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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #105

【父に重んじられる人】ヨハネの福音書その20

" わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。
 わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。
 わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」"
 ヨハネの福音書 12章26節

 主に仕えるということの原則は、「イエス様について行く」ということで、その人を父は重んじてくださる、という話です。

 父なる神様に重んじられる人・・。弟子たちはいわばこの世的な感覚で、主なる神様に重んじられる人になりたいと、密かに思っていました。
 ヨハネの母がイエス様に、私の息子たちを、天では最も良い位に置いてくださいと願った時に、他の10人の弟子たちはそれに腹を立てたという記事があります。(マタイ20:20:24)

 イエス様はそんな弟子達にこの話をされたわけです。
 イエス様について行くとは、どういうことなのでしょうか。

 イエス様は最後の晩餐の時に、あることを弟子達にして見せられました。
 それはたらいの水で、弟子達の足を洗い、タオルで拭くということでした。

" ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」" (ヨハネ13:8)

 ペテロは、そんなこと、めっそうもない。あなたが私の足を洗うなんて・・と言ったら、イエス様は、「これをしなければ、あなたとわたしのつながりはなくなります」と言われたのです。

 キリストが自分の足を洗う???

 それは、「キリストはあなたよりも低いところに立つために来られた」ということの証しでした。
 このあとイエス様は十字架にかかられたのです。それは、私たちの罪の赦しのために最も低いところに立たれ、苦しみの末に死なれ、さらによみに下るということでした。
・・罪人よりも、どの罪人よりも低くなり、仕える人となられたのです。
 父はこのイエス様に、復活という栄光を与えられたんですね。

 最も低いところに立たれたイエス様と、そのなされたこと(十字架のあがない)を、受け取らなければ、イエス様との関係はなくなるんですよ・・ということ。それがイエス様がペテロに言われたことだったわけです。

「わたしがいるところ」・・それは、最も低いところ。それが「地に落ちて死ぬ一粒の麦」がいるところであり、「自分のいのちを憎む者」(前回参照) が行こうとするところなんですね。

 父はその人を重んじてくださるというのです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.04.04.Sat 13:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #104

【すべての人に】ヨハネの福音書その19

" 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。"
 ヨハネの福音書 12章25節

 この箇所と次の26 節は、前回の「一粒の麦」の話の説明です。

 一粒の麦が死ねば、豊かな実を結ぶ・・。
 それは私たちの生きる姿勢の規範のようなことであると同時に、イエス様のあがないのみわざを指すことでもあるということを見てきました。

 結局、イエス・キリストを信じて、主ご自身を内に宿す者の内に、キリストの十字架と復活が、実となって表れてくるという話です。

 自分のいのちを愛する者・・。ここで言われている「いのち」とは、この世で与えられているいのちのことで、神にある「まことのいのち」とは区別する必要があります。
 自分のいのちを愛する者とは、神ぬきで、自分の知恵と力によって、自分を守りながら歩もうとする「罪人/つみびと」のことを言っているんですね。保身(自分を守ること)を基本とする罪人。それが「自分のいのちを愛する者」だと言っているわけです。
 しかしその者は「それを失う」、と言うのです。すなわち罪人のその基本スタンスは、本当に自分を守ることとは逆のことなんだよということです。

 そしてそれに対し、「この世で自分のいのちを憎む者」は、それを保って永遠のいのちに至るのだと言っています。
「至る」ということは、将来的にそこにたどり着くということです。
 自分のいのちを憎むとは、どういうことでしょうか。それは、保身に走ろうとするその姿勢は、まったく自分のためにはならないということがわかっている、ということなんですね。
 それはいのちには至らないと言うのです。

 自分を捨てるとか無我とかという言葉がありますが、それは一般的にも何となく理解されているのではないかと思います。
 それは修行によって得られるのだという考えもありますが、聖書はもともとそんなことは無理だと言っているんですね。
 聖書はすべての人は罪人だと言っています。そして罪人は、頭ではわかっていても、実行する力はないと言っているわけです。
 ひょっとしたら、それができる仙人のような人はいるのかもしれませんが、「すべての人」がというわけには、どうしたって行かないんですね。

 イエス様はすべての人の「救いそのもの」となってくださったお方なんです。罪の性質を釘付けにするために十字架にかかられたのは、あなたのためであり、「すべての人」のためなんです。
 ですから、この救いは、すべての人が受け取ることができるものとして、神から提示されたものなんですね。
 善良な小市民から極悪人まで。弱い者、無能な者だと言われてさげすまれている人も・・。一旦その人が天から掲示されたイエス・キリストという救いを、受け取りさえすれば、それだけであなたは「永遠のいのちに至る道」に立つ者となるのです。

 救いの門は、すべての人の前に開かれているのです。
 

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.04.03.Fri 08:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #103

【死ぬなら】ヨハネの福音書その18

" すると、イエスは彼らに答えられた。
「人の子が栄光を受ける時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに言います。
 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。
 しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。"
 ヨハネの福音書 12章23~24節

 イエス様がろばに乗って入城されたあと、祭りのために上ってきたギリシア人が、弟子のピリポを見つけ、イエス様に会いたいと願います。イエス様が彼らと会ったかどうかは書かれていないのですが、イエス様はそのことを聞いたときに、今がその時だとばかりにこの話しを始められました。

「人の子が栄光を受ける時が来ました」

 いよいよ人の子=キリストとして来られたイエス様が、その最大の目的を果たすことで、栄光を受ける時が来たと、ご自身の口で言われたわけです。
 ギリシア人がイエス様を訪ねて来た時にこの話を始められたということは、これからなさろうとしている救いのみわざが、全世界の異邦人にも与えられることを示しているように思います。

 イエス様は「まことに、まことに、〜」と言って、話を始められます。
 これは、これから話すことは、本当に大切なことですからね、という意味です。
 それは「一粒の麦」の話でした。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。
 しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

 一粒の麦は、それが地に落ちて土の養分を吸収するということがなければ、芽さえ出すことはできません。
 そのことをイエス様は「死ぬ」という言葉で表現されました。

 言うまでもなく、麦の一粒は、「死のう」と思って地に落ちるわけではないわけです。ただ創造者なる神が作られたその摂理に身をゆだねることによって、実はポトリと地に落ち、そうすればそこには土があって、水気があって、養分を受け取り、芽を出すことができるわけです。

 死ぬ・・。それは、父なる神が与えられたことに、自分の身をゆだねるときに、一粒だけの存在だったものが、次の世代の豊かな実を実らせることになるということを表しているんですね。
 一粒の麦は、自分が付いていた穂に、いつまでもしがみついていてはいけないのです。
 しがみつくとは、自分の意思を表わしていて、それは、神を認めず、自らの考えや力で歩もうとする・・そういう意思です。それでは神が与えられた、大きな恵みと赦しと愛を受け取ることは、出来ないんですね。

 そして、イエス様が「死ぬ」と言われたのは、他でもない、ご自身のことでもあったわけです。
 十字架は激しい苦しみを伴うものであることは分かっています。「人の子」イエス様は、それが父が与えられたご自分の役割であることをご存知だったわけです。しかしそれはとても恐ろしいことでした。
イエス様が言われた「死ぬ」という言葉の意味は、その父のみこころに身を委ねるということと同時に、実際に激しい苦しみを伴う死でもあったわけです。

「しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
 と、イエス様は言われたのです。

 この話はさらに続きます。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.04.02.Thu 13:44 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #102

【予想外の救い】ヨハネの福音書その17

" その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」"
 ヨハネの福音書 12章12~13節

 大勢の群衆の核になっている人たちは、ラザロの復活を目撃した人たちでした。(17-18節)
 ラザロの家があるベタニアからエルサレムまでは、2kmほどでしたから、彼らはイエス様がいよいよエルサレムの神殿に入ってこられることを知り、入城されるであろう東の門に至る道に、自分たちの上着を敷き、なつめ椰子の枝を持って、イエス様を迎えました。
 彼らはイスラエルを救う王=キリストが来られたと、大いなる期待をもってイエス様を迎えました。

 ホサナとは「今、救ってください」という意味です。
 彼らは、イスラエルがローマの支配下にあることからの救われることを切望していたんですね。
 キリストとはそれを実現してくださるお方だと思って、彼らは「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだわけです。
 そんな勇士だったら、さっそうと白馬に乗ってこれば、ますます盛り上がったであろうところを、イエス様は雌のろばに乗ってこられたのです。
 彼らは、あれっ?っと思いながらも、イエス様を熱狂的に迎えました。

 これは実は、イエス様がこれからなさろうとしていることが、人々が思っているのとは、全く違うということを予感させるものでした。
 そして、この期待の「救世主」は十字架に掛けられて、死んでしまうわけです。

 預言書(旧約聖書)には、次のように書かれています。
" 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。"
 ゼカリヤ書 9章9節

「あなたの王」は、ローマを蹴散らす者ではなく、柔和な者で、ろばに乗って来られるというのです。

 イザヤ書にも、キリストの姿が記さいています。
" 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。"
 イザヤ書 53章7節

 イエス様はキリストとして、誰一人として思いもつかないような方法をもって、救いのみわざを成し遂げられるんですね。
 預言書には、それがはっきり書いてあったし、人々も聖書の預言には精通していたはずでした。
 ですが、自分の頭の中にある期待と外れるとき、人はその言葉を全く受け取れなくなってしまうんですね。
 弟子たちも、聖霊が降ってようやく、預言書にあるキリストと、イエス様が繋がってくるわけです。

 聖書には、私たちの時代のあとの「終わりの時」について、はっきり書いています。
 そこから救われよ。キリストはそのために来られたのだ。天から啓示されたその救いを受け取りなさいと・・。

 それが、自分の持つイメージと違うときに、私たちはそれが受け入れられないものになってしまいます。
 しかし、聖書の言葉は、天からの、神からの叫びなんですね。

 救いは、いのちにかかわることなんですと聖書は言っているのです。
 与えられた救い、それは人々が思っているようなものからは、かけ離れたものなんですね。
 そこにはキリストの十字架が必要だったのです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.04.01.Wed 12:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #101

【葬りのため】ヨハネの福音書その16

" 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。"
 ヨハネの福音書 12章3節

 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうという計画を固めていたころのことです。
 イエス様は、彼らが守っていた律法を破るようなことを敢えてされ、しかもご自分が神の子キリストだと、はばかることなく公然と宣言されていました。
 そして、イエス様のなさる多くの奇跡のみわざは、神が共におられなかったら、どうしてこんなことが起こり得ようか、というようなことばかりでした。

 民衆はイエスを支持し、祭司長たちは自分の権威を失っていきます。
 それは自分たちが守るように教えていた律法を公然と破るイエス様の方に、皆が付いていってしまうという状況になってきていたからです。
 律法を公然と破り、それを教える者、それは彼らにとっては死に値する者でした。
 そしてイエスを死刑にすることは、自分たちの身を守ることでもあったわけです。

 一方イエス様は、祭司長や律法学者に対し、
「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
 同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。" (マタイ23:27-28)
・・と言われたんですね。

 イエス様は、人を教えておきながら、内側は神との関係よりも、自分のことで一杯になっており、しかも神の民のトップに立つその地位に安住する彼らを、厳しく糾弾されたんですね。
 安息日に働いたからと言って、病人を癒されるイエス様を罪だとする、即ち神を冒涜する者だとする彼らの心を、イエス様は見抜いておられたわけです。

 この頃エルサレムでは、イエスについて口にすることさえ憚られるようなビリビリした空気が流れていました。
 イエスがメシアだとかいうことを言ったら、自分の身に危険が及ぶという、張り詰めた空気です。

 イエス様もそれを知っておられたのですが、皆がエルサレムにのぼっていく過越の祭りの時になって、もう一度エルサレムに行こうと言われ、向かわれたんですね。
 弟子たちは、イエス様と一緒に死のうとまで言って、一大決心で付いて行きました。

 イエス様によってよみがえったラザロの家は、そのエルサレムに近いところにありました。
 いよいよエルサレム、というところで、イエス様はラザロの家に寄ったわけです。
 今回の箇所は、そこでの出来事です。
 イエス様がいると聞いた多くの人々が、よみがえったラザロ見たさもあって、集まってきました。

 そこでマリアは、非常に高価なナルドの香油に自分の長い髪の毛を浸し、それでイエス様の足をぬぐったんですね。
 家の中はその香りでいっぱいになりました。
 後にイエスを裏切るユダは、それを見て、無駄なことをするなとマリアを責めるのですが、イエス様は「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」と言われたんですね。(7節)

 葬りの日・・。イエス様はここからいよいよ十字架に付けられるという、その目的に向かって出発されるんです。

 家いっぱいに広がったこの香油の匂いは、キリストの十字架と復活という、神の計画の中での最大の出来事の幕開けを象徴したものだったんですね。

" 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章10節

 この暗い今この時、死を超えた救いを与えられたまことの神に、人々が目を向ける時となりますように。

 
2020.03.31.Tue 10:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #100
 
【詩篇23篇】

" 主は私の羊飼い。
 私は乏しいことがありません。"
 詩篇 23篇1節

 私たちは、御霊と共に歩み、キリストの十字架のもとに立ち、いつも父なる神に祈りつつ歩む者です。
 そのように、神に包まれるようにして日々を過ごしているのがクリスチャンなんですね。

 私たちはこの神を「主」と呼びます。

 詩篇23篇は、この主を喜び、賛美しているところとして、多くの人々に愛されている箇所です。
 今回は、第1節のみです。

 主は私の羊飼い・・。

 主のことを、自分の羊飼いだと言っています。
 自分は羊飼いの手で、守られ、導かれ、養われている・・そういう者なのだと、本当に思っているということです。それは主という方を完全に信頼している人のことばです。

 しかも大胆にも「私の」と、あたかも独り占めにするような言い方をしています。筆者ダビデは、それを確信していたんですね。

 ダビデが、一介の羊飼いだった頃からイスラエルの王となるまで、主はダビデと共に歩み、命の危険のある中を歩んだ時にもダビデは信仰を捨てず、主もダビデを見捨てず、導き、力を与え、道を開き、祝福されました。
 ダビデにとっては、主は疑いもなく「私の主」と言えるお方でした。

 この「主」は、私たちにも、全ての人にも「主」となってくださるお方なんですね。
 これを読まれているあなたも、「主は私の羊飼い」と言う可能性があるわけです。

 主はその人個人のことを心配し、例え羊のように臆病でも、何も分からなくても、それは関係のないことなんですね。
 一旦主の羊となったら、主が心を砕かれ、導かれるのです。
  
 主は「あなたの羊飼い」となってくださるお方なんです。

 そのあとにダビデは言いました。
「私は乏しいことがありません」と。
 それは、何も乏しいことが見当たりません、ということです。 
 ダビデは、あらゆることにおいて、足りないと感じることはない。すべて満たされていると・・、本当にそう感じていたわけです。
 このあとに、主がなさってくださったことについて、いろいろなことが挙げられていて、「だから私は乏しいことはない」と、ダビデは言い切っているわけです。

 イエス・キリストの存在は絵空事ではないように、ここに書かれていることも、単に格好をつけて言っていることではないんですね。
 あなたも本当に受け取ることのできる「乏しいことがない」・・ということがあるのだとダビデは証言し、聖書はそれを記載しているわけです。

 そしてその「乏しいことがない」ことの原因は「主」という存在であり、それは求めれば受け取ることのできる、「実存」のお方なんですね。

 ですから呼べば聞かれているんです。探せば、主はあなたの方に目を向けられるんです。

" 求めなさい。
 そうすれば与えられます。
 探しなさい。
 そうすれば見出します。
 たたきなさい。
 そうすれば開かれます。"
  マタイの福音書 7章7節

 見出すことができるから、このことが書かれているんですね。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

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詩篇23篇

主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
詩篇 23篇1~6節

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2020.03.31.Tue 04:18 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #99

【よみがえる】ヨハネの福音書その15

" イエスは彼女に言われた。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」"
 ヨハネの福音書 11章25~26節

 イエス様ご自身がよみがえりで、いのちだと言われています。
 でもそれを眺めているだけでは、イエス様がいのちであるということが、私たちの内に実現することはありません。

 そこでイエス様は続いて「わたしを信じる者は」と言われました。
 信じるとは、信頼して、自分を預けるということだと考えると、わかりやすいかもしれません。

 それは心の行動です。
 自分の心で、この方の存在を先ず信じなければなりません。
 そして、その方は、自分に関わってくださる方であることを信じなければなりません。
 そして、自分が声をかけたら、聞いてくださる方であることを信じなければなりません。
 そしてこの方は、自分を迎えてくださる方であることを信じなければなりません。

 そこがクリアできたら、次に求められるのは、話しかけるという、実際の行動です。
 イエス様、私はあなたを神の子なる神、救い主、私を愛し、私を覚えてくださる方であることを信じます・・と。
 そして、私はあなたを信じ、私の生涯をあなたに預けます・・と。
 それを実際に申し上げなければ、信じる者としての手続きは完了しないんですね。
 次のみことばの通りです。

" 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。"
 ローマ人への手紙 10章10節

 そしてその段階を通過した者が、「死んでも生きる」者となるというのです。

 そうなると「死」に対しての理解は、全く違ったものとなります。
 救われた者にとって、死は、帰るところに帰るための通過点にしか過ぎなくなるんですね。

 先日、私は新しく作ったお墓に、両親の遺骨をやっと納めることができました。その墓には大きく、こう書いてあります。
「私たちの国籍は天にあります。」と。
 ピリピ人への手紙3章20節のみことばです。

 主は、信じる者をよみがえらせることがおできになる。それをイエス様はラザロを通して人々に示されたんですね。
 そして今度は、イエス様ご自身が、そのことをご自身の御からだをもって表され、十字架にかかって、死んで三日の後によみがえり、世の終わりまでいつまでも共にいると約束され、さらにあなた方を天の住まいに迎えるのだと言われて、天に上られたのです。
 イエス・キリストは、死の力を打ち滅ぼし、永遠を指し示されたんですね。

 よみがえりが、あるのです。

 「死んでも生きる」というのは、よみがえるということなんですね。

 これを読む方が、それを手にされますように!


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.28.Sat 19:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #98

【信じてみる】ヨハネの福音書その14

" イエスは彼女に言われた。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」"
 ヨハネの福音書 11章40節

 ラザロは死んでから4日経っていました。遺体はもう腐敗が始まっています。
 このラザロをイエス様が、墓からよみがえらせた時の話。それが11章全体の話です。

 イエス様が、石の蓋を取り除けなさいと言われた時、ラザロの姉妹マルタは、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」とイエス様に言います。
 そこでイエス様が言われたのが、今回のみことばです。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

 イエス様が言われることは、およそ受け入れられないことが大半を占めています。到底できないこと。今考えてもしょうがないんじゃないかと思われるようなこと。到底受け入れられないこと・・。
 とにかくイエス様が言われることは、自分の感覚を遥かに超えた次元のことばかりなんですね。

 私たちは被造物で、イエス様は創造者なる父のみもとから来られた御子なる神、すなわち創造者の側のお方です。

 イエス様は、地上のレベルのことしか理解できない私たちに、天上の、神のレベルのことを言われているんですね。
 ですから受け入れられないというのは、むしろ当然であるわけです。

 男性たちが石の蓋を取り除けた時、それは半信半疑でした。当然のことです。これから目の前に繰り広げられようとしている光景は「天上のこと」なんですから・・。
 でも彼らは「従ってみた」んですね。
要するに、とりあえず「信じてみた」わけです。

 そうしたら、もう腐っているはずのラザロが、包帯で包まれたまま出てきたんです。
 死んだ者のよみがえりです。
 天上の出来事が目の前に繰り広げられたのです。
 腐った度合いが軽度だったから、ラザロの肉は蘇生したんでしょうか。
 もう少し腐敗が進んでいたら、やっぱりダメだったんでしょうか。
 もちろんそんな話ではないわけです。

 マルタが「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」と言った後に、イエス様はこのことをされました。
 それは、終わりの日に人々は主にあってよみがえるという「天上の出来事」を、イエス様はここで、前もって見せたということなんですね。

 イエス様はラザロをよみがえらせる前にマルタに言われたことばが、これです。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。〜
 あなたは、このことを信じますか。」

 あなたは、このことを信じますか?

 これが私たちに問いかけられていることで、それは、自分の尺度をはるかに超えたこと、天上のこと・・なんですね。

 祈り・・「神様、あなたのことは少ししかわかりませんが、信じてみようという思いを与えてください。」

 信じてみよう・・これが神の栄光を見る、その入り口なんですね。

 God Bless You !
 
 
2020.03.27.Fri 11:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #97

【まことの礼拝者】ヨハネの福音書その13

" まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。
 今がその時です。
 父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。"
 ヨハネの福音書 4章23~24節

 イエス様は、まことの礼拝者とは「御霊と真理によって父を礼拝する者」だと言われました

 御霊は神を信じる者に与えられる神の霊です。
 そしてここで言う真理とは、神の一方的な恵みによって神を礼拝する者とされたという、私たちのうちにある「真理」なのだと思います。

 つまり、御霊と真理によって父を礼拝するとは、イエス・キリストによって神のもとに帰った者たちが、形だけの礼拝ではなく、聖霊に満たされ、新しくされた者としての喜びと感謝をもって、まことの神に心から礼拝をささげること・・ということになります。

 そしてそういう時が、やがて来るのだと、イエス様は言われたわけです。
 そして直前の21節では、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」とイエス様は言われています。

 ですからそれは、約束の民イスラエルだけではなく、全世界で主を礼拝する時が来るのだ、ということになります。
 今、私たちは、実際にそうなったところを見ているわけです。

 ・・と、ここまではとてもわかりやすいのですが、イエス様は続いて「今がその時です。」と言われました。
 え? 今が? となり、わけがわからなくなります。
 なぜならその当時は、イスラエル以外のところで礼拝がささげられるという時代ではなかったわけですから・・。

 だったら「今がその時」とは、どういう意味なのでしょうか。

 イエス様がこの話をしていたのは、ユダヤ人ではないサマリヤの女性に対してでした。

" イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」" 26節

「それ」とは、彼女が言った「キリストと呼ばれるメシア」という言葉を指しています。(25節)
 要するにイエス様は、「わたしこそが礼拝されるべき者、キリストである」と言われたわけです。
 これはもう、聞いたら気絶するくらいの大胆な宣言です。

 女は町に行って、私のことをすべて言い当てた人がいるけど、この方こそキリストではないのかと言って、多くの人を連れてきました。そして、連れてこられた彼らは、イエス様から直接話を聞いて、この方は本当にキリストだと信じた、というのです。(39-42節)

 イエス様は、「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」と言われました。
 このサマリヤで起こった出来事。それがまさにユダヤ人ではない人々がキリストを受け入れることだったわけです。
 それでイエス様は「今がその時です」と言われた、ということなんですね。

 結局、この話の主旨は・・、
 キリストによって礼拝者となるなら、ユダヤ人でなくとも、すべての人が「真の礼拝者」となるのであり、父なる神はそのような人を礼拝者として求めておられるのだ、ということになります。

 このヨハネの福音書では、イエスこそ神の御子なる神、キリストであるということを、びっくりするくらいに、随所で、はっきり、しかもイエス様ご自身が言われたということを証言しているんですね。

 今、イエス・キリストにあって礼拝者とされた私たちは、形だけの礼拝者ではなく、いつも祈り「御霊と真理によって礼拝する」者であることを求めていきたいものです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.26.Thu 12:07 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #96

【光の方】ヨハネの福音書その12

" 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。"
 ヨハネの福音書 3章20~21節

 悪を行う者は光の方には来なくて、真理を行う者は光の方に来る、と言っています。
 真理について、イエス様はこう言われています。

 真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。(ヨハネ16:13)

 ですから真理を行う者とは、御霊に導かれる人のことなんですね。
 御霊を送ってくださるのは主イエス・キリストですから、それはクリスチャンを指すわけです。

 悪を行う者というのは、悪事の限りを尽くしている人ももちろんその中に入りますが、そればかりではなく、神から離れ、自分中心に生き、ひそかに行っているその行いが明るみに出ることを恐れる人。すなわち「罪人(つみびと)」のことを言っているわけです。
 ですから罪人は、光であるキリストの方には、来ようとしないんです。

 それに対しクリスチャンは、その行いについてはすでに精算済みとされた人たちです。
 彼らは、ひょっとしたら罪を犯してしまうような者ではあるけれど、それもすべて主なる神様に任せてしまっている者なんですね。
 その人は、「万物を従わせることのできる方の、その御力によって、主と同じ姿に変えられて行く者とされている」(ピリピ3:21参照) ので、そんな主の力を日々体験しながら成長していくわけです。
 ですから主のもとに行って、「主よ、私はこんなことができました。これはあなたがさせてくださったことです。」と言って、主をほめたたえ、喜び、礼拝する者となるんですね。

 これが「光の方に来る人」、すなわち、「その行いが神にあってなされたことが明らかになる」ことを喜ぶ人です。その人は、光の方に行こう行こうとするのです。

 ですからここで言っていることは、世の中にはもともと「悪を行う者」と「真理を行う者」がいて、キリストのもとに来るのは、真理を行っている者だ、と言っているわけではないんですね。
 最初から真理を行う人など、いないのです。
 ですからこれは、イエス・キリストのもとに来た人と、まだ来ていない人の話なんです。

 神は、あなたが光の方に来ない人だということはわかっているんです。そのあなたを、光は照らし続けているんですね。
 恐れてはならない。私のところへ来なさい、と、主はあなたに向かって言われているのです。

 恐れることはない、わたしはあなたを愛し、あなたのためのあがないのささげ物をすでに用意して、あなたを迎える準備は整っている。そして、天に住まいも用意したのだ。
 今、いのちのあるうちに・・、あなたのその心で神に目を向けられる今のうちに、わたしを呼び求めなさい。わたしをたずね求めなさい。私のところへ来なさい。
 あなたがわたしに心を向けるなら、わたしはあなたのところへ飛んでいって、あなたを抱きしめるから・・。

 主は、そう言われる方なんですね。

 神の国への扉は、あなたの前に開かれています。それは「光の方に来ようとしないあなた」が「光の方に行こうとする者」となるための入り口なのです。

 祈り・・「私はあなたのことがまだよくわかっていませんが、あなたに祈ります。あなたがまことの神なら、私にもわかるようにしてください。アーメン。」


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.25.Wed 10:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #95

【心の闇】ヨハネの福音書その11

" 御子を信じる者はさばかれない。
 信じない者はすでにさばかれている。
 神のひとり子の名を信じなかったからである。
 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。"
 ヨハネの福音書 3章18~19節

 御子を信じる者とは、言うまでもなくイエス・キリストを救い主、主として信じる者です。
 御子は私たちの古い性質を釘付けにしてしまうために、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださいました。そして新しいいのちとなってくださるために、よみがえられました。
 御子を信じる者は「御子にあって」罪が赦され、神の家の子として、死を超えた永遠のいのちが与えられます。これが福音です。
 ですから、御子を信じる者は、叱られることはあっても(笑)、さばかれることは、もうないのです。
 
 この救いは、神が与えてくださった奇跡の中の奇跡。受け取らなかったら、もう行きどころがない。そういうものです。

 資金繰りに困ってどうにもならない時に、お金を融通しようという話があったのに、それを拒んでしまった・・。
 そうしたら、それはもう誰の責任でもない。拒んだあなたの責任で店は潰れるわけです。

 さばきを取り除かれる道が目の前に置かれているのに、それを拒めば、そのこと自体によって「さばき」は確定してしまう、というわけです。
 信じない者はすでにさばかれている。それは自分の選択だというのです。

 そして「さばきとは」と続きますが、これは「信じないこと」とはどういうことなのか、ということの解説になっています。

 光が世に来ているのに・・と言っています。それは世を照らす光であり、永遠の希望がそこにあることを示す光でした。
 と同時にこの光は、私たちの心の奥も照らし出すんですね。
 心の奥まで光で照らされてしまったら、もうたまったものではありません。
 私たちは本能的にそれを隠そうとします。
 それが見えてしまったら、誰にも顔向けできないことを直感するからです。
 だからそれを避けて、心の奥のクモの巣が張ったような闇の部分は、とりあえずそのままにしておこうと思ってしまうんですね。
 それは「自分の行いが悪いため」だというのです。だから「光よりも闇を愛する」のだというわけです。

 人の心の奥には、闇があるんです。
 本当はその奥の部屋は、綺麗にそうじされ、しかもそこは、満たすべきもので満たされる必要があるんですね。
 人はその必要を、なんとなく感じていはいるんだけど、結局「闇を愛する」ことでまぎらわせているというわけです。

 この必要のことを「心の渇き」と言います。

 イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」" (ヨハネの福音書 7:37-38)

 心の奥底から生ける水の川が流れ出る・・。これが実は、私たちの心が切に求めているものなんですね。

 イエス・キリストは「そんな私たちのために」来てくださったんです。

 心の奥を光で照らし、その汚れを見せ、神の前に出るには、およそ相応しくない者であることを、その光は示されるんですね。
 その時、人はまことの神の前に、ただ平伏すしかなくなるのです。
 しかしそこで目を上げると、そこには十字架にかかられ、死んでよみがえられたイエス様が立っておられるんですね。

 イエス様は言われます。
 わたしがあなたの心の闇の処分をしたよと・・。
 わたしがその汚れを取り除き、傷を癒し、あなたの心を愛で満たし、それがおさえきれなくなって、外にあふれて流れ出るようになるよ・・と。

 もう、心の闇を隠す必要はなくなったんですね。

 祈り・・「イエス様、私を導いて、私の心を愛で満たしてください。」


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.24.Tue 11:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #94

【神の計画の全貌】ヨハネの福音書その10

" 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
 ヨハネの福音書 3章16節

 この3章16節は、聖書全体を一言で言い表しているところとして、有名な箇所です。

「神は世を愛された」と書いてあります。
 しかし、エペソ2章のシリーズでも見てきたように、
 人は「御怒りを受けるべき子ら」であり、しかも「空中を支配する権威」を与えられているサタンの支配下にある者だと言っています。

 ここがとても惑わされるところなので、何度でも書きますが・・、
「その人々」を、神は愛されたというのです。

 元来、神と人は相思相愛の関係が前提で造られました。ところが「人」が家出をしてしまったんですね。
 でも最後には、「人」が神のもとに戻り、「神の国の民」となる、というのが聖書全体の筋書きです。
 そして、神の国の民となる人々は「キリストの花嫁」だというのです。
 神の当初のもくろみである「相思相愛の関係」が、ここで初めて不動のものとなるというわけです。

 なぜ神はそんなめんどくさいことをするのか・・。

 最初から相思相愛のパラダイスを創り、そこに人を住まわせる・・。
 そういう手もあるかとは思います。
 
 しかし全能の神はもっと別の方法をとられたんですね。
 神は暗闇の中に光を提示され、人がそれを「自分の決断で受け取るようにされた」んです。
 そしてそれを受け取った人を、神はご自分の国の永久メンバーにすることに決めたんです。

 こうして3章16節を見ますと、

 神はなんと、ひとり子を世に送られた。それは何のためかと言うと、
 人々がその御子キリストを信じることによって、滅びの運命「罪の奴隷」から救われて、永遠のいのちを持つ「神の国の民」となるためなのだ。
 このようにして神は、ご自分に背を向ける世に対して、愛を表されたのである。
 ・・となります。

 神がこの方法を取られたのです。私たち被造物は、このことに口を挟む権限はないんですね。

 こんなみことばがあります。
「陶器師」は神で、「粘土」は人です。

" ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。
 陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。
 造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。"
  イザヤ書 29章16節

 すべては、神から始まったのです。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.23.Mon 10:56 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #93

【身を慎み、目を覚ましていなさい】

" あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
 神があなたがたのことを心配してくださるからです。
 身を慎み、目を覚ましていなさい。"
 ペテロの手紙 第一 5章7〜8節

 今、世界はこれまでに体験したことのないような恐慌に突入しようとしているように見受けられます。
 正体不明のウィルスによる死者の数もさることながら、世界の経済活動が止まっていることによって、すでに経済的な破綻に追い込まれる企業や個人事業主が望みを失い、それに伴う自殺者の急増は、ウィルスによる死者を上回ることは必至である、という声が出始めています。

 感染を抑えれば、病死者数は抑えられるが、それに伴って自殺者が増えるという板挟みの中に私たちは置かれています。大阪の吉村府知事は、その両者を天秤にかけながら、自粛要請を解除していくという方法を取るしかないのだと言っていました。
 どっちに転んでも死者が増えるという事態・・これこそ恐慌、すなわち恐れ慌てるという事態が、地球全土を覆うということになるというシナリオが、少しずつ見えてきた。そんな状況のように思えます。

 あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい・・。

 今はほぼすべての人が、様々な思い煩いの中に置かれているのではないでしょうか。
 このみことばの大前提は、いっさいをゆだねることのできる方が、本当におられるのだということです。
 私たちのすべての必要をご存知の神、また「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言い切っておられる神。この方にゆだねよ、というのです。

 私たちの思い煩いは、ほぼすべて「死」という要因がからんでいるものです。この「死」につかまってしまうと、思い煩いは不動のものとなってしまい、最悪の事態には、それだったら先に命を絶ってしまおうということになってしまうわけです。
「死」というものが、それまでとは全く別の「単なる通過点」に変わってしまったクリスチャンでさえも、うっかりすると、この「死」につかまり、恐れと不安の中から出られなくなってしまいます。

 聖書の中で、常に問われていること、それは「信仰」なんですね。

「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」というみことばに、耳を傾ける余裕が自分の中にあるのかを、今問うてみる必要があるかもしれません。
 本当に困り果てたときに、頼りになる人がいれば頼もしいですが、それでも人の力には限界があります。
 
 ここでは「神に信頼を置け」と言っているのです。それは多分・・大声です。

 それで「身を慎み、目を覚ましていなさい。」というのです。

 身を慎みというのは、自分のイメージする世界に、自分の心までも奪われないようにしなさいということです。
 目を覚ますとは、我に帰るということです。我に帰れば、そこに主がおられる。そのことに気付く。 
 そこに立っていなさい、というんですね。

 この危機的な状況の中で祈ること、それは、
「主よ。ここにあなたの栄光を現してください。あなたが、私のことを心配してくださっている方であることを、信じることができるように、私を助けて下さい。」

 そのように祈ってみませんか。
 その時、私たちの目は、自分にではなく、困難と絶望の中にいる人々に向けられ、その人々のために祈り、具体的に助ける人へと変えられて行くのだと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.22.Sun 09:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #92

【イエス様の目的】ヨハネの福音書その9

 イエス様がニコデモに話をされた、その最後の部分です。

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 ヨハネの福音書 3章15節

 モーセが荒野で蛇を上げたという話は、旧約聖書の民数記21 章に出てきます。

 イスラエルの民は、神の偉大な御手のわざによって、奴隷として散々苦しめられていたエジプトから逃れることができました。
 ところが、荒野の生活が不自由だと、とたんに不平を言い始めます。でもそれは、先行きが全く見えないことによる不安から来ていたわけです。
 
 自分だったらどうするだろうかと考えると、彼らが恐れるのは無理もないなあと思うのですが、人々はその恐れの挙げ句の果てに、そこまで強い御手をもって導いて来られた神に対して、不遜な態度を取り始めるんです。

 彼らは毎日、天から降る不思議な食べ物「マナ」によって養われていました。マナはそれだけで人を生かすという、いわばスーパーフードだったわけです。
 ところが人々は、神の人モーセに対して決定的な言葉を投げつけてしまいます。
「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と。民数記21:5

 その不遜な態度に主の怒りが臨み、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ、・・これがその結末です。

 モーセの必死のとりなしの祈りの結果、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きるから」とモーセに命じます。
 それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付け、高く掲げました。そしてそれを見た人々は、蛇に噛まれても、死ぬことはなくなりました。
 この蛇を仰ぎ見た人は、神の怒りの対象ではなくなったのです。
 
 それは「上げられたイエス様」を仰ぎ見る者は生きる、という「救いの型」がこの出来事にあるということなんですね。

 人々が青銅の蛇を見上げたというのは、自分の罪の姿を直視するということでした。
 イエス様の十字架の姿は、人々の罪の結果の姿なんですね。
 あのキリストの姿は、自分が受けるべきものだと気付く時、それを仰ぎ見て救われるというわけです。

 イエス様は十字架にかかられて死んで、三日の後によみがえられた方です。
 神は私たちに、このイエスを救い主として、全世界に高く掲げられたんですね。
 このキリストにあって、信じる者は、罪が赦され、永遠のいのちをいただくのだと・・。

 そのために先ず「人の子は上げられなければなりません」と、イエス様は言われたわけです。
 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためだ・・と。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.21.Sat 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #91

【新しく生まれる】ヨハネの福音書その8

" イエスは答えられた。
「 〜 人は、新しく生まれなければ、
 神の国を見ることはできません。」"
 ヨハネの福音書 3章3節

 これは、ニコデモというユダヤ人の議員がイエス様を訪ねてきたときに、イエス様が語られたことばです。
 この話は1節から15節まで続きます。

 ニコデモはイエス様に「あなたは神のもとから来られたと教師です」と言いました。
 そうしたらイエス様はニコデモを見透かすようにして、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言って話を始められたんですね。
 ニコデモは自分の考えに基づいてイエス様のことを「神のもとから来た教師」と評したわけですが、イエス様の話は、その評価の物差しではとても測ることのできないような内容でした。

 新しく生まれるとは、それまでとは違う人になる、ということです。そしてその「違う人」にならなければ、神の国は理解することはできないんですよ、と言われたわけです。

 ニコデモは自分の物差しではとても量れないこの言葉を聞いて混乱してしまいます。

 そこでイエス様は「イスラエルの教師」であるニコデモに、詳しくその話をし始めるのですが、ニコデモがそれを本当に理解したかどうかは、ここに書かれていません。おそらく理解できなかったのだと思います。
 なぜなら、弟子達でさえ、3年もの長い間、毎日イエス様と共にいて、奇跡を見て、神の国についての話を聞き続けていたのに、結局何もわかっていなかったんですね。
 本当にわかったのは、イエス様が天にのぼられた後に激しく下った聖霊によって、初めて目が開かれ、イエス様が言われたことに合点が行ったわけです。
 この聖霊を受けた人たちは120人ほどの人たちでしたが、もしここにニコデモもいたなら、この時初めて目が開かれ、このイエス様のことばを理解できたのだろうと思います。(使徒の働き2章)

 イエス様の話は続きました。
 新しく生まれるとは「御霊によって生まれる」ことなのだというのです。
 それはもっぱら外的要因によってということで、完全に受けるものだという意味を含んでいます。
 ですからイエス様はこんな言い方をされました。
「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
 ・・と。
 御霊は神から来て、その御霊によって人は新しく生まれるです。

 ニコデモはこの話がさっぱりわかりませんでした。
 その時、イエス様はさらにわからないことを言われます。
 これは「わたしたち」が証ししているのだと・・。
「わたしたち」と言って当てはまるのは、父である神と、子であるわたし、ということです。
 父なる神と一緒になって、こうしてしるしと不思議を見せ、神の国の話をしているのに、あなたのわたしに対する評価は「神のもとから来られた教師」ですか。わたしがキリストであることを信じなかったら、地上のことはもとより、神の国のことなど信じることはできませんよ・・というわけです。

 そして、イエス様はご自分のことを、「天から下ってきた者、人の子」だと言われたわけです。
 それはイエス様こそが、神の子として天から下り、人の子すなわち、私たちにも見える姿で来られたキリストなのだ、という意味です。

 そして最後に 「人の子」が来たのは〜のためなのだ・・と、結論を言われました。
 この部分、15節は次回に回したいと思います。

 祈り・・「神様。この話が理解できるように、私にも聖霊を与えてください。アーメン。」

 長くなりますが、1-15節を、以下に添付します。これを読まれると、この解説もさらにわかりやすくなると思います。

 God Bless You !

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ヨハネの福音書 3章1~15節

" さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」"
 
 
2020.03.20.Fri 10:17 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #90

【信頼できるお方】ヨハネの福音書その7

" ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。"
 ヨハネの福音書 1章14節
 
「ことば」とは、#84でご紹介した通り、キリストのことです。
 例によって、キリストを示す部分を「キリスト」と置き替えてみますと・・

" キリストは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはキリストの栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 キリストは恵みとまことに満ちておられた。"
 ・・となります。

 キリストは、神と共におられた「ひとり子としての神」であり、もともと「人」ではなかったんですね。
 そのキリストが、私たちの見える形、すなわち「人」という姿で、しかもマリヤの胎から赤子で産まれるという形で来てくださったというのです。

「私たち」すなわち、ヨハネと当時の人々は、この方=キリストの栄光を見たというのです。
 それは、この方=イエス・キリストは神のみもとから来られたひとり子なる神、すなわちこの方こそがまことのキリストであるという宣言に他なりません。

 そしてこの方=キリストは、恵みとまことに満ちておられた・・と言っています。

 恵みとまこと・・

 主の恵みとは、これまでずっと書いてきたように、
 神の方から来られた。
 神から発せられた。
 神が一方的に備えてくださった。
 ・・救いそのものです。
 しかも、神に背を背ける者、もともと「御怒りを受けるべき」者のために一方的に与えられたものです。
 このギフトのことを「恵み」というわけです。
 そしてこれが人々に表された「神の愛」なんだ、と主張しているのが聖書です。

 そしてこの方は「まことに満ちておられた」と言っています。
 まこととは真実という意味です。それは、曲がったところがなく、ごまかすところもなく、一本の太い線として貫かれている・・、真実とはそういうものです。
 キリストはその真実そのものだというわけです。

 信じなさいと言われているこの方、イエス・キリストは「信頼に値するお方」で、この方の言われることは決してぶれることはなく、この方を信じる者は決して裏切られることはない、ということです。

 でもそれを実際に見るには、本当にこの方が「実在」であることを信じる以外に、方法はないんですね。
 ここからすべてが始まるんです。

 イエス・キリストは、私たちに示されたただひとつの「恵みとまことに満ちたお方」なのです。

" この方以外には、だれによっても救いはありません。
 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。"
 使徒の働き 4章12節

 祈り・・「イエス様、あなたを信じます。私の歩みをあなたが導いてください。」


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
  
2020.03.19.Thu 12:04 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #89

【神によって】ヨハネの福音書その6

" この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。"
 ヨハネの福音書 1章13節

 前回は「神の子どもとなる」ということを見てきました。
 そのための人の側の行動の条件は、「その名を信じる」ということでした。
 そして今回は、それは何によって生まれるのかという話です。

 血によってとか、肉の望むところによってというのは、「人の側でできる何か」を表している言葉です。

 血によってという言葉を見ると、聖書を読む人は、イエス様の流された血のことをイメージしますが、ここでは、人の血のことを指します。人が血を流すことによって何かを実現するという意味です。
 また肉の望むところによってというのも、自分の願望の強さをテコにして、努力をすることで何かを成し遂げるということです。
 また意思によってというのは、不屈の精神といった、意志の強さによってという意味です。

 それらによって「神の子どもとなる特権」が与えられるのではない。「ただ、神によって」と言っているわけです。

 それは、人の側からの力によって実現するのではない。起動力は神にあるということです。
 人の側ですることは「信じる」という単純な動作、すなわち、心の中でスイッチを入れるだけだというのです。
 今まで「恵み」ということを書いてきましたが、それも同じことです。

「恵み」とか「ただ神によって」ということを理解するのって、実はとても難しいんですね。
 何故かというと、私たちの内には、どれだけぺしゃんこになっても、まだ自分の能力や意志の力に頼ろうとするという傾向があるからです。

 確かに人はそれぞれ、いろいろな能力が与えられています。しかし、その能力が生かされるか、生かされないか・・。それはまた別の話なんですね。
 ですから、自分の努力や発想は捨ててしまいなさいということではありません。

 ある人が就職します。その会社は、悪徳会社かもしれないし、利得のためではなく社会のために貢献しようとする良い会社かもしれない。
 あなたがすることは、就職先の会社によって、結果が違ってくるんですね。どこにいてもあなたの能力に変わりはありません。しかしあなたに社会貢献の一翼を担わせてくれるのは、その良い会社なのです。

 人が、自分の歩みを、自分ファーストの思いに任せるのか、それとも一点の汚れも暗さもない神に任せるのか・・、
 あなたの能力は同じです。しかし自分を預ける相手によって、やることは180度変わってくるというわけです。

 だから「信じる」という出発点が、運命を全く別のものにするわけです。
 主を信じるということは、主に自分を預けるということなのですから。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.18.Wed 12:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #88

【神の子どもとされる特権】ヨハネの福音書その5

" しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。"
 ヨハネの福音書 1章12節

 前回の最後、12節です。
「神の子どもとなる特権」ということばに、注目してみましょう。

 神の子どもになるということは、文字通り、神の家、すなわち本当の父のもとに帰って、その家の子としていただくすべての恩恵を、当たり前のようにいただく者となる、ということです。
 それは言い換えれば、「絶対なる主権を持ったお方の手の中に置かれた者になる」ということなんですね。
 
 イエス様が弟子たちと共にガリラヤ湖を小舟で渡っている時、激しい突風が吹いてきて、舟は沈みそうになるのですが、イエス様は寝ておられたという話があります。

" そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。
 イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。
 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。"
 ルカの福音書 8章24~25節
 
 私たちは、風や水の上にはもちろんのこと、天地万物の上に絶対的権威を持たれるこの神に「属する者」とされたんですね。
 それまでは、神に敵対する勢力に「属していた」者だったのが・・。

 人生には嵐もあれば、死の影の谷を行く時もあります。しかし私たちは、どんな時にでも、主がおられるという約束をいただいている者なんですね。

 主は、次のように言われる方です。

" 主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。
 主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
 恐れてはならない。
 おののいてはならない。」"
 申命記 31章8節

 しかしながら、それを忘れさせようとする力も、せっせと働きかけてきます。
 弟子たちは水をかぶって沈みそうになる「状況」に目を奪われたんですね。
 それに対してイエス様は「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言われたんです。
 それは「状況」を見て恐れている暇があるんだったら、わたしを見なさい、ということです。

 主が救いなんです。
 主が助けなんです。
 主が解決なんです。

 これが「その名を信じた人々」の特権なんですね。
 
 祈り・・「主よ。慌てた時に、あなたに目をとめる者とさせてください。イエス・キリストの御名によって。アーメン。」

 次回はこれに続く13節を見てみたいと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.17.Tue 09:22 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #87

【すべての人を照らす】ヨハネの福音書その4

ヨハネの福音書 1章9~12節から

" すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。12 "

 ここも1-5節同様、光=この方=キリストですから、その部分を「キリスト」と読み替えてみますと・・、

 すべての人を照らすそのまことの光、すなわちキリストが、世に来ようとしていた。
 キリストはもとから世におられ、世はキリストによって造られたのに、世はキリストを知らなかった。
 キリストはご自分のところに来られたのに、ご自分の民はキリストを受け入れなかった。
 しかし、イエス・キリストを受け入れた人々、すなわち、その名(イエスは救い主)を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。"

 ・・となります。

 キリストという光は、すべての人を照らす光で、そこから漏れる人はない。
 しかもその光は「まことの光」であって、それが来ようとしていたと、言っています。

 そして「この方」は、大体において、この世の主(ぬし)なのに・・、
 すべてがこの方の支配と権威のもとにあるのに・・、
 そこに生かされている者は、その方を知らなかったというのです。

 キリストとしては、ご自分のところにこられたのに、全く歓迎されなかった、というわけです。
 受け入れなかったのは 「ご自分の民」。それはイスラエルの民=当時のユダヤ人のことです。

 神は、ひとりの人ヤコブすなわちイスラエルを選び、一大民族とされ、奴隷状態のエジプトから導き出し、最終的には40年かけて、約束の地カナン(今のイスラエル国があるところ)に導き入れたわけです。
 イスラエルの民は、自分たちを導いて来られた神が「わたしこそまことの神であり、他にはいない」という方であるというということを、こんこんと教えられながら、ダビデ〜ソロモンという王国の頂点にまで上り詰めます。
 ところがあろうことか、彼らは結局その神を捨ててしまうんですね。
 その結果として、他国の侵略で人々はこの地から追い出されてしまいます。
 それでも神の恵みにより、もう一度人々はエルサレムに戻り、神殿を建て直し、改めて、このまことの神なる主をあがめる者となるという、復活の奇跡が起こります。
 そしてそれから500年ほど経った時に、いよいよキリストが「人の子」として、地上に来られたんですね。
 その時、「ご自分の民」は、この「来るべき方」キリストを受け入れなかった・・というわけです。

 そして「しかし〜」と続きます。

「ご自分の民」は受け入れなかったけど、この方イエス・キリストを本当のキリストとして受け入れた人々には、イスラエルだろうが異邦人だろうが、すべての人々に「神の子どもとなる特権」をを与えたと、そう言っているわけです。


 次回はこの「神の子どもとなる特権」を見ていきたいと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.16.Mon 10:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #86

【光】ヨハネの福音書その3

" 光は闇の中に輝いている。
 闇はこれに打ち勝たなかった。"
  ヨハネの福音書 1章5節

 今回は1章冒頭の「ことば」、すなわちキリストについての最後のところです。

 キリストが闇の中に輝いている、と言っています。
 闇とは「世」すなわち、私たちが生きる地上の世界のことです。
 こんなに美しい地球、ささやかな幸せ、暖かい人の絆、愛。
 どうしてこの世が闇なんですか?という見方もあります。

 この世界は神が創造されたもので、もともとすこぶる良いものでした。私たちは生きる中でその片鱗を見せていただきながら地上を歩んでいるんですね。
 ですから、その片鱗を見させられたときには、えも言われぬ感動を覚えます。

 しかし一転、人の歴史に目を向けると、それはまさしく「血塗られた世界」です。
 エペソ2:2 にあるように、この世は「空中の権威を持つ支配者」すなわちサタンが支配しているのだというのです。

 第二次大戦後も、戦争は止んでいません。富は、過去に見られないほどの一局集中化がますます進んでいます。
 今平和でも、それが一瞬のうちに崩れてしまう・・。私たちは今、それをまざまざと見せられているようです。

 聖書は、世は暗闇だと言っています。しかしそこに光が「輝いた」というのが、その全体のメッセージなんですね。
 そして、闇がどんなに闇だったとしても、この光には勝つことができないというのです。

 闇の支配者は、一つの切り札をもって人々を支配しています。それは「死」です。
 光はこの「死」の力を打ち破ったんですね。復活のキリストのことです。

 今も私たちには死が待っています。もしそれが終わりという意味ではなく、希望という意味に変わるのだとしたらどうでしょう。
 それは、よみがえりと永遠への希望です。そしてこの地上において真理を手にしたのだという充足感をもって、死という「通過点」に臨む者となる、という希望です。

 キリストが光であることは、光そのものを内にいただかなければ確認することができません。
 確認してから内に迎えるのではなくて、信じて迎えたら確認できるのです。

 イエス・キリストが光で、いのちで、よみがえりで、救いなのです。

 キリスト降誕の700年前に、イザヤは預言をして言いました。

" 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。
 死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。"
 イザヤ書 9章2節


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.14.Sat 08:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #85

【いのち】ヨハネの福音書その2

 この方にはいのちがあった。
 このいのちは人の光であった。
 光は闇の中に輝いている。
 闇はこれに打ち勝たなかった。"
  ヨハネの福音書 1章1~5節

 前回のみことばの後半です。

 ことば=キリスト という理解によって、このヨハネの福音書の冒頭が、イエス・キリストをという方をはっきり指し示すためのイントロ(序章)であることが見えてきましたね。

 ヨハネの福音書は、新約聖書の初めに出てくる4つの福音書の4番目です。この4つはそれぞれ特徴がありますが、このヨハネの福音書は、イエス・キリストの「神性」を特に強調しています。
「神の子なる神」ということを、はっきり述べているのが、このヨハネの福音書なんですね。

"いまだかつて神を見た者はいない。
 父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"
 (ヨハネ1:18)

 この「ひとり子の神」ということばがそれを象徴しています。

 そして今日の箇所。「この方にはいのちがあった」・・
 「いのち」・・それは、生まれてから定められた期間を生き、時が来ると死ぬといういのちではないことは、明白です。
 このいのちは「死」とは別のもので、ここに死はないんですね。

 「永遠のいのち」ということばが、福音書の随所に出てきますが、この「いのち」は「死」のないいのち、いのちそのものなんですね。
 まことのいのちは死には繋がっていないのです。
 エデンの園でアダムとエバに与えられたものは、この「いのち」でした。
 そして、聖書の最後、黙示録に出てくる新天新地における永遠のいのちも同様です。

 アダムは、神から独立する道を選んでしまったので、園にはいられなくなりました。ここで初めてアダムとエバは「死ぬ者」となったんですね。(創世記3:19-22)

 この方にはいのちがあった・・。
 神ならば、いのちを造られた側の存在ですから、いのちが必要であるはずはありません。
 そのいのち・・、それは「人に与えることのできるいのち」そのものだと言っているんですね。

 キリストがまことのいのちだというのです。イエス様は言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)

 そして次、
 このいのちは人の光であった・・。
 このまことのいのちは「人の光」だというのです。

 光は人を照らします。どんなお化粧をしているか、全部見えちゃうんですね。心のお化粧の話ですけど。
 あるいは、人の歩みのための光という風にも受け取れます。すなわち、歩むべき道を照らす光です。
 でも、そんな意味を超えて、光とは本来、人を通して発する、神ご自身の存在、栄光なんですね。
 そしてその光を輝かすことこそが、人が生きることの意味であるとも言えるわけです。

 次のみことばが、そのことを一言で言い表しています。

"イエスは再び人々に語られた。
「わたしは世の光です。
 わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
 いのちの光を持ちます。」"
 ヨハネの福音書 8章12節

 
 ヨハネの福音書、しばらく続きそうな気配がしてきました。(笑)
 余裕のある方は、ヨハネの福音書を先に読み進めておかれると良いかと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.13.Fri 10:04 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #84

【ことば】ヨハネの福音書その1

"初めにことばがあった。
 ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。
 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
 この方にはいのちがあった。
 このいのちは人の光であった。
 光は闇の中に輝いている。
 闇はこれに打ち勝たなかった。"
  ヨハネの福音書 1章1~5節

 私たちが一番わかりにくいのは、イエスが神の御子であり、しかも神であり、天地創造より前に父なる神と共におられたキリストである・・ということではないかと思います。

 キリストは「人の子」という姿をとって2000年前、ベツレヘムに登場したと、聖書は言っています。
 そして赤子から成長し、30歳ほどになった時改めて、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受け、神から遣わされた御子キリストとしての働きを開始されました。

 人々は、聖書の400にも及ぶ箇所で預言されているメシヤ=キリスト=油注がれた者「来るべき方」を、待ち望んでいました。
 それは、ダビデの子孫として来られて、神の国を確立させる方という理解でした。
 ですからイエス様がロバに乗って入城された時に、人々はこう叫びました。

「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(マタイ 21:9)

 ホサナとは、「今、救ってください」という意味です。
 人々は、当時のローマの圧政下から救ってくださるヒーローとして、イエス様を迎えたんですね。
 しかし、それは人としての英雄でした。

 しかしイエス様はご自身について、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9) と言われたんですね。
 しかし人々にとって、目の前に見ているキリストが神と同格の方であるということなど、とても理解できることではありませんでした。

 この前提を踏まえて、今日のヨハネの福音書の冒頭を見ていただきたいのです。
「ことば」とは、ギリシャ語で宇宙の支配者的な意味を表すロゴスという原語を訳した言葉です。
 これがキリストを指すことばなんですね。

 ヨハネ1:1〜5 の文脈は、ことば=神=いのち=人の光、となります。
 ですからこれらを「キリスト」と読み替えると、その全貌が見えてくるわけです。

 初めにキリストがあった。
 キリストは神とともにあった。
 キリストは神であった。
 キリストは、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、キリストによって造られた。
 造られたもので、キリストによらずにできたものは一つもなかった。
 キリストにはいのちがあった。
 このキリストは人の光であった。
 キリストは闇の中に輝いている。
 闇はこれに打ち勝たなかった。
 
 びっくりするようなことが書かれているわけです。
 しかしイエス様が十字架に掛かられる直前の祈りの中にも、こんな言葉があります。「世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光」(ヨハネ17:24)

 キリストは天地万物が造られる以前に神とともにおられた神なんですね。
 そしてさらに、このイエス・キリストが、砂粒の中の一つのような私たちのことを、かえりみてくださるのでというのです。
 これはもう、私たちの理解の限界を超えています。

 しかも、私たちはその方とつながり、心に迎え、自分の存在をその方に委ねるということができるというのです。
 ここを繋ぐのはもう「信仰」以外にはないんですね。

 これからしばらく、キリストとはどういうお方なのかを見ていきたいと思います。
 
 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.12.Thu 11:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #83

【誰も誇ることがないため】エペソ2:1-9より

 今回は、もう一度前回の8節と、それに続く9節を、合わせて見てみます。

" この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
 それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
 行いによるのではありません。
 だれも誇ることのないためです。"
 (エペソ人への手紙 2章8-9節)

 「それはあなたから出たことではない」・・
 この救いのシステムは、人の英知によって考え出されたものではない。また自分の良心とか深い洞察力とかによって得られるようなものでもない。神の賜物なんだ、というわけです。

 賜物とは、何かに対する報酬ではなくて、一人一人の上に「恵みとして与えられる良いもの」のことです。
 その人の行いがどうだこうだという次元のことではない、というわけです。

 そしてそれは「だれも誇ることのないため」なのだというのが、最後にくる言葉です。
 すなわち、だれも誇ることがないように、神はこういうやり方で人を救うことにしたのだ、というのです。

 パウロはこう言っています。

"有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。"
コリント人への手紙 第一 1章28~31節

 神が人を用いられる時には、「取るに足らない者、見下されている者」を選ばれるのだというのです。
 何か良いところがあるとその人は、神の前に、自分が何か資格があるから選ばれたのだと勘違いするから、そういう人は選ばないというのです。
 私たちは、神を信じてどうなったのかというと、ただキリストのうちにあって、生かされているだけ。だってキリストが私たちにとっての「知恵と、義と聖とあがない」そのものなんだから・・と、そういう人になったんですね。

 だから、もし何か誇れるものがあるとすれば、主を誇る以外に何もない・・。
 主にあって新しく生まれた者とは、そのような者なんです。

 誰も誇ることがないためです。
 誇る者は主を誇れ。

 ここがある意味で、神が導かれるゴールなんですね。

 主なる神の御名がほめたたえられますように!

 祈り・・「主よ、あなた以外に私が誇りとしているものがあるなら、それが見えるようにしてください。」


 今回でエペソ1-9シリーズは終わりにします。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.11.Wed 16:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #82

【神の賜物】エペソ2:1-9より

" この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
 それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。"
  (エペソ人への手紙 2章8節)

 救いについての捉え方として、この最初の二行は、とても大切なことを教えてくれています。

 それは、上から来る「恵み」と、私たちの側から発する「信仰」、そして結果として「救い」。この三つはセットなんですよというものです。
 救いは、神が提示された恵みに対し、人が受け取るという形で実現するのだということです。

 そしてさらに、次の説明が加わります。
「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」

 賜物とは、神から一方的に与えられた良いもの、という意味です。

 ここでやんわりと、次のように注意しているわけです。それはあなたがたから出たことではないのですよ・・と。
 それはただ恵みとして、ありがとうございますと言って、受け取るしかないものなのですよと。

 神を本当に神とするというのは、肉の性質を持った私たちが最も苦手とすることなんですね。
 でも、聖書に書かれている恵みを、私たちが本当に理解するために、最低限に必要なことが、このことなんです。

 主は言われます。

"地の果てのすべての者よ。
 わたしを仰ぎ見て救われよ。
 わたしが神だ。
 ほかにはいない。"
  イザヤ書 45章22節

 そしてもうひとつ、パウロの言葉をここにご紹介します。

" すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。
 この神に、栄光がとこしえにありますように。
 アーメン。"
  (ローマ人への手紙 11章36節)

 神を本当に神と認めること・・。これって、結構な難関なんですね。


 祈り・・「主よ、あなたを本当の神だと認めるとは、どういうことなのか、私にもわかるようにしてください。」

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
  
 
2020.03.10.Tue 12:38 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #81

【私たちの役割 その2】エペソ2:7

"それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。"
 エペソ人への手紙 2章7節

 前回はいきなり終末の話に突入いたしました。それで戸惑っている方々もおられるのではないか思いまして、これを書きました。

 この節のキーワードは「世々に示すため」です。

 私たちクリスチャンは、この罪深い世から「あがない出された者」です。
 クリスチャンは、たとえ迫害や困難や希望のないところに立っていたとしても、ある意味では、もうすでに天に引き上げられているという「状況を超えた」存在なんですね。
 それはすなわち、この世とは混ざってしまうことのない、いわば塩味の効いた存在です。
 クリスチャンと教会は、この世にあってはそのような存在、別の言い方では、暗闇の中の光であるわけです。

 あなた方は世の光です、とイエス様は言われました。また、明かりを灯すなら、それを隠すようなところではなく、家全体を照らすために「燭台の上に」置くでしょう。そうすれば家にいるすべての人を照らします・・と言われました。(マタイ5:13-16)
 明かりはあなた。そして燭台は教会です。(黙示録2:20参照)

 今世界はまさに、その本質であるところの「暗闇」を露呈し始めています。私たちはそんな世界の中で、光として生まれ生まれかわった者なんですね。
 ならば当然のこと、それを人々が見えるようにすることは、私たちの当然の義務であるわけです。
 光は隠すためではなく、照らすためにあるのです。

 妻の前で、夫の前で、家族の中で、職場で、学校で、近所付き合いで、いろいろなグループで・・、その場所は必ずしも明るくはないかもしれません。しかし光は、光りさえすれば、どんな暗闇の中でも圧倒的に光なんですね。

 でも、ひとつ注意事項があります。

 それは、光を放とうとするあまり、自分で一生懸命輝こうとしてしまい、結局はそのことに疲れてしまう・・。
 これ・・私たちが陥りやすいところなんですね。

 光源はまことの光なる主イエス・キリストなんです。自分で輝こうとする必要はないのです。
 ですからもし、その光を放つために努力することがあるとすれば、それは自分で輝こうとすることをやめることです。
 それは、灯りの上に覆いをかけているようなもので、逆効果なんですね。
 自分が光源なのではないのです。

 この大事なところを、結構忘れてしまうんですね。・・というより、そこには、主が本当にこの自分の内に輝いておられる存在だと、思っていない可能性があります。
 もうこれは、そのように信じて、あとは忘れてそこに立つしかないんですね。
 大体、その時に主が光を放ってくださっているんだぁ、なんて思っていたら、とても変になってしまうこと、請け合いですから。

 主は、本当に生きておられる「光なる神」で、信じる者の内に、決して離れず、共にいてくださる方なんですね。

 ですから私たちが立てば、そこは世を照らす灯台なんです。
「この限りなく豊かな恵み」を、世にはっきり示すのは、主ご自身なんですね。

 そしてそれができるのは、主から与えられているものが、全て「恵み」なのだと心得るからなんですね。
 これが実は「豊かな恵みを世に示す」ということなのです。


 次回はエペソ2:1-10から、「神の賜物」です。

 God Bless You !
 
 
2020.03.09.Mon 16:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #80

【私たちの役割】エペソ2:1-9より

"それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。"
 エペソ人への手紙 2章7節

 この限りなく豊かな恵み・・それは4〜6節に書かれていることで、この節の言わんとしていることは、それを来るべき世々に示すのが、主が私たちに与えられた役割だということです。
 そしてその目的は言うまでもなく、さらに多くの魂が主に立ち返るためです。

 しかし、次のエゼキエル書37章を見ると、今はもう「来るべき世々」とか言ってられない時代に入ってきたのではないか、という気がして来ます。

"神である主はこう言われる。
 見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。〜 "
 エゼキエル書 37章21~22節

 主なる神が、世界中に散っているイスラエルの民を集め、一つの国とするというのです。
 そして「一人の王」とは、このあとの24.25節から、「わたしのしもべダビデ」すなわち「ダビデの子」と言われるキリストであることがわかります。

 このことは、歴史の中ではまだ成就していません。

 預言者エゼキエルの時代の30年ほど後(BC520) に、イスラエルの民は捕囚から帰り、神殿が再建され、事実上ユダの国となり、さらに500年後にイエス様が地上に来られました。しかしその「王となるべき方」は十字架に付けられ、ユダはAD70年に、ローマによって完全に滅び、ユダヤ人は世界中に散らされてしまったんですね。

 ところがそれから時が経ち、1948年に世界中からユダヤ人が帰ってきて、イスラエルという国が忽然と現れます。
 でも現在はまだ、そこにキリストが王として立っているという状態にはなってはいないわけです。
 黙示録によれば、キリストが王として立たれるのは、大艱難時代の最後に再び来られた後の「千年王国」においてです。
 その千年王国の前段階の大艱難時代には、反キリスト(荒らす憎むべき者)によって、神殿が蹂躙されるということが起こるとされています。
 しかし現在、その神殿の場所にはイスラムのモスク(あの金色のドーム)があって、蹂躙されるはずの神殿がまだないのです。
 当のユダヤ人たちはそこに入ることができず、神殿の城壁の外「嘆きの壁」で祈り続けているという状態です。
 ところがそのユダヤ人たちは今、神殿再建に向けて着々と準備をすすめているんですね。
 あの金のドームがイスラエルの神殿に替わるようなことがあれば、それは紛れもなく「秒読み開始」の時となります。

 これらのことを並べて見ますと、今は、このエゼキエルや他の預言者、またイエス様ご自身が「終わりの時」について語っていることが、とてもリアルに感じる時代になってきていることがわかります。
 今はもう「来るべき世々」という言葉が似合わなくなってきている・・そんな風に感じるのは私だけでしょうか。
 
 私たちは、この終わりの時にあっても、いや、あってこそ、「この限りなく豊かな恵み」を世に示すことに力を尽くして、主に仕えたいものです。


 次回は、もう一度、この箇所の補足です。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

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2020.03.07.Sat 14:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #79

【天上にすわる】エペソ2:1-9より

"神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。"
 エペソ人への手紙 2章6節

 これらのことは、過去形で書かれていますが、クリスチャンが、キリストにあってよみがえったり、その後に天上に座するというのは、携挙(けいきょ/後述) という出来事以前にはあり得ないことです。
 ですからこれらは明らかに、未来のこと「これから起きること」で、将来的な確定事項を過去形で表して、それが揺るがない約束であることを表現しているように思えます。

 イエス様がこう言われているところがあります。

"人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。 
 すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。"
 マタイの福音書 24章31節

 イエス様は再び来られるんですね。それを「再臨」と呼んでいます。
 
 私たちは再臨という言葉を漠然と使っているかもしれませんが、聖書を読んで行きますと、キリストが再び来られる時というのには「携挙」と「地上再臨」の二つがあることがわかります。

 携挙とは「上に引き上げられる」ことで、キリストが地上に来られるのではなく、キリストにある者が「空中」に引き上げられるというのです。
 その時のキリストの御姿は、イエス様が天に上られた時と「同じ有様」で来られる、と使徒行伝1:11 に書いてあります。

 これに対し、地上再臨は「王の王、主の主」として、燃える火のような目を持ち、白い馬に乗られ、天の軍勢を率いて、「全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれる」(黙示録19章) ために来られるという、初臨のキリストとは打って変わった御姿で来られるものです。

 携挙の様子が具体的に書かれているところがあります。

" 〜 号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。
 そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。
 こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。"
 テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節

 この携挙がどの時点なのかについては、意見が分かれるところなのですが、ヨハネの黙示録の7章9節には「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」とあります。
 この群衆は、明らかに御使いではなく、キリストによってあがなわれた者たちです。その無数の大群衆がすでに天にいるという場面です。
 しかし、今の時点でそのような存在が天にあるというような記述は、聖書のどこにもありません。
 そしてこの天の大群衆の光景は、黙示録で子羊が7つ目の封印を解くより以前のこと、として記されています。
 ですから携挙は、少なくとも大艱難時代の初頭かそれ以前ということになります。
 
 どちらにしても、この携挙という出来事を通して、「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださる」ということは実現するんですね。

 今日の箇所は、そのことが約束されているんですよということを、この手紙を見る者たちに思い起こさせているわけです。

 次回は2章7節から「限りなく豊かな恵み」です。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

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2020.03.06.Fri 11:06 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #78

【恵みによる】エペソ2:1-9より

"しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。
 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"
 エペソ人への手紙 2章4~5節

 3節には、すべての人は「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であるとあり、それは神の御怒りだと書きました。

 え? 神は愛なんでしょ? 自分たちの上に神の怒りがとどまっているというわけ? そんな神、俺は信じないよという話。時々聞きます。

 そのことは、これまでにず〜っと言ってきたことですが、それは順番が違うんです。

 すべての人は、神にとっては、怒りの対象でしかないような者なんです。そんな私たちをそこから救い出すために、神ご自身の側から、その道を開いてくださったんです。
 それは、怒りの対象である私たちを、神は断腸の思いで愛してくださっていることのゆえ、なんですね。
 放蕩息子の話が一番わかりやすいように思います。私たちはもともと「その家の子」だったんですね。

 神の怒りは、帰ってくるべき子に対する怒りなんです。
 その子のいのちの救いのために、ご自身のいのちをささげてくださったんですから、これ以上の愛はないわけです。
 ですから、その息子が一旦家に帰ると決めたら、父は帰ってくる子を走って行って抱きしめ、無条件で受け入れてくださるんです。

 私たちは神の怒りの対象であると同時に、愛の対象なんですね。

 その神を、この エペソ2:4 では「あわれみ豊かな神」と表現しているわけです。
 そして、その神が何をしてくださったのかというと、「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった」のだと言っています。

 そうです。「キリストとともに」という方法で生かしてくださったというのです。
 私たちは、キリストを救い主として自分の内に迎えることで、新しい者に変えられるのです。

 このあまりにも私たちに良すぎる計らい。それが「恵み」という短い言葉で言い表わされています。


 しかし神は、そのために筋を通さなければなりませんでした。
 赦されるはずのない者の罪をうやむやにすることは、神にはあり得ないことなんですね。
 そこで神は、人々の目の前に「これを見よ」と言って、私たちの身代わりとして十字架にかけられた御子イエス・キリストを掲げて見せたのです。
 これがわたしの赦しのしるしなのだと、人々に、そしてそれが全世界に提示されたのです。

 キリストは、あなたの罪を負って死なれ、そして三日ののちによみがえられました。
 そのイエス・キリストご自身が、信じるあなたの内に救いとして、古い自分の死と、新しいいのちとなって生きてくださるのです。

 そうです。死といのちをいただくのです。いのちだけいただくわけにはいかないんですね。まず「死」をいただいて初めて、いのちをいただくにふさわしい者となるのです。
 実際には両方同時に・・ですが。

 ここでもう一度、今日のみことばを味わってみましょう。

"しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。
 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"


 次回は、「天上にすわる」です。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.05.Thu 09:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #77

【生まれながら御怒りを受けるべき子】
 エペソ2:1-9より

"私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。"
 エペソ人への手紙 2章3節

 罪人の行動パターンは、サタンの支配下にあることに全く気付かず、この世の流れに従って「生き残り競争」の中を歩んでいるのだということを、前回は見てきました。

 そしてこの3節では、もう一つの行動パターンとして「肉の欲のままに生きる」というのが出てきます。
 そしてその罪人は「生まれながら御怒りを受けるべき子」だというのです。

 肉の欲のとはなんでしょう。ガラテヤ人への手紙5章19-21節には、こう書いてあります。

"肉のわざは明らかです。
 すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。"

 淫らな行い、汚れ、好色・・これらが肉の欲だというのは、なんとなくわかります。
 二つ飛ばして、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ・・これらもみな「自己保身」から来るもので、肉の性質であることはなんとなくわかります。
 最後の二つの泥酔、遊興・・これは、神どころか、現実の全てからの逃避ですから、神とは真逆の方向すなわち、肉の欲に向いている有様そのものです。

 そして、偶像礼拝、魔術・・
 偶像礼拝とは、神以外のものを礼拝するということです。これが「肉の欲」だというのです。
 まことの神から離れ、自分の考えで歩もうとする罪人・・それは結局虚偽の神を拝むようになるんですね。
 その礼拝対象は、天地万物を造られた神ではない「偶像の神」などをはじめとし、もっと身近に頼れるもの、例えば人間だったりお金とかに至るまで、実に様々です。
 私のミュージシャン仲間で、「オレの神はジャズだ」と豪語している人がいましたが、これも偶像礼拝であるわけです。
 そしてこのような、神以外のものを拝もうとするのが罪人の基本であり、神に背を向ける行為の代表なんですね。

 そしてその礼拝対象が悪魔である「魔術」は、明確に神に敵対し、自ら暗闇に突き進むという、罪人の肉の欲の最たるものと言えます。
 
 そして、ここからが肝心なところですが、そのような者、すなわち罪人は、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だというのです。
 誰の怒りかって、もちろん神の御怒りです。

 え? 神は愛なんでしょ? 生まれながらの自分たちの上に神の怒りがとどまっているというわけ? そんな神、僕は信じないよという話。よく聞きます。

 そのことが、次の4-5節に出てきます。
 次回は「恵みによる」です。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.04.Wed 12:10 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #76

【空中の権威を持つ支配者】エペソ2:1-9より

"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
 エペソ人への手紙 2章2節

 前回は「罪の中にあってこの世の流れに従い」というところだけを見ました。

 今回は2節の後半、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」を見ていきます。
 
 先ず、「不従順の子ら」・・それは何に対して不従順かというと、「父なる神」にです。
 要するに「罪人」のことで、神に目を向けない人たちのことです。

 そして、その人々の上には「ある霊」が働いているのだと言っているわけです。
 それが「空中の権威を持つ支配者」で、その支配者の霊に「不従順の子ら」は、従っているというのです。

 空中の権威を持つ支配者なら、それは神だと思われるかもしれませんが、それは不従順の子らを支配する「サタン」のことなんですね。

「サタン」と言われても、人々の受け止め方は漠然としたもので、どちらかというとおとぎ話の登場人物くらいにしか思えないかもしれません。
 しかし聖書は最初から「サタン」という存在を認めているんですね。エバを誘惑した「蛇」がサタンです。
 ヨブ記には神のところに行って願い事をするサタンが登場しますし、イエス様が荒野で断食している時も、サタンはイエス様に語りかけて誘惑したのです。

 サタンは、神にもイエス様のところにも平気で近づくんですね。そして神はそれを許しておられる。そして「不従順の子ら」を支配するという状況さえ許しておられるんですね。

 サタンは「終わりの時」の後に約束されている千年王国の時代にも、閉じ込められているだけです。その千年王国の最後から新天新地に移行する段になって、やっと「火と硫黄の池」に投げ込まれるのだそうです。(黙示録20章) なぜかサタンは、この世の最後の最後の時まで存在が許されているんですね。

 聖書が正しいなら、サタンは実在するのです。

 罪と滅びの中にある者に、それでいいんだよとささやく存在。それがサタンなんですね。
 そして罪人は、何の疑いもなく「生き残り競争」のこの世の構造にがっちり組み込まれて、神などという存在はあり得ないという確信の中を歩んでいるわけです。

 これが、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいる人」の姿なんですね。


 次回は「御怒りを受けるべき子」です。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.03.03.Tue 15:02 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
新型コロナウイルス感染症防止対策のため、
大野雄二トリオ/3月5日(木)鎌倉ダフネ公演は中止となりました。
お問い合わせは、鎌倉ダフネ (0467-24-5169)へお願い致します。

次回の鎌倉ダフネ/大野雄二トリオは
5月1日(金)です。
2020.03.02.Mon 20:30 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #75

【この世の流れ】エペソ2:1-9より

"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
 エペソ人への手紙 2章2節

 この2節では、「自分の背きと罪の中に死んでいた者」について、さらに具体的な説明をしています。

 人々はそれらの罪の中にあって・・と書かれていますが、それは一言で言ってしまえば「神不在で」ということです。
 ですから、神不在でこの世の流れに従っている、という意味になります。

 神不在ですから、自分の道は自分で切り開き、自力で戦い、そのために備えをし、滅びることがないために、あらゆる知恵と力を尽くして生き残りを図る、ということになります。

 それが実は「この世の流れ」なんですね。
 それは、会社とか国を見れば、わかりやすいです。利権の確保を目指し、国でさえ生き残るためなら何でもする、というところがあるからです。
 
 これは、今世界で起こっていることの、ほんの一例ですが、
 例えば、世界中のすべての内戦には、それを後ろから支えている者たちが必ず背後にいます。内戦で戦う民は、ほとんど武器を持つ力などないところばかりですが、そこに武器を提供して戦わせ、勝てば恩を着せ、そこに自分たちの資本を投入して、経済的な支配者となるという構図があります。
 今世界中のあちこちでそのようなことが起こっています。それをやっているのはもちろん「大国」です。それは「正義」とは程遠い、一般人でしたら死刑に当たるようなことばかりです。

 また、神を全く認めていない一党独裁国家は、生きている人の臓器を奪取して、いつでも提供できるシステムを作り上げて、どんな臓器も二週間ほどで調達できる世界一の臓器提供国家になっています。
 またあらゆる知的財産や機密情報を盗み取ることで、とうとうAI技術で世界最高峰に上り詰めました。
 また巨額の融資をして、その国を借金漬けにして、実質的にその土地にある利権を奪ってしまうということを、あちこちでしています。
 また強引なやり方で各国の指導者層を抱き込み、逆らえないようにして支配権を行使するというようなことも、何の疑いもなく行われているようです。

 神を知っていながら無視して・・、あるいは全く神を全く認めないで、神の目から見たら、とんでもなく悪辣なことをして、生き残りを競争をしている・・。
 そして弱者は、神不在の絶望の中で、強い者の支配下で生きるしかないという世界です。

 これが「世の流れ」なんですね。実に罪に満ちた世界です。

「罪の中にあって、この世の流れに従う」とは、そういうことなんですね。

 そしてさらに気になる言葉が付け加えられています。
 それが「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って」という言葉です。

 この2節も、二回に分けたいと思います。

 次回は「空中の権威を持つ支配者」です。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.03.02.Mon 15:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #74

【罪と死】エペソ2:1 後半

"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、"
 エペソ人への手紙 2章1節

 1節の後半「罪の中に死んでいた者」についてです。
 
 人は罪を犯したから罪人(つみびと)なのではなく、神から独立して歩もうとする高慢から、罪を犯す人になったのだと、前回書きました。

 神から独立して生きようとする者は、自己防衛が必要です。自分で自分の身を守るという姿勢です。
 近頃当然のことのように使われている「〜ファースト」という言葉がありますが、罪人の基本スタンスは自分ファースト、すなわち自己中心です。

 ここから派生してくるのが、心の罪であり、実際に犯す罪なんですね。

 アダムの最初の子カインは、アベルを妬みのために殺します。早速殺人が始まるのです。
 また、神が洪水を通して、ノアとその家族だけを救うことにしたのは、「地に暴虐が満ちていた」からだと書いてあります。

 私たちは、その罪のために「死んでいた者」であったと言うんですね。
 罪のために死んでいると言われると、なんとなくは、わかる気はします。
 生きるというのと、罪の中にいるというのとは、どうしたって相容れない感じがしますよね。

 パウロはこう言っています。

"あなたがたは知らないのですか。
 あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。
 つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。"
 ローマ人への手紙 6章16節

 ここでパウロは、罪人は罪の奴隷なのだと言っています。
 それは、罪につかまって、従わざるを得なくなるということです。
 私たちは自分が言ったこと、やったことの刈り取りをすることになるんですね。刈り取りとは、その結果に実ったものを自分のものとして受け取ることになる、という意味です。
 思うだけでも、実際に犯す罪にしても、その結果として、人は何かを背負わなければならなくなるのです。

 完全犯罪・・という言葉があります。誰にもその犯行を見抜かれないように、あらゆる場合を想定して、自分が疑われないように、知恵を絞ってあらゆる手を尽くす。
 その人はまさしく、その罪の奴隷であり、罪に仕えるためだけに全てをささげて生きているという、死んだも同然の存在になってしまっているわけです。

「罪の報酬は死」なんですね。(ローマ6:23)
 罪の支配下で、自由に生きることはできないんです。

 パウロは、同胞に向かって、あなたがたは、以前はそういう人だったことを忘れないようにしましょうね。そして、それが過去のものとなったことを、しっかり心に刻みましょうね、と言っているわけです。

 クリスチャンとは、自分の背きや罪の奴隷から解放されて、全然変わっちゃった人なんですね。

 次回は、エペソ人への手紙 2章2節
"かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。"
 というところを見ていきます。


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.29.Sat 06:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)

G-Cafe 聖書のことば #73

【背きと死】エペソ2:1-9より

"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、"
 エペソ人への手紙 2章1節

 エペソ2:1-10 のみことばを、今日からゆっくり見ていきたいと思います。

 2章1節。「あなたがたは 〜ていた者」という言い方をしています。
 信仰を持った人々に対して「以前の自分」がどういう者であったかを思い起こさせているわけです。
 ということは、今はそれとは全く違う、新しい人になったんですよね、という意味でもあります。

 でも「自分の背きと罪の中に死んでいた者」と言われても、背きとか、罪とか、死について、はっきりした認識を持っていないと、そのまま聞き流してしまいます。

 背きとは、言うまでもなく、父なる神に対する背きです。
 それは、父に対して背を向けること。向き合おうとしないことです。
 しかしながら私たちは、意識的に神を無視してきたというよりも、むしろ当たり前のようにして無視してきたような気がします。

 これがエデンの園から追放されたアダム以来の、人の姿なんですね。
 エデンの園は、人が神と共にいて、神の祝福と守りの中で、永遠のいのちをもって過ごすはずのところでした。
 ところがアダムは、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木の実」を食べてしまったというのです。
 善悪というものは、神しか管理できないものだから、そこに手を触れてはいけないよ、と神は警告されていたのです。ところがアダムはそれを無視してしまったんですね。

 要するに人というものは、神と共にあって初めて、正しく歩むことができるように作られたのに、アダムはその神から「独立」しようとしたということです。
 そしてその一歩を踏み出してしまった・・それが「善悪の知識の木の実を食べた」ということになるわけです。
 それでアダムは、同罪のエバと共に園を追放されることになるんですが、この時から人は「死ぬ者」となったと書いてあります。(創世記3:22)

 アダム以来の「人」というものは、神から独立して歩もうとする者。
 すべての人がそのような基本的な性質をもって、生まれ、そして育ち、その生涯を死に向かって、汗水流して生きる・・。
 人類の歴史は、「そういう人」の歴史なのだというのです。

 そしてそこに神が介入されてきた様子を、聖書は記しているんですね。
 エデンの園から追放したからと言って、神は人を見捨ててしまったわけではなく、ここに大きな神の計画があったというわけです。

 それはともかく、これが「人」の基本的な姿なんですね。これを聖書では「罪人(つみびと)」と呼んでいます。

 私たちは罪を犯します。だから私たちは罪人と言われても仕方がないのですが、それだから罪人だというのではないんですね。
 罪人とは、神を脇に置いて、神を無視して歩もうとする者のことを言うのです。
 罪を犯したから罪びとになったのではなくて、神から独立しようという高慢の結果、罪を犯すんですね。
 そして、ここではそれを「罪の中に死んだ者」と言っているわけです。

 後半はその「罪の中に死んでいた者」について考えてみたいと思います。

 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !

 
2020.02.28.Fri 11:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #72

【エペソ2章1〜9節】

 少し長いですが、このエペソ人への手紙 2章1〜9節を、お読みください。

 ここには、人とはどういう者で、どういうことをしていた者で、神との関係はどうで、神はどういう方で、私たちに何をしてくださったか、その目的は何か、私たちが最終的に行くところはどこか、どうすることによって、そうなるのか、何のためにそうなったのか・・、
 それらのことがまとめて書かれています。

 これからしばらくは、その御言葉をひとつひとつ、じっくり見ていきたいと思います。

 先ずはその全部をお読みください。
 今回はそれだけで終わります。

"さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、
 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、
 空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、
 ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。  
 あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。
 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。
 それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
 行いによるのではありません。
 だれも誇ることのないためです。"
 エペソ人への手紙 2章1~9節


 主が聖霊を豊かに注いで、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.27.Thu 03:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #71

【聞いてもわからない】

"あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。
 見るには見るが、決して知ることはない。
 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。"
 使徒の働き 28章26~27節

 今回のこの聖書の箇所は、話を信じようとしないユダヤ人たちに向かって、パウロが言った言葉です。
 それはイザヤ書(6:9-10)に書かれていることを、そのまま彼らにぶつけたものでした。
 このイザヤ書は、パウロの時代から遡ること700年、すでにこの時イスラエルの民がいかに神のことばに対してかたくなであるかを指摘しています。

 しかし同時に、イスラエルの民であるユダヤ人たちにとって、自分たちが神に選ばれた民であるこという自負は、揺るがないものでした。
 実際、神はイスラエルを特別に取り扱ってこられました。そんなユダヤ人にとって、イエスが本当にキリスト (イスラエルの歴史の中で預言されてきた「来たるべきお方」) であるかどうかは、命をかけるほどの重大事だったわけです。
 来たるべきお方が、その当時の世の中に登場したというのですから、にわかには信じがたい話であるのはわかります。

 そこでパウロは、聖書に書いてあることと、イエス様のすべてのことを照らし合わせ、それは一致しているのだということを示し、イエスこそが本当にそのメシヤであるのだと話したわけです。
 ですから、そのことが一番はっきりわかるのは、聖書に精通したユダヤ人であるはずなのです。ですが彼らは、その上でパウロの言うことを拒んだのです。
 彼らはパウロのことばを聞いても、それがわからなかったのです。


 話は飛びますが、今の世においても、福音を聞いて、ある人たちはそれを受け入れますが、ある人たちは受け入れません。
 それはどういうことなんだろうと考える時、「あるものを捨てなければならないことを直感するから」・・なのかなぁという考えに思い至ります。
 それは「今までの自分」です。

 イエスを自分の救い主として受け入れるということは、自分の生活を「自己中心から神中心へ」と切り替えることです。
 それって、言ってみれば、今まで自分が立っていた土台がなくなってしまうということです。
 自分には助けが必要だとわかる人であれば、自分を切り替えることは、進んでできるかもしれません。しかし今のままの自分に何の問題も感じない人は、今の自分が揺らぐようなことは、決してしないんですね。

 神という存在を認めること。それは自分の土台を崩してしまうことなんですね。
 福音の大前提は、この神がおられるということです。
 ですから、私は神を信じることにしようという決心は、一大決心であるわけです。

 神からのメッセージは、神を認める者の耳に、初めて聞こえてくるのです。

 あなたを愛し、あなたの帰りを待つ、父なる神がおられる・・。
 これも神を信じる者でなければ、意味のない言葉なんですね。

 神を信じる・・ここが「真理」の要なのです。

 祈り・・「神さま、もしあなたが本当の神なら、信じてみようと、思えるようにしてください。」

 God Bless You !
 
 
2020.02.26.Wed 16:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #70

【愛する】

"愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。
 神は愛だからです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章7~8節

 愛する人というのは、神から生まれて、神を知っている人だということを、ヨハネは強調しています。
 さらに、「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」と言っています。
 神を知っている、神を信じていると思っていても、そこに愛がないなら、クリスチャンとしては失格ですと言われているようです。
 しかし、自分の中に愛がないことを感じているクリスチャンも、少なからずおられるのではないでしょうか。

 クリスチャンは、イエス・キリストを内にお迎えして、キリストにあって死に、キリストにあって新しいいのちに生きるようになった者です。
 ですがクリスチャンは、その時から突然神のようになるわけではないんですね。
 新しく生まれたクリスチャンは神の取り扱いの中で「変えられて行く」んですね。(第二コリント3:18 参照)

 だから安心してください。自分がどうあろうと、大船に乗ったつもりで、自分を主に預けることに専念すれば良いのです。
 そして主との交わりが深まることによって、主ご自身を内にいただいていることが喜びとなり、力となり、愛が形になって出てくるようになるわけです。

 イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。
 (ヨハネの福音書 13章34節)

 ならば、主がどのようにして愛してくださったのかを知らなければ、愛するということが何のことだかよくわからなくても、仕方がありません。
 だったら、主の愛がどのようなものなのかを知ることを求めなさいということです。
 
"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。"
 ヨハネの手紙 第一 4章10節

 この愛がわかるようにしてくださいと、祈り求めましょう。 
 主にすべてを預け、「主よ。私に、あなたの愛がわかるようにしてください。」と。

 人の愛を求めても、そこには限りがあります。人は弱い者ですし、その愛も変わっていってしまうこともあります。

 愛されることの中にではなく・・

 愛することの中に、本当の満たし、豊かさがあるんですね。
 愛することの中に、自分の癒しがあるんですね。
 愛することの中に、力があるんですね。
 そして、愛することの中にすべての解決があるんですね。

 自分の内に愛がないことに気付くなら、それは大きなプレゼントなのです。
 なぜならその人は、自分を主にゆだねるしかないことを知るからです。
 
 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.25.Tue 12:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #69

【天の御国】

"ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。
 その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。"
 マタイの福音書 18章23節

 今日の箇所は、全財産と家族、あらゆるものを差し出しても返せないほどの、とてつもない額の借金の清算を迫られた人の話。その冒頭の部分です。

 清算を迫られた時に、その男はとても返せなかったので、平伏して「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言います。
 その様子を見て、金を貸した主君は、かわいそうに思って彼を赦し、その負債を免除したというのです。
 そうです。借金が帳消しになったのです。
 普通ではあり得ない、哀れみを伴った赦しを、この男はいただいたという話です。

 ところが彼は、100デナリの金を貸していた男に出会い、「借金を返せ!」と迫るのです。1デナリは1日分の労賃です。ですから100日分の労賃ということになるわけで、結構な額の借金です。それを返せ!と迫るわけですが、それは無理な話でした。それで彼は「もう少し待ってください。そうすればお返しします。」と言う男を、怒って牢に放り込んだというのです。
 100万円貸しているのに返さない人。腹が立ちませんか?
 この男は怒って、彼を牢に放り込んだんですね。分からないでもない話です。

 ところがこの男は1万タラントの借金を免除してもらっているんですね。1タラントは1デナリの6000倍です。1デナリが仮に1万円だとすると、1万タラントは間違っていなければ6兆円になります。
 すなわち、返し得ない借金だということです。
 
 とても返せない負債を負っていたのを、なんとこの男は、免除してもらっていたんですね。
 ところが100万円を自分から借りているのに返せない人を、この男は許すことが出来なかった・・。

 私たちが罪を赦されるために、支払われた額は、神ご自身が人の子という姿で御子を遣わし、十字架にかけるというものでした。それが6兆円に例えられているんです。
 ところが日常の生活の中に立ったとき、「許されるべきではない人」に向き合うことがあります。その時に迷わず「許さない人」になってしまう・・。そのことの例えであるわけです。

 要は、神に対する自分の借金が、本当に6兆円だと思っているのか、さらにそれが帳消しにされたと、本当に思っているのか・・。それが問われる話なんですね。

 主君の最後の言葉はこうです・・。

"私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』" 33節

 私たちにはもともと、そのようなあわれみの心はないんですね。でも自分があわれみを受けた「額」を知れば、あなたはあわれみをもって人に接する者となるんですよ、と言っているわけです。
 
 許せない人がいますか? それは、あなたが主の赦しの額が分かっていないことの印なんですね。
 ですが、主はそんな私たちをもあわれんでくださるお方です。
 ですから、次のように祈りましょう。

「主よ、私が赦されるのに、どれほどの大きな犠牲が払われたのか、私がそれほどの罪びとであること、それがはっきり分かるようにしてください。」

 私たちをあわれみ深い者としてくださるのは、主ご自身なんですね。

 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 God Bless You !
 
 
2020.02.24.Mon 17:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #68

【人を量り見る】

 私が初めて聖書を読み始めた時、最初に立ち止まって、そこから目が離せなくなってしまったことば。それが今日のみことばです。イエス様は言われました。

"さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。"
 マタイの福音書 7章1~3節

 さばくとは、ある秤(はかり)で人を計り、その数値に従ってその人を評価する、すなわちその人の存在価値を、自分が決めるという行為です。

 秤にはいろいろなものがあります。学歴とか家柄とか、また感性などもそのひとつかもしれません。自分と合わない人は存在価値がない。この世にいることの意味さえも認められない・・。
 私はこのみことばに出会った時に、そんな感覚が自分の中にあることがはっきりわかったんですね。

「自分が量(はか)るその秤で量り与えられる」とあります。
 秤が厳格な人は、人からも厳格な評価を受けるということです。
 でも私たちの実態は、そんな評価を受けたらひとたまりもない、欠けだらけの人間なのではないでしょうか。

 目の中にちりとかホコリがあれば、なかなか景色も見えにくいものです。まっすぐに物事が見えないんです。
 そんなことは、自分だっていくらでもあります。
 なのにあなたは、そういう人の様子を見て、秤の材料にしているでしょう・・という指摘です。
 それを秤に使っていながら、なんとも思わないでいるあなた。そのあなたの目。それは、何も見えていない「梁の入った目」だというのです。

 梁(はり)とは、家の柱の上に横に渡し、屋根を支えるための太い材木です。そんなものが目の中に入っているんだったら、正しい秤ではかるとかいうことよりも、まずその太い梁を外しなさいという話です。
 片っ端から人をさばき、評価をして、一体あなたはどこに座っているんですか、と問いかけられているのです。
 
 そのことを私は、がつ〜んと言われたんですね。
 私は、この言葉に逆らえる何ものも持ち合わせていませんでした。ですから、「はい、その通りです」と、素直に思いました。

 イエス様は「まずその梁を取り除きなさい」と言われました。でもみなさん。その梁・・取り除けますか。
 イエス様はいろいろなところで、私たちにはでき得ないことを「しなさい」と言われています。
 どうすればいいんでしょうか。そこでイエス様が言われている答えがあるんですね。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
 (マタイ9:13)

 イエス様のもとに行って、その赦しといやしと、聖められる者としての歩みをいただくことができるのは「罪人」すなわち「自分が罪人だと認めた人」だというのです。

 今日の結論・・
 イエス様は、梁を取り除きなさいと言われているのですが、実はそれを取り除くことができるのは、イエス様ご自身なんですね。

 悪魔がやってくる所について書くつもりが、イエス様が来られるところの話になってしまいました。こっちの方が大事です。(笑)

 次回は「天の御国」です。

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 God Bless You !
 
 
2020.02.22.Sat 10:58 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #67

【成功を収めた時】

"あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。"
 申命記 8章17節

 私たちは成功した時、何かを成し遂げた時、何を思うでしょうか。
 もし人の内に、神という存在がなかったら、この成功は自分の努力の賜物だと思うでしょう。それが一般的な考え方です。

 しかし、今日のみことばは、富を手にした時、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」とは思うな、と警告しています。

 こんなみことばがあります。

"人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。"
 箴言 10章22節

 国が栄える時、それはその国民が勤勉だったからだと考える。また会社で昇進した時、それは自分の能力とか努力によって得たのだと思う。
 でも実際は、もっと違う要素が絡み合って、その国.その人は栄えたのだということが、後になって分かったりすることがありますよね。

 聖書は、祝福は神によるのだと、初めから終わりまで、口を酸っぱくして言っているのです。
 しかし聖書の中でも、残念なことに殆どの場合、祝福を手にすると心に奢(おご)りが入り、不遜になり、神の怒りをかって、その祝福が取り除かれてしまうというパターンが、ずっと繰り返されて来ているんですね。

 私たちは、どれだけ謙虚に生きようと思っても、心の奥の奥では、「おれなんだよ、これは。。。」と思っちゃうんですね。
 それを神は、ダメ・・と言われるんです。

 なぜかというと、そうやって神を忘れてしまうからです。
 努力が報われない人だっているんです。また、才能があるにもかかわらず、世に埋もれて死んでいく人もいるんです。
 人の成功の秘訣は、一にも二にも、努力しかないんだよ・・という考えは、間違っているということです。

 聖書は次のように言っています。

"あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。"
 箴言 3章6節

 簡単に奢りの方向に向いてしまう私たちの内に主がいてくださる。
 その主は、肉の性質を釘付けにした死と、今までの自分にはなかった新しいいのち、そのものであるお方なんですね。

 その名はイエス・キリスト。

 この主を見上げるときに、「あなたの道はまっすぐにされる」んですね。

 祈り・・
「主よ、私が成功した時、富を得た時、どうかあなたを忘れることがないように助けてください。
 その時には、返って、あなたの御名をほめたたえる者でいられますように。」

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!

 次回は、「計り見る」です。
 
 
2020.02.21.Fri 11:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #66

【神の武具 まとめ】

"悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。"
 エペソ人への手紙 6章11節

 今日のみことばは、7つの武具の前置きの部分で、このシリーズの最初に引用したみことばの一部です。

 ここでは、神のすべての武具を身につけなさい、と言っています。
 そうです。「すべての」です。
 ということは、ひとつひとつの武具は、どれも欠かせないものだということです。

 その目的は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」と言っています。
 悪魔の策略、それは、まことのいのちである主なる神のもとにいるあなたを、暗黒の世界に転落させようと、あらゆる手を尽くして張り巡らされた罠のことです。
 悪魔の手口は実に多岐に渡っていて、常に警戒しているということが、なかなか難しいんですね。

 悪魔がやってくる入り口の中には、とても分かりづらいものがあります。
 例えば成功を収めた時、知識があると思った時、悪を見た時、人の愚かさを見た時、人の成功を見た時など・・。
 分かりやすいものだと、各種の誘惑、失敗、絶望、怒り、高慢、批判、貧困、劣等感など・・、並べたらきりがありません。
 これらを並べれば分かるように、悪魔に足を救われる場面は、生活のあらゆる場面に、地雷のように埋め込まれているんですね。

 でも、神が示された7つの武具をしっかり備えれば、このようなすべての状況の中にあっても、足を救われることなく、しっかり乗り切ることができるというわけです。

 そんな地雷群の中で「堅く立つ」ことができたら、それはもうスーパーマンです。
 
 では、7つの武具のおさらいです。簡単な言葉で頭に叩き込みましょう。

1 真理の帯・・全能の神である主を信じていることを思い起こせ。

2 正義の胸当て・・神の御心がなんであるかを、常に知ろうとせよ。

3 平和の福音の備え・・福音についての明確な理解を、いつも求め続けよ。

4 信仰の盾・・ハッとしたら、いつでも主に目を向けられるように心備えをせよ。

5 救いのかぶと・・「恵み」によって救われた自分の身分を思い起こせ。

6 御霊の剣・・聖書を読め。

7 御霊による祈り・・どんな祈りも、共にいてくださる聖霊を覚えて祈れ。

 私自身、これらの武具について毎回書くごとに、新しい認識をいただいてきました。

 主の御名を心より賛美します。

 皆さんが、主にあって与えられる武具を備え、堅く立つ者とされますように・・、心より願っています。

 次回は「成功を収めた時」です。
 
 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.20.Thu 08:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #65

【神の武具 その7】祈り

"あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
 そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章18節

 神の武具の最後に登場するのは「祈り」です。大体において、一番最後に出てくるものは、一番重要なものなんですね。

 祈りが戦いのための武具になるというのは、なんとなくわかりますよね。でもここでは「どんな時にも御霊によって祈りなさい」と言っています。
 御霊によって祈るって、どういう祈りなんでしょうか。

 祈り始める時、共におられる御霊を覚えて祈ると、自分が思っていたこととは違うことを祈っているということが、よくあります。
 御霊によって導かれる祈りというものがあるんですね。
 それは、御霊の思いと波長を合わせて祈っていると言ってもいいかもしれません。演奏家が共にリズムを合わせて合奏する、といった感じですか。。

 そしてその祈りは、「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも」・・と言っています。
 ということは、祈るのだとしたら、それらはすべて「御霊によって祈る」というスタイルで祈りなさい・・ということになります。

 そうなるともう、一日中御霊の思い、すなわち主に寄り添って過ごすという話になってきます。
 でもこれこそが、私たちがさまざまな武具を、いつでもさっと取り出して的確に使えるために、欠かせない環境だというわけです。

 だとすると「御霊による祈り」は武具のひとつというより、あらゆる武具を、いつもさりげなく使えるようにするための土台だと言えるのかもしれません。


 そして今日のみことばの後半は、すべての聖徒のために祈りなさいという話になっています。聖徒とは、主と共に歩む同胞のことです。
 ですから、ここで言いたいことは、日常の「御霊による祈り」を、さらにあなたの身の回りの、戦いを共にしている人たちのためにも祈るというところまで広げなさい、ということになります。

 ですからパウロはこの流れで、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っているわけです。

 御霊によっていつも祈り、主の御思いの中にいつも自分を置く・・。
 これで、あなたはいつでも、さりげなく日常的に、神の武具を取り出して使う人になる、というわけです。

 これで、武具のシリーズは終わりですが、次回は今までに見てきた7つの武具を、もう一度まとめて目直してみたいと思います。

 祈り・・「主よ、御霊による祈りを教えてください。」

 主が聖霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.19.Wed 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #64

【神の武具 その6】御霊の剣

" 〜 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章17節

 神の武具の6番目は「御霊の剣である神のことば」です。

 剣(つるぎ) というのは、攻撃をして、とどめを刺すための武具です。
 私たちは、サタンの息の根を止めることはできませんが、その攻撃の力に対しては、とどめを刺すことができるんですね。

 イエス様ご自身も、聖書に書かれているみことばを用いて、サタンの攻撃を封じています。それは・・
 イエス様が四十日四十夜の断食をされ、空腹を覚えられたとき、なんとサタンがイエス様の前に現れて、誘惑の言葉をいくつも投げかけるんですね。 
 それらのすべての言葉に対してイエス様は、「〜と書いてある」と言われて、サタンを黙らせているのです。 (マタイの福音書4章)

 サタンの特技は「嘘」です。しかも巧妙です。うっかりそれに乗ってしまうこともあります。しかしみことばには、その巧妙な嘘や脅しを見分けて、一刀両断する力があるのです。

 この剣=神のことばとは、聖書の中のみことばのことなんですね。ですから先ずは聖書を読まなければ剣を受け取ることは期待できないわけです。
 でも、初めて読み始める人でも、聖書を読む時、突然ある箇所の意味がわかったりすることがあります。
 また何十回も聖書を読んでいる人でも、見慣れたみことばが突然迫ってくることがあるんですね。
 それは、私たちの目を開かせ、神のみこころを示し、みことばを通して語りかけてくださる聖霊の力です。 

「御霊の剣である神のことば」とは、そういう意味なんですね。

 ですから先ず聖書を読む、ということから始めましょう。
 日々聖書を読むという生活の中で、私たちは御霊を知り、さらに主との深い交わりへと導かれて行くのです。

 みことばという剣を使う人になりましょう!
 そのために、自分に与えられたみことばを暗唱するというのも、大きな力になります。
 ですが、あまり「務め」として自分に課してしまうと、返って重荷になったりしますので、「やりたくなったら」やりましょう。

 参考までに・・、ユダヤ人の子どもは詩篇をそっくり暗唱していたりするんですね。彼らのみことばへの思いは、私たちの想像をはるかに越えています。
 
 祈り・・「主よ、聖書を読む力を与えてください。」

 次回は、神の武具の7つ目。「祈り」です。

 主が御霊によって、あなたを祝福してくださいますように!
 
 
2020.02.18.Tue 10:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #63

【恵みの故の成長】

"この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。"
 コロサイ人への手紙 1章6節

 前回の、神の武具の5番目「救いのかぶと」の駄目押しです。

 価なしに義と認められる・・。これが「恵み」だという話をしました。

 今回も同じみことばです。
「神の恵み」を理解したときから、福音は広がって行った・・。そのことについて、もう少し考えてみたいと思います。

 福音における「恵み」とは、「神から何かをいただくには全く相応しくない者」が、とてつもない大きな宝をいただく、という意味での恵みです。

 その認識がないと、私たちが神のみもとに帰る対価として、なぜ十字架という犠牲をもってのあがないを「自分が」ではなく「キリストが」支払わなければならなかったのか、というところには到達しないんですね。
 キリストの十字架は、支払うことのできない私たちのために、支払うべき対価を、神が支払われたことのしるしなんです。

 その理解の上で、イエス・キリストを救い主として自分の内に迎えれば、キリストの十字架の死と、復活のいのちをいただいて、その人は新しく生まれ変わるのです。 (コロサイ 3:9-10参照)

 これが「福音の実」です。

 そして、その実は成長し、世界中に広まって行くというのです。

 ところで、何度も何度も書いてきましたが、私たちは平穏無事に生活できている時には、「恵み」とかいう話は決して受け入れられないものです。ましてや、この世において成功をおさめている人にとっては、全く閉ざされた発想です。

 私たちは、本当にどうすることもできない事態、貧困、病の中、絶望の中に置かれたときに初めて、自分の思いをはるかに超えた全能者の御力によって生かされている、ということに思いが至るんですね。

 イエス様は言われました。

"「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」"
 マルコの福音書 2章17節

 自らを正しいと思っている人(丈夫な人) は、救い(医者)など不要だと思うわけです。必要だと思うのは病人、すなわち罪びとです。
 イエス様は、罪人を招くために来たと言われました。それは、自らを罪人だと思う人のために来られたということです。
 でも招きの対象は、本当は「すべての人」です。問題は、人が自らのことを罪人(病人)、すなわち滅びゆく者だと思っていないところにあるんですね。

 自らを罪人と知ること。それは実は奇跡に近い出来事です。
 それは、神に背を向けているあなたに寄り添う、聖霊の働きによってもたらされるものです。

 自分が罪人だという思いに至ったら、それは、主の奇跡が始まったしるしなんですね。

 罪が、恵みが、はっきりしないという時には、次のように祈りましょう。

「主よ、私が罪人であることがはっきりとわかるようにしてください。」

 次回は神の武具の6つ目。「御霊の剣」です。

 God Bless You !

 
2020.02.17.Mon 11:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #62

【神の武具 その5】救いのかぶと

"救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章17節

 神の武具の5番目、救いのかぶと。

 かぶとは頭を守るものです。頭はいろいろなことを考えるところです。かぶとはそれを守る防具です。
「救いのかぶと」ということは、救われていることの確信が、かぶとの役割を果たして、頭すなわち思考を守るということになるわけです。

 私たちは、救いについて理解したつもりでいても、微妙に違う考えが入りこんでくるということがあります。教会の中にもそういうことがあって、その結果、信仰の土台が揺るがされるということが、歴史の中でも常に起こっていたようです。
 パウロや使徒たちの書簡にも、一番大事なところを骨抜きにする違う考え、すなわち「異端」の教えとの戦いが記録されています。

 救いの理解とは、福音の理解と言っても良いと思います。

"この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。"
 コロサイ人への手紙 1章6節

 このパウロの言葉によると、福音が広がるかどうかは「神の恵み」の理解にかかっていて、それが本当に分かると「実を結び成長」するのだというのです。しかもそれが世界中で起こっているのだと言っています。

 恵みというのは、無償で与えられるという意味です。
 神の「恵みによる」救いについて、パウロは次のように述べています。

"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
 ローマ人への手紙 3章23~24節

 義と認められるというのは、神の家の子として認められるということです。

 それが「価なしに」というのです。それはその人が、神に迎えられるにふさわしい能力や行いが伴っているかどうかということは、問われないということです。

 では、誰もかれもが神の家に迎えられるのかというと、そうではなくて「キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して」だというのです。

 あがないとは、あなたの身代わりになって身代金(みのしろきん)を払うという意味で、それは紛れもなく、私たちの罪のために十字架で死ぬという、イエス・キリストによる「なだめの供え物」のことです。

 そのあがないを通して・・と書いてありますが、どうなれば「通して」ということになるのかと言えば、そのあがないを自分のためのものだと認める(信じる)ことによって・・です。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とある通り、アダム以来、その性質を受け継いでいる私たちは、神の前には「罪びと」であって、神の前に出られるような者ではないというのが、「人」についての見方の大前提であるわけです。

「そういう私たち」が「あのあがないを」、「信じるだけで」、義と認められたんです。

 これが「恵み」ということばの根拠です。
 ですから、私たちには、誇れるものは何もないのです。

 救いのかぶとをかぶりなさいとは、そこのところをしっかり押さえて、その上で色々考えるようにしなさい、という話なんですね。

 祈り・・「主よ、あなたの恵みについて、もっとはっきり知ることができるようにしてください。」

 次回はこの続きで、なぜ「恵み」だから成長するのか・・というところを見たいと思います。

 God Bless You !
 
 
2020.02.15.Sat 09:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #61

【神の武具 その4】信仰の盾

"これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。
 それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。"
 エペソ人への手紙 6章16節

これらすべてとは、「真理の帯」と「正義の胸当て」、そして「平和の福音の備え」です。
 しかしこれらのこと、すなわち神を信じること、神の思いを受け取ること、福音を理解すること、それらは信仰なしにはあり得ないことです。

 でもさらに、それらのことの上に「信仰の盾」を取ると、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができるというのです。

 悪い者が放つ火矢とは、サタンが私たちの心を狙って飛ばしてくるものです。その矢が刺さってしまうと、心にダメージを受け、最初の三つの武具も使用不能に陥っしまいます。
 心を傷つける言葉や出来事。それは予期せずしてやってくるんですね。

 また火矢には、心を傷つけるものだけではなく、様々な誘惑というものもあります。
 それらは肉(肉体)が持っている古い性質を目覚めさせ、そのことで心を一杯にさせてしまいます。

 性的誘惑、金銭欲、支配欲、また怒りへの誘惑というのもあります。さらにパソコンのゲームのように、時間を忘れて夢中にならせるもの、私たちの世代でしたら麻雀とか。もちろんたまには頭の体操になりますからいいですけど、体力や集中力の限界を超えても気がつかなかったりするほどに、心が持っていかれてしまうようなことって、ありますよね。
 それからもっと直接的なものとして麻薬.ドラッグなどへの誘惑もあります。

 これらの火矢の目的は、とにかく私たちの心を神から引き離すこと・・結局その一言に尽きるんですね。

 さて、それらをかわす「信仰の盾」については、どのように考えたら良いのでしょうか。
 次のようなみことばが詩篇にあります。

"主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。
 わが盾 わが救いの角 わがやぐら。
 ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。"
 詩篇 18篇2~3節

 ここでは、主ご自身を、使える限りのことばをもって言い表しています。その中に「盾」という言葉が出てきます。
 ですから、信仰の盾とは、主ご自身であることがはっきりわかりますね。

 盾は常に持ちあげて構えているものではありませんが、いつでも使えるように、手元に置いておきます。そして火矢が飛んできたら、さっとそれを持ち上げて身を守るのです。それを押し入れにしまっておいたら、逃げる間も無くやられてしまいます。
 そう考えると、信仰の盾を使うためには、普段から主を近くに覚えていて「有事」の時にはさっと、盾である主のもとに隠れる用意ができていることが必要であることがわかります。

 主に目をとめること、それが「盾」なんですね。
 すると飛んできたはずの火矢は・・、消えているのです。

 祈り・・「主よ、どんな時にもあなたに心を向けていられるように、私を聖霊で満たしてください。」

 次回は神の武具の5つ目。救いのかぶとです。

 God Bless You !
 
 
2020.02.14.Fri 10:46 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #60

【神の武具 その3】平和の福音の備え

" 足には平和の福音の備えをはきなさい。"
 エペソ人への手紙 6章15節

「平和の福音の備え」が、武具になると言っているわけです。

 今のこの世は、神から目を外らさせようと、懸命になって人々に働きかける、悪しき力の影響力の中にあります。
 しかも人々はその中にいながら気づいていないという世界で、私たちはそこに福音を携えて出ていくわけです。

 要するに、福音を宣べるということは結局どういうことかというと、もちろん神の愛を伝えることなのですが、実はサタンの要塞に攻撃を仕掛け、そこに切り込んでいくことなんですね。
 
 ここでは、平和の福音の備えを「はく」と言っていますが、履くというのは出ていく前の準備の行為です。
 ですからそれは、福音を明確に理解して、それを語ることができるように備える、という意味になります。

 ここで、福音という言葉の前に付いている「平和の」ということについて、考えてみたいと思います。

 福音は、人々に「神との和解」をもたらすものです。今まで父なる神に敵対していた者が、一気に父の家の財産を相続する長子として迎えられるのです。(ヘブル人への手紙 12章23節参照)
 ですから「平和の」とは、神との平和という意味で捉えることができます。

 そしてもうひとつ意味があります。
「平和の福音」という言葉が使われている箇所が他に一つだけありますので、見てみますと、

"そこで、ペテロは口を開いてこう言った。
「これで私は、はっきり分かりました。
 神はえこひいきをする方ではなく、
どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
 神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。
 このイエス・キリストはすべての人の主です。"
 使徒の働き 10章34~36節

「すべての人の主」というのがキーワードです。ここで言いたいことは、神に受け入れられるのはユダヤ人だけではなくて「すべての人」ですよ、ということです。
 ユダヤ人と異邦人は同じ恵みを受けたのだということは、ユダヤ人に対して、はっきり言っておかなければならないことでした。
 ここで使われた「平和の福音」という言葉には、そういう意味があるわけです。すなわちユダヤ人と異邦人がひとつになる、という平和です。

 そういうわけでここでは「神との平和」、それと「ユダヤ人と異邦人との平和」という、二つの意味が考えられるわけですが、
 どちらにしても、すべての人々が神と和解し、キリストにあってひとつとなる、ということを意味しているわけです。

 そしてこの「平和の福音」を携えていくことが、実は戦いだというのです。
 福音が宣べ伝えられるところから平和を奪うのは、サタンの悲願なんですね。

 ですから、戦いに出て行けるように、福音を明確に自分の言葉で語れるように備えること。それが「備えをはく」ということで、
 そしてそのことが、世に出ていくに際して、忘れてはならない武具となることを、知りなさいと言っているわけです。

 祈り・・「主よ、私が福音をはっきり説明できるように、私の目から覆いを取り除いてください。」

 次回は神の武具の4つ目。「信仰の盾」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.13.Thu 10:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #59

【神の武具 その2】正義の胸当て

" 胸には正義の胸当てを着け、"
  エペソ人への手紙 6章14節

 私たちには、胸当てすなわち、最も大事な心臓部を守るための武具が与えられているというのです。その名は「正義の胸当て」。

 聖書で正義と言えば「主の正義」、すなわち主が義とされる(正しいとされる)ことを指します。
 
 私たちは御霊をいただいて、御霊に導かれて歩む者です。
 旧約聖書のエレミヤ書には、このように書かれています。

"これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである
 ──主のことば──
 わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。"
 エレミヤ書 31章33節

 これは、神がイスラエルと新しい契約を結ぶとき、すなわちキリストが来られ、キリストによって新しく「神の民」が起こされる時の事を預言したものです。(キリスト降誕の600年前)
 神はその時になると、モーセの律法のように石の板にではなく、人の「心に」律法を書き記すというのです。
 それは、信じる者の内に宿る御霊によって、神の思いが心に書き記されるのだということです。

 ですから私たちは、心の内に正義をいただいているのです。要するに御霊によって与えられる神の正義が「胸当て」になるというわけです。

 では、その胸当てを着けるとは、どういうことでしょうか。
 それはどんな時にも御霊に心の目をとめ、御霊を求め、神が喜ばれることを自分も喜ぶ者となることを願い求めること。それが「正義の胸当て」を着けるということなんですね。

 それは実に「神と共に歩む」ことに他なりません。
 
 胸当ては、私たちの心臓部を守ります。要するに、神の御思いが私たちの思いを守るのです。

 祈り・・「主よ、いつも私があなたの喜ばれることを求めるようにしてください。」

 次回は三つ目。「平和の福音の備えをはく」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.12.Wed 11:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #58

【神の武具 その1】真理の帯

"腰には真理の帯を締め、〜 "
 エペソ人への手紙 6章14節

 腰のベルトは締めておかないと、着ている服がバラバラになっちゃうんですね。要は、基本にこれがないと、後のものはしっかり使えない、ということです。

"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
 ヨハネの福音書 14章6節

 わたしが真理だなどと言えること自体、ちょっとイレギュラーというか、聞いたことのない言い方だと思いませんか。
 普通でしたら、人に対して真理という言葉は使えません。ところがイエス様は、イエス様ご自身すなわちイエス・キリストという存在そのものが真理なのだと言い放っておられるんですね。

"いまだかつて神を見た者はいない。
 父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。"
 ヨハネの福音書 1章18節

 父なる神の子である神=キリストが、人の子という姿をとって来られた。それがイエス様です。
 そのイエス様が、ご自身を真理だと言われるのは、「まことの神がここに立っているのだ」と、自ら宣言されたということに他なりません。

 イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました、(ヨハネの福音書 14章9節)

 真理とは神を指し、イエス・キリストを指しているのです。この真理の帯を締めていなければ、他のものはなんの役にも立たないのです。
 すべてのもの、すべてのことは、この真理の上にあるのです。

 サタンの攻撃は、先ずこの帯をめがけてやってくるのです。サタンは真理に対しては何の力もありませんが、真理を忘れさせてしまうことに関しては、得意中の得意なんですね。
 ですから、惑わされずにこの真理の帯を締めること。それが武装の始めなのです。

"わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。"
 ヨハネの福音書 10章14節

 イエス・キリストを主とする者は、「主のもの」なんです。

 この第一番目の武具「真理の帯」の使い方とは、全能の神である主が共におられることを、先ず第一にしっかり覚えることなんですね。

 祈り・・「主よ、あなたがまことの神、主であることが分からなくならないように、私を守ってください。」

 次回は二番目の武具、「正義の胸当て」です。

 God Bless You !

 
2020.02.11.Tue 06:55 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #57

【神の武具】

"終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。"
 エペソ人への手紙 6章10~12節

 今日のみことばから、クリスチャンの信仰生活には「格闘」なるものが伴うのだということがわかります。
「血肉に対するものではない」ということの意味は、人間を相手にした闘いだと思っているかもしれないけれど、その正体は、霊的な領域で暗躍するさまざまな悪の力との闘いなのだ、と言っているわけです。
 そして、そのために「神の武具」というものがあるのだから、それを使って「悪魔の策略」に立ち向かえば、堅く立つことができるというのです。

 なんだか映画で見る世界みたいですよね。でもそれは反対で、西欧の多くの映画は、実は聖書からネタをもらってきているんですね。
 クリスチャンは、霊の世界における闘いの現場に立たされるんです。今までは闘いなんてなかったのに・・。
 なぜ以前には闘いがなかったのかというと、神に敵対する霊の世界の支配下にいたので、なんの問題もなかったというわけです。

 例えば、悪徳企業の従業員が、ただ与えられた仕事をやっているだけだったら、なんの問題もなかったけど、ちょっと正義感をもってなんらかの行動をしようと思った途端に、ものすごい闘いに巻き込まれる・・といったイメージです。

 今日のみことばは、私たちは確かに闘いの世界に巻き込まれるけれども、そこから逃げるのではなくて、立ち向なさいと言っています。
 だけど神は、そのための武具を用意されているのだから安心して、そして勇気を出して、先ず「神の武具」を受け取りなさい、というのです。
 受け取ったら、その使い方を学ばなければなりません。そして実際に使用するというところまで行かないと、せっかく武具が与えられているのに、宝の持ち腐れになってしまいます。

 今日の箇所のあとに続いて、7つの武具が列挙されています。

"そして、堅く立ちなさい。
 腰には真理の帯を締め、
 胸には正義の胸当てを着け、
 足には平和の福音の備えをはきなさい。
 これらすべての上に、
 信仰の盾を取りなさい。
 それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
 救いのかぶとをかぶり、
 御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
 そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。"
 エペソ人への手紙 6章14~18節
 
 すなわち、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣(みことば)、御霊による祈り、の7つです。

 あなたは、それを受け取って、その取扱説明書であるところの聖書を読んで、実戦で使う人になることができるのです。
 
 次回からそのひとつひとつを見ていきましょう。
 最初は「真理の帯」です。

 God Bless You !
 
 
2020.02.10.Mon 08:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
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