い未来の話であったわけです。
モーセは民に、主がエジプトでされた大いなるみわざを、約束の地が与えられた後にも子孫に伝え続けなさいと命じた・・、これが今日の箇所です。
ところが、近い未来であったはずの「その日」は、民の不信仰が原因で、四十年も先に引き延ばされてしまうんですね。(民数記13章以降参照)
それはさておき、今でもユダヤ人が守っているこの過越の祭り・・、それはこの聖書の箇所があったからに他なりません。
今からおよそ3500年ほど前に起きたこの「神である主」の大いなるみわざ・・、それはこの主の命令によって、今のユダヤ人たちにも、そして私たちクリスチャンにも聖書を通して語り継がれているというわけです。
代々語り継がれてきたこと・・、それを今の私たちは見ているのです。
さらに私たちクリスチャンの救いは、この出エジプトから直接つながっている話なのです。
私たちは、この偉大なみわざを世界中に示された主に属する者とされているのだということを、いつもはっきりと自覚していたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。"
出エジプト記 12章46節
主は「過越に関する掟」をモーセとアロンに与えられます。(43-50節)
この掟を見ると、イスラエルの民の中には寄留者や雇い人という、十二部族以外の人たちも混入していたことがわかります。
それらの人たちに対して主は、もし過越のいけにえをささげようとするなら、その男子はすべて割礼を受けなければならない。
それはこの国で生まれた者も、寄留している者や奴隷も同様に、とにかく割礼を受けよ・・と。
そして割礼を受けるなら、「彼はこの国に生まれた者と同じになる」というのです。(48節)
そして今日の箇所で強調されているのは「これはひとつの家の中で食べなければならない」ということです。
それは、その人がたとえ異民族の寄留者であっても、割礼を受けるなら、なんの差別もなく一つの家の中の家族となるということを示すものです。
このことを教会に当てはめて考えると、全く出自(しゅつじ)や性格の異なる人であっても、主イエス・キリストを信じて洗礼を受けるなら、それは神の家族となり、「私たちは主にあってひとつ」と宣言できる者となるということです。
そして家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない・・。
それは、その救いはこの神の家族というつながりの中でのみ、それは形成されていくことを示しているのではないでしょうか。
さらに・・その骨を折ってはならない。
それは、イエス・キリストの十字架までも暗示しているわけです。
ささげ物となられた神の子羊イエスは、十字架から下ろされるとき、通常の習慣であるところの脚の骨を折られるということはなかったのです。
こうして主イエス・キリストにある神の家族は、真の家族となり、同じ目的地、天の御国に向かって、歌いながら歩む者となるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。"
出エジプト記 12章42節
ファラオがエジプト脱出を許可したのが真夜中で、その脱出行は夜を徹して行われました。
すなわちイスラエルの民は一睡もしないでエジプトをあとにしたのです。
いけにえの羊を用意するという時点から、それは主が言われた通りのことを行うということで、人々の心は主と共にありました。
そしてそれを焼いて食べて、残りはすべて焼き尽くす・・。これも主を覚えてのことでした。
そして主のことばに従って、エジプトの民から金銀衣服を剥ぎ取り、いよいよ出発に備える・・。これもあり得ない発想ですが、ただ主が言われたことに従った結果として、多くの財宝を手にして出発することになります。
要するにそのすべてのことの内に、主が共におられ、民はその主を肌で感じながら、その脱出行を果たしたというわけです。
一睡もしなかったその夜から翌日まで、主の圧倒的な臨在が民と共にあったのではないでしょうか。
「主が寝ずの番」をされたとある通りです。
ところで、主は眠るお方なのでしょうか。
" 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。" (詩篇121:3-4)
主が寝ずの番をなさった・・、それは主が寝ないでということではなくて、夜を徹して主が決して離れずに共に進んでくださるのを、民は本当に目の当たりにしながら出発したということなのではないでしょうか。
それでイスラエルの民は、それから後も出エジプトのその日には、そのことを決して忘れることのないように「主のために寝ずの番をする」すなわち夜を徹して主を覚える祭りをするようになったというわけです。
このことを私たち自身に置き換えれば、私たちが古い自分を捨てて主のもとに一歩踏み出したそのとき、主はそこにずっとそこにいてくださったということに他なりません。
救い出されたとき、あのときのことを、私たちはいつも覚えていたいものです。
主がずっと共にいて、私たちをまことのいのちへと導いてこられたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" それは、彼らをエジプトの地から導き出すために、主が寝ずの番をされた夜であった。それでこの夜、イスラエルの子らはみな、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。"
出エジプト記 12章42節
ファラオがエジプト脱出を許可したのが真夜中で、その脱出行は夜を徹して行われました。
すなわちイスラエルの民は一睡もしないでエジプトをあとにしたのです。
いけにえの羊を用意するという時点から、それは主が言われた通りのことを行うということで、人々の心は主と共にありました。
そしてそれを焼いて食べて、残りはすべて焼き尽くす・・。これも主を覚えてのことでした。
そして主のことばに従って、エジプトの民から金銀衣服を剥ぎ取り、いよいよ出発に備える・・。これもあり得ない発想ですが、ただ主が言われたことに従った結果として、多くの財宝を手にして出発することになります。
要するにそのすべてのことの内に、主が共におられ、民はその主を肌で感じながら、その脱出行を果たしたというわけです。
一睡もしなかったその夜から翌日まで、主の圧倒的な臨在が民と共にあったのではないでしょうか。
「主が寝ずの番」をされたとある通りです。
ところで、主は眠るお方なのでしょうか。
" 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。見よイスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。" (詩篇121:3-4)
主が寝ずの番をなさった・・、それは主が寝ないでということではなくて、夜を徹して主が決して離れずに共に進んでくださるのを、民は本当に目の当たりにしながら出発したということなのではないでしょうか。
それでイスラエルの民は、それから後も出エジプトのその日には、そのことを決して忘れることのないように「主のために寝ずの番をする」すなわち夜を徹して主を覚える祭りをするようになったというわけです。
このことを私たち自身に置き換えれば、私たちが古い自分を捨てて主のもとに一歩踏み出したそのとき、主はそこにずっとそこにいてくださったということに他なりません。
救い出されたとき、あのときのことを、私たちはいつも覚えていたいものです。
主がずっと共にいて、私たちをまことのいのちへと導いてこられたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。"
出エジプト記 12章41節
イスラエルの民はラメセスからスコテに向かって旅立った。そのとき、女、子供を除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人だったとあります。(37節)
ということは、すべての民はその妻と子供たち、また老人なども入れると、ざっと二百万人にはなるかと思われます。
ところでこの六十万人の壮年男子について、この41節では「主の全軍団」と記されています。
さっきまで奴隷であったイスラエルの民が、ここでは「主の軍団」とされているのです。
イスラエルの民は奴隷であったとはいえ、それまでの12部族の系図をきっちり守り、それぞれの族長以下の組織は、きっちりできあがっていたものと思われます。
それまでは、耐えがたい労働に押しつぶされそうになり、それを乗り越える「自分」というレベルでしか物事も考えることができなかったイスラエルの民・・。
ところがそれが一夜にして「主の軍団」としてよみがえったのです・・。
それは、強力なリーダーシップをもって導いてくださる「主」という方の名のもとに、民がひとり残らず聞き従って、行動を開始したということに他なりません。
ところで、私たちクリスチャンは、以前は自分のことで目一杯という者でした。
しかし今は「どうやって自分を救うか」というようなことからは解放されて、主という方に従うという、全く新しい行動の規範の中でその歩みを出発させた者です。
私たちは、主という方のみこころに従う、この世にあっての「主の軍団」なんですね。
主は四百三十年経った「ちょうどその日」に、イスラエルの民を主の軍団としてこの地から導き出されました。
ちょうどその日・・それは、主が完全にその御手の中でこのご計画を進められるのだということを示すものです。
教会・・、それはこの世にあっての「主の軍団」なんですね。
そして、「終わりの時」すなわち主のもとに行くそのときは、それがいつだかは私たちは知りませんが、とにかくきっちりと決まっているのだということを、心に刻んで歩んで行きたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 彼はその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立って、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って主に仕えよ。
おまえたちが言ったとおり、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」"
出エジプト記 12章31~32節
イスラエルの民はモーセが告げたとおりに、子羊を屠(ほふ)り、それを焼いて食べ、残りは全て焼きつくし、出発の用意をしました。
それが夕刻です。
そして真夜中になったときに、主はエジプトのすべての長子を・・すなわちファラオの長子から囚人の長子、また家畜の長子まで、それらをことごとく打たれたというのです。
その夜、エジプトには激しく泣き叫ぶ声が起こりました。「死者のない家はなかった」のです。(28-30節)
それでファラオはモーセとアロンを急いで呼び出します。それは翌日ではなく、主がエジプトの家のすべての長子を打たれた、その真夜中です。
この一晩で主は、イスラエルの民がエジプトから出て行く態勢を整えられたのです。
ファラオはやっとイスラエルのすべての民と、すべての家畜が出て行くことを認めました。
そしてエジプトの民も、これ以上こんな恐ろしい民に一緒にいてほしくはないので、「せき立てて、その地から出て行くように迫った」というのです。(33節)
さらにイスラエルの民はエジプトの民に「銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた」とありますが、これも主が命じたことです。
主はエジプトがこの民に好意を持つようにされた・・とありますが、それはもうこれ以上いてほしくはないという感じで、とにかくエジプトの民はイスラエルの民に乞われるままに、喜んでありったけのものを与えたというわけです。(36節)
イスラエルの民は団結して奮い立ち、ときの声を上げてエジプトから脱出したというのではなく、追い出されるようにして、しかも財宝付きで「せき立てられるようにして」エジプトを出たというのです。
神の御手の中で起きる出来事・・、それはいつも「圧倒的」なんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
前回に記したことを、これに続く出エジプト記の記事から改めて確認をすることができます。それを追って見ていきましょう。
" あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである。" (12章11節)
この食べ方というのは、明らかに普通の食事ではありません。
帯を硬く閉めたらおなかを圧迫するし、履き物は脱がなければリラックスできません、ましてや食事をするのに手に杖を持つ必要などもないわけです。
しかしそれに加えて主は、「急いで食べよ」と言われたのです。
これは言ってみれば臨戦態勢での食事です。
そしてこの食事は「主への過越(すぎこし)のいけにえだ」と主は言われました。
「過越」という名がここで出てきて、その意味がこのあとに語られています。
“ その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。" (12章13節)
家の門柱と鴨居に塗った血・・それがしるしとなるのだと、主は言われました。
何のためのしるしかというと、主が見分けるためのしるしです。
わたしはその血を見たならば、「あなた方のところを過ぎ越す」・・。
それは、わざわいはあなたがたにはおこらない・・という意味です。
"この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。" (12章14節)
主はこの出来事を、永遠に守るべき「祭り」としなければならないと言われたのです。これが「過越(すぎこし)の祭り」です。
まだ脱出前であるのに、主はそれを記念する祭りのやり方まで、事細かくモーセとアロンに教えておられるんですね。(17-20節)
さらに主は、約束の地カナンに入るときにもこの祭りを掟(おきて)として守るようにと、そして子孫がその祭りの意味を尋ねたときのことまでに触れて語られているのです。(25-27節)
主のご計画は必ずなる・・これが大前提なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。"
出エジプト記 12章5~7節
モーセはファラオに最後通告をしましたが、ファラオの頑なさは変わることがありませんでした。
そこで主は、いよいよ出発のために準備すべきことをイスラエルの民に示されました。
それは家ごとに羊(あるいはやぎ)を用意するということでした。(3-5節)
またそれは「傷のない一歳の雄」でなければならない・・と。
そしてそれを主が指定した日に、一斉にこの羊を屠(ほふ)らなければならない・・と。
そしてその血を、それぞれの家の二本の門柱と鴨居に塗れ・・と。これが今日の箇所(5-7節)です。
そしてその夜、その肉を火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べ、残ったすべてのものは焼き尽くせ・・と。
出発前夜です。(8-10節)
そして主は最後のわざわいすなわち、エジプトの家のすべての長子は殺されるというわざわいを、鴨居に小羊の血が塗られている家には下さずに通り過ぎられた、すなわち過ぎ越されたというのです。(13節)
このことを記念して、ユダヤ教では今でも「過越(すぎこし)の祭」が行われています。そしてイエス様が十字架にかかられる前に弟子たちと共にしたあの最後の晩餐も、あれは「過越の祭りの食事」だったのです。
そしてそれは決して偶然の事ではなかったのです。
出エジプトという出来事は、神の圧倒的な御手のわざをもってイスラエルの民を奴隷という身分から救い出し、約束の地カナンへ導き出すという出来事です。
そしてここに、神が用意された本当の救いのみわざの「型」がある んですね。
本当の救いとはすなわち、父なる神が「その人の心に御子が十字架で流された血が刻まれている」のを見るなら、父はその人の罪に対する罰を過ぎ越され、おまけに罪の奴隷という身分からも解放し、約束の地すなわち天国に入る者としてくださるという、あの福音のことです。
それがこの出エジプトの出来事とぴったり重なるのです。
御子イエス・キリストこそが、神が私たちのために備えて下さった「傷のない小羊」なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。"
出エジプト記 11章7節
これはモーセがファラオに言ったことばです。
今度おまえの顔を見たら生かしてはおかないと言っていたはずのファラオの所に、再びモーセは行って、ファラオに直接宣告したようです。
モーセはファラオに、エジプトのすべての長子が死ぬことを伝え、ただし・・といって付け加えたのが今日の箇所です。
そしてさらに、あなたの家臣たちは私の所に下ってきて、どうか出て行ってくださいと懇願するだろう・・と啖呵を切り、怒りに燃えてファラオの所から出て行った・・。これが4節から8節までに記されていることです。
イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、主はエジプトとイスラエルを区別される・・。
主が選んだものはすべて、きっちりと主の御手の中にあって守られる、というのです。
「犬でさえ」というのが印象的です。
この当時の犬というのは、今の時代のペットのような愛される存在ではなく、忌み嫌われる存在でした。
ところがその犬でさえ、神である主の名のゆえに守られるというのです。
クリスチャンは「敬虔な」とかいう言い回しをされて、何か違う人のような受け止め方をされることがありますが、それは全くのお門違いで、クリスチャンというのは神の前に罪びとだということを認めたからこそ、神の赦しを受け取って、神に立ち返った・・そのような者です。
それがたとえ世の中の人からは忌み嫌われるような存在・・、ヤクザとか売春婦とかホームレス、あるいは障害をもっていて人々の冷たい偏見の目にさらされている人であったとしても、それらのことは全く関係なく、ただ「主の名」の故に、その人たちは世の滅び行く人たちとはきっちり分けて取り扱われるというのです。
私たちはただ「恵み」によって、「イエス・キリスト」の名によって救われているのです。
" イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義・・、そこに差別はありません。" (ローマ3:22参照)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。"
出エジプト記 11章3節
神である主は最後の十番目のわざわい(奇跡)について、モーセに語られました。
そのときにはファラオは「本当に一人残らず」イスラエルの民をエジプトから追い出すことになる・・と。
そしてイスラエルの民に対しては、「男は隣の男に、女は隣の女に、銀や金の飾り物を求めよ」と言われたというのです。(1-2節)
隣とは、エジプトのことです。
これまでのファラオとモーセのやりとりは言うまでもなく、エジプトの民衆にとっての最大の関心事でした。
モーセはファラオと対等に渡り合い、しかもファラオに圧勝し続けているのです。
そして今日の箇所・・。エジプト人たちはもはや、イスラエルの民に対し畏敬の念を抱くほどの好意を持つようになり、モーセはエジプトの民とそしてファラオの家臣たちにまで、たいへん尊敬されていた・・、すなわち英雄として慕われるほどになっていたというわけです。
しかしながら、実際にモーセによってもたらされた奇跡はそのエジプトの民を散々苦しめていたはずです。
そして最後の十番目の奇跡・・それは、ファラオの長子(長男)からすべての民の長子、そしてエジプトの家畜のすべての初子(ういご)がみな死ぬというものでした。
民はどんな気持ちだったのでしょうか。
ファラオが頑なであるが故に、自分たちの上に、そしてエジプトの国全体に恐ろしい災いを招いてしまった・・。
彼らは、「われわれはみな死んでしまう」と言い、イスラエルの神を恐れ、その民をせき立てるようにして追い出したとあります。(12:33)
彼らは、自分たちもこのまことの神の民であったらどんなに心強いかと思ったのではないでしょうか。
私たちは、この恐るべきまことの神のことを知るにつれ、この神が愛と哀れみの神であることを知り、そしてその神のもとに帰っていった者です。
私たちは今や、この完全なる神の民となったのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」"
出エジプト記 10章28節
ファラオは漆黒の闇にはとても耐えられず、再びモーセを呼んで言います。
家族もみな行って主に仕えるが良い・・、ただ家畜は残しておけ・・と。(24節)
しかしモーセは、家畜の中から最上のものを選んで主にささげるので、すべての家畜も共に行かなければならない・・と答えます。
それでファラオはとうとう頭にきてしまって、というのが今日の箇所です。
このファラオについて、ここまでずっと語られてきたことがあります。
それは「主がファラオの心を頑なにされた」ということでした。
それはファラオが頑なになることによって、さらに大きな奇跡を人々に見せ、それによって全能の主の名を全地に知らしめるためだっだというのです。(9:16)
ならばファラオは自分の意思などとは何の関係もない、ただの操り人形だったのでしょうか。
ならば例えば、人が神を信じるときにも、それは神が初めから決めておられたことで、自分で決めたことではないということになるのでしょうか。
しかし私たちにしてみれば、それは確かに「自分で決めた」ことです。
ところが神の側から言うなら、神が最初からこの器を選んでいたということになるわけです。
神は、私たちが主体的に心の行動をすることによって、すなわち自分で決めることによって、神と人との関係ができるようにされたのです。
私たちは、それについて注文をつける立場にはないのです。
私たちは被造物であり、神が私たちを造られた神なのですから・・。
ファラオにとっては、それまでのすべてのことは自分で決めた行動でした。
しかしそのすべては、神の御手の中で、神のご計画のために、神がなされたことだったというわけです。
私たちはどんなにあがこうと、この神の御手の中にあり、そしてしかも、その愛の中にあるんですね。
神の御手の中で、私たちはひれ伏し、その神を喜ぶ者となる・・、これが神の御心なのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。"
出エジプト記 10章23節
ファラオはモーセの前に降参したかのように見えたのに、いなごが去ったのを見て再び心を頑なにします。
そこで主はモーセに「闇がエジプトの地の上に降りてきて、闇にさわれるほどにせよ。」と命じられました。(21節)
それで・・というのが今日の箇所で、これが九つ目の奇跡となります。
真っ暗闇というのは、その空間にあるはずのものが全く見えない状態ですが、そのことさえ感じることのできない「さわれるほどの闇」・・。
それは想像するだけでも恐ろしいものです。
エジプトの民は「自分のいる場所から立つこともできなかった」というのです。
"地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。" (創世記1:2-3)
光というのは「被造物」なんですね。
私たちは太陽の恵みを受けて、地上で暮らしています。
しかしこの太陽というものも、神には初めからあった概念としての「光」のために神が創造されたものであって、そもそも光自体が神による被造物だというわけです。
神は「あるかないか」決めることのできるお方なんですね。
いのちがあるかないか、心の内に光があるかないか・・。
ここでは「イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった」とあります。
光は神から来るのです。。
そしてこの創造主なる神を覚えること・・、それこそが知識の初めなんですね。
" 主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。" (箴言1:7)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
" ファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。
どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」"
出エジプト記 10章16~17節
ファラオは、イスラエルの民が全員出て行くなどということは到底認めることができず、結局いなごの害(8番目の奇跡)を招くことになってしまいます。
モーセが祈ると、エジプト中にいなごがあふれ、せっかく雹の災害を免(まぬが)れた作物が全部食い尽くされてしまい、エジプトから緑が消え失せてしまいました。
それで・・というのが今日の箇所です。
おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ・・。
今度こそファラオは、本当に神の前に悔い改めたように見えますが、残念なことにこの後も、モーセの祈りによっていなごが去ると、ファラオは再び心を頑なにするんですね。(20節)
滅びることと救われることの狭間であることを予感しつつも、それでもなお頑なになる・・。
私たちの体に刻まれている「罪の性質」・・それは、自分を守るという性質です。
だから頑なになるわけですが、本当に自分を守りたいなら、自分を捨てよ、すなわち自分の守りを解除せよ・・というのが、神の救いの論理です。
大事なのは、自分を守ることではなく、いのちの源、力の源、そしてあなたを完全に赦すお方を認めるということなんです。
しかしながら、自分を守ろうとする「肉の性質」がそれを邪魔しようとするわけです。
私たちクリスチャンも主を認めて、主の前に降参しておきながら、自分の肉の性質と主の御心との狭間(はざま)に置かれて、結局は主とは逆の滅びに向かう選択をしてしまうこと・・、よくあることなのではないでしょうか。
だからこそ、私たちはその都度思い起こさなければならないのです。
主の死はこの私のためにあるのだ・・ということを。
私たちは、私たちのために死んでくださった主によって、生きる者とされたのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)

今週の「たいむ」は・・
【あなたの心を埋めるもの】・・です。
https://m.youtube.com/watch?v=OBrYmSpYYWY&pp=ygUSZ3JhY2VjYWZl44Gf44GE44KA
God Bless You !
" モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」
モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」"
出エジプト記 10章8~9節
ファラオの家臣たちは、今度はいなごの害だという話を聞いて恐れ、ファラオに進言します。
このままではエジプトは滅んでしまいます。どうか彼らの言うことを受け入れてください・・と。(7節)
そこでファラオはモーセとアロンを連れ戻し、彼らが礼拝のためにエジプトを出ることを許します。
しかしよくよく話を聞けば、この民全員がここを出ていくという話ではありませんか・・。それが今日の箇所です。
それでファラオは、そんな話はとても受け入れられないと言って、再びモーセとアロンを追い出してしまうのです。
ファラオにとって、奴隷であるイスラエルの民というのは莫大な財産なんですね。
結局それを捨てるという選択肢はなく、8番目の奇跡、いなごの大群を招くことになってしまうのです。
私たちは、自分の財産と自分のいのち・・どちらを取りますかと言われるなら、躊躇こそするかも知れませんが、やはりいのちを取らざるを得ないわけです。
しかしファラオは、財産を取り続けたというわけです。
この話を永遠という物差しの上で語られる「福音」に重ねて見るならば、自分の財産とは 「自分」あるいは「自我」のことです。そしてそれよりも大切なはずの「自分のいのち」というのが永遠のいのち、すなわちまことのいのちのことであるわけです。
あなたはどちらを取りますか?・・そう問いかけているのが福音です。
人は、今持っている財産すなわち「自我」を捨てることができず、結局永遠のいのちを失ったままになってしまう。
これこそがこのファラオのパターン、すなわち私たちの「型」なんですね。
" 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。" (マタイ10:39)
まことのいのちをいただくためには、捨てなければならないものがあるのです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" いなごが地の面をおおい、〜 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。"
出エジプト記 10章5~6節
モーセとアロンは心を頑なにしたファラオのところに再び出かけていって、主によって告げられた8番目の奇跡について警告します。
それはいなごが地の表を覆い、先の雹(ひょう )の害を免れた穀物や野に生えている木もみな食い尽くす。そしてそのいなごは全エジプトの家に満ちる・・というものでした。
そしてその様は「あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである」というのです。
このことば・・、なんだか今の私たちには聞き慣れたことばのような気がしませんか。
今のこの地球は温暖化ならぬ、沸騰化しているということばまで使われ始めました。
現に日本に限らず、様々な災害が起きたときに、その土地のお年寄りがテレビに出てきて、こんなのは自分が生まれてから今まで見たことがないと言っている・・、そんなニュースが日常的になってきているような気がします。
エジプトを脱出して約束の地カナンに入るこの出来事・・、神の十の奇跡、そしてその後の出エジプトの際に紅海の水が分かれたという出来事・・それらはみな、「今までに見たこともなかったようなこと」だったわけです。
イエス様は言われました。
"いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。" (マタイ24:32)
今はまさにこの「夏」すなわち「終わりの時」を目前にして、「葉が出てくる」すなわちその前兆を見せられている、まさにそのときなのではないでしょうか。
今はもはや、世のことに心を奪われているときではない、身を引き締めて主に近付いて歩むことに専念するときであるという警告のように感じるのは、私だけでしょうか。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。"
出エジプト記 10章3節
ファラオはモーセに降参したはずでしたが、災いが過ぎ去ると結局もとに戻ってしまい、心を頑(かたく)なにして、イスラエルの民を行かせようとはしませんでした。
そのファラオに対して、主はこう言われたわけです。
あなたはわたしの前に、身を低くしていないよね・・と。
身を低くする・・、それは形としては頭を上げなかったりひれ伏したりするというものですが、こと心の中に関しては、私たちもこのファラオのように、低くしたつもりでいながら、本当は低くなっていないということ・・、なんとなく思い当たることはないでしょうか。
私たちには、心にまで、うわべと本音があるようです。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一 16章7節) とありますが、それは、主が見られるのは心の本音の部分だということです。
もともと肉の性質を持った私たちは、自分をかばうという性質を持っているので、自分で自分の心の奥を見るということはとてもむつかしいのです。
ところが、私たちクリスチャンには「キリストの心」である聖霊が与えられているというのです。(第一コリント 2:16 参照)
私たちは自分の心の奥までを見ることはなかなかできませんが、共にいてくださる聖霊=御霊(みたま)は、私たちのすべてを見て下さるんですね。
この御霊に寄り添うとき、私たちも自分の心の内にある本当のことを知ることができるのです。
そのときに、頑なな私たちに「素直な悔い改め」がやってくるのです。
主は私たちにかかわるすべてのことを、成し遂げてくださるのです。(詩篇138:8)
このいつも共にいてくださる御霊に、力を尽くして、目を注いでいたいものです。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" 主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」"
出エジプト記 10章1~2節
七度の軌跡を見せられたにもかかわらず、ファラオは再び心を頑なにします。
そのとき主がモーセに言われたのが、今日の箇所です。
わたしがファラオとその家臣たちの心を硬くしたのだと、主は言われました。
それはこのあとも、彼らの中でしるしを行うためだ・・と。
また、そのすべてのしるしをイスラエルの民が見て、それを子孫に語り継げ、こうしてわたしが主であることを人々が知る・・、そのためにわたしはこれを行うのだと、主は言われたのです。
イスラエルの民はエジプトで四百年近くも奴隷の身として苦しみ、出エジプトにおいて神を見ました。
出エジプトをしたイスラエルの民は、四十年間荒野の生活を強いられ、神の御手によって約束の地を占領しました。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見ました。(マタイ4:16) キリスト来臨です。それ以来全世界の無数の人々が神に立ち返りました。
さらに、世の終わりには七年間の大艱難時代がやってきます。そのとき、神はこの苦しみの中でご自身を表され、この最後のチャンスに多くの人々が神に立ち返るというのです。
これらすべてのことの中にはみな、人々の苦しみがあります。そして神は、その苦しみの中にご自身を現されるということのようです。
そうでなければ人は神を認めようとしないことを、主はご存じなのかも知れません。
世の始めから終わりまで、神のなさること・・特に苦しみや悲しみはみな、人々が「わたしが主であることを知る」ためだというわけです。
人々を苦しみの中に置き、そこで人は神のみわざを見、このまことの神に立ち返り、永遠のいのちの中に救い上げられる・・これが神のなさることの「型」であるようです。
神である主を知る・・そこからすべてが始まるんですね。
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)
" しかし、あなたとあなたの家臣はまだ、神である主を恐れていないことを、私はよく知っています。」"
出エジプト記 9章30節
前回の箇所に続いてモーセがファラオに言ったことばです。
ファラオもその家臣も、あなた方はまだ神である主を恐れていない。そのことが私にはよくわかる・・と。
モーセがファラオに向かって確信をもって、このように言えた理由・・、
それは彼らが「自分がこの神の手から逃れることしか考えていない」というところにとどまっていて、その先に行き着くべきところ、すなわち、この主に助けを求めるべきだというところには全く思いが至っていないということが、見て取れたからではないでしょうか。
結局ファラオは、モーセの神を認めたにも関わらず、それが絶対者である神であり、すべての者がひれ伏すべき方だという概念は、どこにもなかったわけです。
ファラオはモーセに、「今度は私が間違っていた。主が正しく私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ」(27-28節) と、さも降参したかのようなことを、家畜の疫病の時に続いて二度も言っているわけですが、だからと言って自分がこの神の前にひれ伏すなどということは、頭の片隅にもなかったというわけです。
私たちクリスチャンは、身の回りに起こる様々な出来事を、神との関係の中で考えます。
そしてその都度、神と自分との関係について新しいことを教えられていくわけですが、結局行き着くところは、「神を本当に信じる」ということなんですね。
それは、絶対者である神を信じるということです。
世の中の人は、自分を助けてくれるのならこの神に頼んでもいいと思ったりもするわけですが、それができないなら信じたってしょうがない・・。
結局その神を恐れ、この神の前にひれ伏すなどという概念は、微塵もないわけです。
一番大切なこと・・それはこの神を信じ、まことの父として絶対的にいてくださるこの方を恐れ、この方の前にひれ伏すことなんですね。
「あなたは髪の毛一本さえ、白くも黒くもすることはできないのです」(マタイの福音書 5:36から)
ハレルヤ!(主の御名をほめたたえます)