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ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ

ライブのご案内/キリスト教談義を中心にお届けしています

G-Cafe 聖書のことば #157

【治らない病】日常の悩みシリーズ 4

" 弟子たちはイエスに尋ねた。
「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。
 この人ですか。両親ですか。」
 イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
 この人に神のわざが現れるためです。"
  ヨハネの福音書 9章2~3節

 みことばは人の全てを知っていて、そこを刺し貫く力を持っています。

" 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。"
 ヘブル人への手紙 4章12節

 今日のみことばは、弟子たちが生まれつきの盲目の人を見て、それが神からの罰だという受け止め方をして、このような質問をしたところの話です。
 イエス様の答えは、弟子たちのそれまでの常識や、心の奥で決めつけていたことを、全く覆してしまうようなものでした。

 今日のテーマは「治らない病は、神の罰ではない」・・です。

 イエス様は、とにかくそれは罪から来るものなのではないのだと言われました。そして「両親でもない」、すなわち先祖代々の呪いでもないと言われたのです。
 それは、「この人に神のみわざが現れるため」だと言われたのです。
 これは、病に限らず、神が私たちを取り扱われるに際して、常に基本になっている事なんですね。それは、不自由なところにこそ神のみわざが際立つというものです。

 私たちには、人をさばき見る心が「肉の思い」の中にあります。まず、その思いは「間接と骨髄を分けるまでに刺しつらぬく」みことばによって探られる必要があります。

 治らない病・・それはとても辛いことも多いかと思いますが、そこには不必要な辛さというものもあるんですね。それは、「人の目」です。
 自分ではそれを受け入れてやって行こうと思う時に、人から受けるさばきの視線は、その人をもう一度苦しみの中に沈んでいたあの時に引き戻してしまうという・・それこそが「理不尽」を感じるところなのではないかと思います。

 神は言われました。これは神の罰ではないのだ。わたしのわざをそこに現すためなのだ・・と。
 どのような人も、、その身を、その心を、私たちを愛してくださる神に明け渡す時、神はそこに大いなるみわざを現すと・・これはイエス様が言われたことですから「約束」を受けているんです。
 少なくともその人は、そのような「約束」を約束として握りしめて歩む保証が与えられているのに、それを周りの者が壊してしまうのです。
 そのようなことのないように、人は配慮すべきなのですが、何しろ生まれ持っての「さばきの目」があるので、どうしようもないという面があります。
 これもすべて、罪人が赦されるというところに人が立たないことには、避けられないことなのかもしれません。

 治らない病・・それは神の罰ではない。この人に神のわざが現れるためなのだ。
 ・・それは病の中にある人も、そして周りにいる人も、そのまんまを受け取るべきことばなんですね。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.08.Mon 07:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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GraceCafeたいむ/YouTube
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」#4
〜十字架は神の愛のしるし〜
お話/市原康、賛美/市原よしみ

アップしました。

https://m.youtube.com/watch?v=6CZXdD48tK0#menu

God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
2020.06.06.Sat 09:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #156

【突然の不幸】日常の悩みシリーズ 3

" 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。"
 ヨブ記 42章5節

 突然不幸が襲うということがあります。幼くして親を失ってしまうとか、頼りにしていた大黒柱の夫に交通事故で先立たれてしまうとか・・。

 ある時喫茶店にいたら、そのガラス張りの店にいきなり車が突っ込んできたことがありました。幸い私は無事だったのですが、そこにいた若い女性はガラスの破片を浴び、唇が割れ、血だらけになっていました。その女性は「なんで私だけがこんな目に合わなければならないの?」と、その運命を呪うようにして言っていたのを忘れることができません。

 なぜそんな突然の不幸に見舞われるのか、神はご存知ないのか・・。知っておられるはずです。

 間違いのないことは、すべての出来事の中に神の御手があるということです。今まで、世の中の悲惨はすべて罪人の本質から来るものだと言ってきましたが、「突然の不幸」のような出来事は、罪から来るとか、そういうことではないように思えます。

 聖書の中に「突然の不幸に見舞われた人」の代表のような人の話が出てきます。それはヨブという男の話です。
 ヨブの友人たちは、その不幸は罪から来たのだと断定しましたが、ヨブはその言葉にとても抵抗を覚え、友人たちに言い返し、とうとう、自分の正しさを主張し始めます。その長いやりとりのあと、神はヨブに語りかけます。「あなたは〜自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか」と。(ヨブ記40:8) それは、この苦難について「神を不当なものとするのか」という意味です。
 ヨブはとうとう神に降参して神に言います。それが今日のみことば、 " 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。" です。

 元々ヨブという人は、神に「正しい人」と認められていた人でした。そして地上の生活においても特別に祝福された人でした。その人に突然、あらゆる災いが襲いかかるんです。その経緯は、サタンが神の前に進み出て「あのヨブを災いをもって打つことをお許しください。きっと彼はあなたを呪うでしょう。」と言うのです。そうしたら「やってごらんなさい」と、神はなぜかそれを許すんですね。

 ヨブは、はじめのうちは神に全てを感謝していますが、あまりの苦しみのひどさに、とうとう神を呪いはじめます。しかし、全てを失ったその中で、苦しみと叫びの中で半狂乱になっているヨブに、神は語りかけます。「あなたは、わたしができることの、その小さなことのひとつでもできるというのか。」・・と。実際はもっと長く、あらゆる例をもって、神はヨブに懇々と語られるのです。
 その神の語りかけの中で、とうとうヨブは改めて神を「神」として認めるのです。その苦難と苦しみと絶望の中で、そこにおられる神を・・。
 神はそのヨブを癒し、以前よりもはるかに大きな祝福を与えるのです。

 苦難の意味・・、それを私などが言葉で、しかも苦難の中にある人に言うことなど、とてもできないことです。
 私たちにできること・・それはあのヨブの友人たちのように、あまりの悲惨さを見て、きっと神に呪われたのだ、これはその罪のせいだ・・というような思いを捨て、最善をしてくださる神を見上げて共にいること。これが神の祝福の入り口なのだと信じて、口を開かずに祈ること・・なのだと思います。

 神の愛は、その人の上にも確実にある・・これが聖書のメッセージです。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.06.05.Fri 10:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #155

【嘘をつかれた】日常の悩みシリーズ 2

" この方以外には、だれによっても救いはありません。
 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。"
  使徒の働き 4章12節

 今日の主題は「嘘をつかれた」です。

 嘘をつかれるというのは、とても辛いことです。特に親しい人に、親に、子に、夫に、妻に・・。嘘をつかれた人はその相手に対して自分の心にバリアーを作ってしまって、取り除くことのできない壁ができてしまいます。
 要するに、自分の心の中に、なくても良いはずのものができてしまうんですね。その根底には自己保身というものがあるわけです。もう騙されないぞ・・と。

 これに対して、自分は嘘をついたことがないだろうかと考えるとき、多分・・ある。
 これも自分を守る為だったりするわけです。自分が死ぬわけにはいかないから。自分の心の城壁が壊されるわけにはいかないから・・。

 神から離れた罪人の本質は自己保身です。実はここに不幸の原因があるんですね。
 とは言っても、人は自分を防衛して生きなければならないことは、近頃の世界情勢を見てもよくわかります。単に平和を唱えてそれを実現しようという考えは、全ての人が常識的な判断の持ち主で、「話せばわかる」人であるということが大前提の話です。しかし、世の中にはとんでもないことを考えて、人を支配していこうとする人もいるわけです。残念ながら、人には防衛の意識も必要だというのが「この世」なんですね。

 罪びとの世、それは「不幸の種」がばらまかれている世だと言っても過言ではないように思います。そんな世界で人が考えられる精一杯のことは、人がさばき、人が管理する・・そのことを徹底していく以外にないと考えるわけです。でもそこでは、神は「蚊帳(かや)の外」なんですね。

 神は赦しの神なんです。ご自分の身が傷つけられ、あざけられ、ののしられ、おまけに殺される・・その立ち位置で「人」を受け止められたんですね。それがあの十字架です。でもそこに本当のいのちがあることを、神は御子キリストの復活を通して示されたわけです。死ぬところにいのちがあるのだ・・と。

 でもそんなこと、人にはできません。許すこと・・。あんな人は許してはいけないと思う。それが正義だとさえ思う。でも神は言われるんです、愛していいんだよ・・と。許す力はわたしのうちにあるから、わたしのもとに来てごらんなさい・・と。

 ここにしか救いはないんですね。
 
「この方以外には、だれによっても救いはありません。」という今日のみことば、これは罪の中に沈んでしまっている・・それはすべての人・・への、救済の知らせなんですね。この救済の意味は、本当に重たいんです。
 
 人の心は、許さなければ解放されないからです。

 救いとは、神から一方的に与えられる「恵み」で、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」のです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.06.04.Thu 09:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #154

【明日の心配】日常の悩みシリーズ 1

" まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"
 マタイの福音書 6章33~34節

 今日から、生活の中のマイナス要因シリーズを始めます。

 今日のテーマは「明日の心配」です。

 私たちの生活には、実にさまざまな「先行きの心配」があります。お金、対人関係、職場や学校の生活の中にも、先が見えないことへの心配で、心の中がいっぱいになってしまうことがあります。

 今日の箇所は、最も良く知られているイエス様のみことばのひとつです。

 この話は、24節の「あなた方は神と富とに仕えることはできません」という話から始まっています。結局、心が何に奪われるか・・そこが肝心なところなのだという話の流れで、明日の心配の話になっているわけです。

 空の鳥を見なさい・・と。鳥は種まき、刈り入れ、蔵に納める、などのことを考えもしないのに、天の父はちゃんと養ってくださっている・・と。
 心配したって、あなたは自分の命を一秒でも伸ばすことはできないんです。それは神の手の中にあるんです・・と。
 野の花がどうして育つのか・・、よく考えなさい・・と。
 栄華を極めたソロモンでさえ、その花の一つほどにも装っていなかった・・と。
 
 結局、本当の「いのち」はあなた方が考えているようなことで決まるものではないんですよ・・という話なんですね。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」というのです。
 
 「神の国と神の義」・・それは永遠に行くべきところ「天の御国」と、地上では神が何を喜ばれるのかということ。そのことをもっぱら考える者に、神は全てを備え、与えてくださるのであって、その時あなたは「何も心配することのない者」になるのです、と言っているのです。

 人は、心配に心が奪われると、「神どころではない」と、そう思うわけです。

 私たちはこの言葉を受けて、心を切り替えようと「思う」ことが求められるわけですが、実際にそんな状況になったら、心をコントロールする力など、私たちにはないんですね。心配が心を支配してしまっているんです。

 だったら・・もう答えはわかりますよね。
 力がなかったら、力のある人のところへ行って相談するし、助けを求めます。それはあなたの祈りを聞いてくださる、あなたを愛し、あなたの必要のすべてをご存知で、それを与えようとしておられるまことの神。その方に叫び願う・・。これが求められる行動であるわけです。

 まことの神である主は、祈りを聞いて応えてくださる方なんですね。その方を私たちは知っているんです。
 ああ、こんなに近くに助けがあったんだと、、そう思ったら祈りましよう。

 祈り・・「神さま、私は〜〜のことで、不安でいっぱいになっています。この私が、まずあなたのことに心を向けられるように、力を与えてください。」


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.06.03.Wed 09:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
G-Cafe 聖書のことば #153

【福音 みことば集4】

 福音シリーズで見てきたみことば、、今日で終わりになりそうです。

 みことばには力があります。
 今日もみことばだけを味わって見てください。

 これを分かち合う主にある兄弟姉妹が、福音を語る人になりますように。
 福音を聞いて間もない方が、その意味を、みことばから受け取ることができますように。

その27) この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。 ローマ人への手紙 1章2~3節

その28) 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 ローマ人への手紙 1章16~17節

その29) 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 ガラテヤ人への手紙 1章11節

その30) 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。
 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。 コロサイ人への手紙 1章3~5節

その31) この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。 コロサイ人への手紙 1章6節

その32) 神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。 テサロニケ人への手紙 第一 1章4-5節

その33) 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 ローマ人への手紙 1章16~17節

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.02.Tue 08:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #152

【福音 みことば集3】

 福音シリーズでのみことばを、もう一度見てみる・・の第3回目。その18からです。
 毎回のタイトルを添えようかと思ったのですが、まっさらでもう一度見ていただくのがいいのではないかと思い。本当に「みことばだけ」にしました。
 今日もご覧になってください。

その18) 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。 ヨハネの手紙 第一 4章9節

その19) 主はこう言われる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。
 ──主のことば──
わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。 イザヤ書 66章1~2節

その20.21) しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。 ローマ人への手紙 6章22節

その22.23) 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 ペテロの手紙 第一 2章4~5節

その24) すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」 また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。
 わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 ヨハネの黙示録 21章5~7節

その25) 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 ガラテヤ人への手紙 1章11~12節

その26) 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。 マタイの福音書 24章14節

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.06.01.Mon 10:03 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
GraceCafe たいむ #3 (動画)を、YouTubeにアップしました。

どうぞご覧になってください。

バソコン、スマホなどの方は、以下をクリックしていただければ、見ることができます。

※ ご心配の方もおられるかと思い、改めてお知らせいたします。
 市原康は昨年2019年11月
 MACF(ミッション・エイド・クリスチャン・フェローシップ)の関根一夫牧師より、
 信徒伝道者としての按手を受け、活動を開始しています。

https://www.youtube.com/watch?v=Q0U_MM5yoMk


2020.05.30.Sat 06:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #151

【福音 みことば集2】

 前回の続きで、33回にわたる「福音シリーズ」で見て来た聖書のみことばを、今日も見ていきたいと思います。その9) からです。
 
その9) 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。 ローマ人への手紙 6章6節

その10) 「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。 ルカの福音書 11章29節

その11) 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 死んだ者は、罪から解放されているのです。 ローマ人への手紙 6章5~7節

その12) 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。 ローマ人への手紙 6章5節

その13.14) 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。 イザヤ書 53章7~8節

その15) 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 ローマ人への手紙 6章4節

その16) それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 ローマ人への手紙 6章4節

その17) ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空(むな)しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。 コリント人への手紙 第一 15章12-14節

・・やはり、みことばには力がありますね。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.29.Fri 10:52 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #150

【福音 みことば集1】

" 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。" テモテへの手紙 第二 3章16節

 この「G-Cafe 聖書のことば」の #1 から #11 までに書いた福音を、#114から改めて書き始めたら33回続いてしまいました。その33回で見てきたみことばだけを、もう一度振り返って見たいと思います。
 この回だけでは入りきらないと思いますので、4回ほどに分けたいと思います。どうぞご覧になってください。

その1) 神は仰せられた。 「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」 創世記 1章26節

その2) 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。 イザヤ書 45章22節

その3) 「主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。 イザヤ書 1章18節

その4) 「その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。" ヨハネの黙示録 19章13~14節

その5) その日、その時──主のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」" エレミヤ書 50章20節

その6) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネの福音書 3章16節

その7) わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 ヨハネの福音書 15章5節

その8) 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。〜 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。 ローマ人への手紙 7章18~21


 こうして見ていきますと、これらのみことばについていろいろ書くより、ただみことばを見ていることの中で、大きな力が与えられることを感じさせられます。

 みことばは神のことばです。それは40人余りの著者が1500年にもわたり、神の霊感を受けて書いたものです。
 ですから神のみことばは、それだけで人に語りかけてくるんですね。

 
 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.28.Thu 09:27 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #149

【福音 その33】スタートライン「信仰」

" 私は福音を恥としません。
 福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。"
 ローマ人への手紙 1章16~17節

 福音をテーマに書き始めて、33回になりました。
 今日のテーマは、福音そのすべては「信仰」・・すなわち、信じてみようという思いがスタートになる、ということです。

 どこかに行きたい時、その行き方も知っている。切符を買う場所も教わった。もう誰に聞かなくても一人で行ける。
 でもそれは「行く」こととは違うんですね。ただ「知っている」だけなんです。

 これまで、33回にわたって、福音というタイトルで書いてきました。
 私は体系的に神学を学んだわけではないので、まだ足りないところがあるかもしれませんが、ほぼ話したような気がします。

 この話を聞いた人はもう「知っている人」なんですね。
 でもそれは、行ったことにはならない。

 さあ行こう・・そう思っても、思っただけではまだ行ったことにはならない。玄関の扉をあけて一歩踏み出した時に初めて、ただの「知っている人」ではなくて、「そこに行く人」になるわけです。
 この「一歩」、それが「信じてみる」という心の行動なんですね。そこを踏み出した時に、人はその目的地に「行く人」になるわけです。

 福音は「信じるすべての人に」救いをもたらす神の力だと、パウロは言っています。
 そして福音とはなんだかというと、「神の義」の啓示だというのです。

 神の義・・それは、聖なる神の御意志とでも言いましようか。その話を聞いて、信じてみよう・・というところが信仰の始まりです。そうしたら切符売り場へ行く道はもう聞いているから知っているんです。そして切符を買ったら、さらに深みへと進むその歩み・・それもやはり信仰が土台なんですね。まさに「信仰に始まり信仰に進ませる」というわけです。
 
 まずは行ってみようと思い、そして玄関に出て、靴を履いてみませんか。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.27.Wed 10:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #148

【福音その32】福音は聖霊の働き

" 神に愛されている兄弟たち。
 私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。
 私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。"
 テサロニケ人への手紙 第一 1章4-5節

 今日のテーマは「福音は聖霊の働き」です。

 パウロは福音を宣べ伝えたその現場が、力と聖霊と強い確信を伴っていたと言っています。それで、この地域で宣教をすることは、神の計画と選びの中で行われたことで、自分が勝手に計画を立ててやったことではないことが明白にわかる・・と言っているわけです。

 パウロが福音を宣べ伝えると、そこには「力」が伴っていました。明らかな奇跡や目に見えるしるしがそこに伴い、人々はそれを見て怖れ、神を心から受け入れる姿勢に変えられたわけです。
 またそこには「聖霊」が伴っていたと言っています。それは、宣べ伝えられているイエス・キリストがどのような方であるか、あの十字架はなんだったのか、、それがはっきりわかるという、聖霊によってしか理解できないことを人々は受け止めた、ということがわかります。
 そして「強い確信」・・。それはパウロの宣べ伝える福音は、疑う余地のないものだという確信です。

 神の福音が宣べ伝えられて、人がそれを受け入れ、そして新しく生まれ変わる・・。そのことは明確な事実として伴うということなんですね。
 ひょっとしたらこういう話を聞いて不安になるクリスチャンの方もおられるかもしれません。

「本当に自分はクリスチャンとして生まれ変わったのだろうか」・・。

 個人差はもちろんあるんですね。あとは伴ってくださる聖霊とどのようにお付き合いをするか・・、これが重要なことであるわけです。
 近づこうとすれば聖霊は身近な存在になりますし、無視しようと思えばできてしまうのです。
 また、その存在さえも感じられない方もおられるかもしれません。だったらそこは、次のみことばでご自身を判別してください。

" 神からの霊は、このようにして分かります。
 人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。"
  ヨハネの手紙 第一 4章2節

 イエス・キリストを主と告白する人のうちには、確実に聖霊が伴っていてくださるのです。主と告白するとは、イエスをまことの神であると認め、自分が従うべきお方であると、明確に思っているということです。
 そうだったら、さらに聖霊との深い交わりを求めて祈ること・・これが、求められていることなのかもしれませんね。

 祈り・・「主よ、私に聖霊を、私が倦むほどに与えてください。」

 福音の広がりは、聖霊の働きによるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.26.Tue 09:34 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #147

【福音その31】神の恵み

" この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。"
  コロサイ人への手紙 1章6節

 今日のみことばにはこんなことが書いてあります。パウロが宣べ伝えている福音・・、それは人々が神の「恵み」を聞いて「本当に理解した時」から、実を結ぶという成長が始まるのだと。そしてそのことが今、世界中で起こっているのだ・・と。

 今日のテーマは「神の恵み」です。

 私が子供の頃は、終戦後間もないこともあって、ホームレスの人が今よりもはるかに多くいました。その人たちのことを人々は「お乞食(こじき)さん」と言っていました。道端に座って「お恵みを・・」と言って、通りゆく人々の哀れみを乞い、置いてある空き缶にお金をチャリンと入れてもらって、それでなんとか食いつないでいたのです。
 このお恵み・・それは、正当な報酬ではない、ただ哀れみの心でいただくものです。それをいただくのは当然のことではない、人々の哀れみだけが頼みの綱で、それを受け取っていたということです。

 神が与えてくださるのは、神から離れた「滅びゆく魂」を「永遠のいのち」へと導く救いです。これをパウロは、神の「恵み」だと言っているのです。
 すなわち、そうやっていただくものは、神の一方的な哀れみと愛と慈しみからくるものであって、もともと私たちが受けるべき「正当な報酬」ではないということなんですね。
 そしてそのことがわかった時に、「成長が始まり、実を結ぶ」のだというわけです。

 イエス・キリストが人の子の形で地上に降り立ち、そしてすべての人の罪のあがないとなってくださった。これを自分のためのものだと受け取る人というのは、自分の持てる「プライド」が、どこにも根拠のないものであることを思い知った人なんですね。

「神」という存在を認め、その前にひれ伏すということを、普通だったら人はしないんです。ところが、聖霊は心の奥までを照らし、人の心のうちにあるすべてのものを見せてくださる・・。その時に「ああ、自分はなんと罪深い者なんだろう」と知るわけです。プライドが砕かれる・・その時に初めて人は、神の恵みを受け取る準備ができるんですね。

 この救いは、神に背を向ける者に対しての「一方的な恵み」であって、大きな顔をして受け取れるようなものではないのだということが理解できた時、そこから成長が始まり、目に見える結果としての実が実り始める・・。これが全世界で起きている共通のことだと、パウロは言っているわけです。
 
 その時人は、自分を優しく導いてくださる主なる神様の前に本当に降参し、従うという決意をする・・。成長のカギはここにあるんですね。

 祈り・・「神さま、私の心のうちを、その奥まで、あなたの光で照らしてください。」


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.25.Mon 08:33 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

IMG_7196.jpg

2回目になりました。
慣れないYouTube、苦戦しておりますが、
少しずつ改善を加えていけたらと思っています。
どうぞご覧になってください。

https://www.youtube.com/watch?v=jsThVLngKMI

2020.05.23.Sat 10:50 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #146

【福音その30】神の視点をいただく

" 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。
 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。"
 コロサイ人への手紙 1章3~5節

 パウロは、父なる神に感謝していますと言っています。その理由は「全ての聖徒に対するあなた方の愛」を確認することができたからだというのです。
 そしてあなた方は、「天に望みが蓄えられている」から愛し合っているんだよと、パウロは言うのです。不思議な理屈ですよね。

 今回のテーマは「神の視点」です。

 私たちは、なかなか愛し合うというのは難しいものです。好きな人だけを愛するなら悪人だってするわけで、私たちもそうしています。
 しかし教会において「すべての聖徒」すなわち、主にあるすべての兄弟姉妹を愛するというのは、実はその場に立てば、かなり難しいことがわかるんですね。
 それは、自分の感性で人を吟味してしまうからだと思うのです。

 しかしコロサイのクリスチャンたちは「すべての聖徒」を愛する、すなわち皆が愛し合っているというのです。そしてそのことをパウロは、父なる神に感謝しますと言っているわけです。
 神とその愛を知ったクリスチャンは、自分の感性ではなく神の視点で人を見ることを学ぶんですね。

 神の視点とは、御子のあがないを信じた者はすべてOKという視点です。
 御子のあがないとは私たちの罪のあがないです。すなわちキリストの十字架の目的のことです。それを信じれば、すべての罪が赦されるという信仰です。
 信じるということだけが条件で、神に受け入れられるというのです。そこに「自分の感性での吟味」が入り込む余地はないんですね。

 神の愛は、すべての人の上に等しくあるんです。問題は、人がそれを受け取るか受け取らないかだけだというのです。それを身を以て知った者が、自分の吟味によってではなく、神の愛をもって愛し合うようになるんですね。愛する相手に例外はないのです。

 信じるということだけで、天の御国と永遠のいのちが与えられる。これが「天に蓄えられている望み」です。この望みのゆえに私たちは、愛し合うことができる者にされるという話なんですね。

 イエス・キリストを心に迎えるだけで、人は変えられるのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.22.Fri 13:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #145

【福音その29】人間によるものではない

" 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。
 私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
  ガラテヤ人への手紙 1章11節

 パウロは言いました。ここのところをスルーしないでね・・と。
 それは、自分が伝えている福音は、「人間によるものではない」ということ。

 人は、神の話を聞いても、福音を聞いても、イエス・キリストが神の子だと聞いても、はなっから「ああわかってます。神でしょ」と思っているだけなんです。
 その神は、どう転んだって、人が自分の都合で作り出した、想像の産物だという・・その感覚が身についてしまっているんですね。

 パウロは徹底的にクリスチャンたちを迫害する人間でした。それがある時、上からの光に打たれ、そこでイエスの声を聞くんですね。それは雷のような強烈なものでした。周りにいた人たちは、その言葉が理解できずにいたのですが、パウロは声を聞くだけではなく、会話までしているんですね。
 パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と、イエス様はパウロに答えられたのです。

 人が悟りによって開いた「真理」でもなく、宇宙という「神的存在」が人に教えたのでもなく、頭脳明晰な人が編み出した「哲学」でもないんですね。
 この福音はイエス・キリストによって語られ、イエス・キリストによって開かれた救いの道、イエス・キリストという神の御子によって、神が人に与えられた救いのメッセージなんです。

 天地万物よりも大きな存在が、小さなひとつひとつの魂を思い、その魂の救いのために「人の子」として地上に降り立つという、これは私たちの想像の範囲を超えた出来事なんですね。それは、人の考えの範囲をはるかに超えたものです。
 ですからそんな話は、人が作ったって伝わりようのない話なんです。

 神がおられるんです。このことは「わたしが神である。他にはいない」とはっきり言われる神から発せられていることなんですね。

 人は神の話を聞いても、そのように「あり得る範囲を超えた話」は、受け入れないものなんですね。欧米のように、生まれた時から「神」が当たり前のように教えられている人でも、人は改めて「神」を信じるのでなければ、その神からの情報を受け取ることはできないんです。

 このことを理解すること自体が、実は奇跡なんですね。それは神から来る聖霊の働きによって、人は初めて「外」を見させられるわけです。

 福音は、人間によるものではないんです。
 ここがまず入り口なのかもしれませんね。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.21.Thu 07:48 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #144

【福音その28】神の力によって

" 私は福音を恥としません。
 福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。"
  ローマ人への手紙 1章16~17節

 今日のテーマは、救われて人が新しい者へと変わってしまう、その力はどこから来るのか・・ということです。

 パウロは言いました。わたしは福音を恥としません・・と。
 なぜこんなことを言うのでしょうか。それは、福音の中身が「みんなからバカにされるようなこと」だからです。それでも自分は恥とはせずに語り続けるんだとっているわけです。
 どういう点がバカにされるのかというと、それは「信じる」それだけで救われるという、至極単純なことしか言わないからです。
 そんなんで救われるなら、朝飯前じゃん・・と言いながら、多くの人々は信じないんですね。

 わたしはそのことがいちばんの要のことなんだから、語り続けますよ・・というわけです。
 あなたがどういう人かということとは関係なく、信じるという行為だけで、そこに働くのは「神の力」。救いをもたらすのはもっぱら神の力で、あなた自身がそれを手伝うという部分は他に何もない・・ただ信じる・・それだけなんだというんですね。

 何を信じるかというと、それはイエス・キリストを遣わされた神と、十字架で死なれて復活されたイエス・キリストを救い主として信じるという、その行為こそが神の前に正しいのであって、そこに差別はなく、それは世界中の全ての人に、なんの差別もなく与えられている・・ここに神の義「正しさ」あるのだというのです。

 義人は信仰によって生きる・・これは旧約聖書のハバクク書からの引用ですが、神の目から見て正しい人「義人」というのは、人に与えられた唯一の手段「信仰」を選び取る人だということなんですね。

 簡単なことなのに、それをしようとしない・・これが「人」の姿なんですね。人はそれを聞いてバカにしてしまうのです。あまりに軽すぎると・・。
 でも、それは決して軽いことではないんです。私たちが言っている神とは、天地万物を造られ、あなたを造られ、あなたを知っていて、あなたを愛し、あなたのために御子を人の形で使わして、十字架にかけるという、それほどのことまでして、ご自分の元に帰ってくるようにされた神・・。これを信じるというのは、決して軽いことではないんですね。

 イエス・キリストの十字架は、あなたが、その全能の神を認めないという「罪」、そしてその罪から来るすべての悪を、キリストがあなたの代わりにそこで担ったというしるしです。

 この父なる神、そして御子の十字架を、我が罪のためと信じる・・それだけで人は、神を知り、愛を知り、死の力が滅ぼされた永遠を知り、喜びと希望に満ちた生活へと変えられ、神を「この方はまことの神であった」と、神をほめたたえる者となるんです。

 その過程で人が変えられるのはもっぱら「神の力」による・・これは福音の重要なポイントなんですね。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.20.Wed 09:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #143

【福音その27】福音の要

" この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。"
 ローマ人への手紙 1章2~3節

 今日のみことばを一言でまとめてしまうと、「福音とは、御子に関する情報なのです」ということになります。
 ローマ人への手紙の筆者であるパウロは、自分が話そうとしていることは、旧約聖書に預言されていたし、十字架で死んでよみがえられたイエスに自分もはっきり出会っている、ただその方について・・それに尽きるのだと言っているわけです。

 教会の上には十字架が立っています。教会では毎週礼拝で牧師さんが説教をします。そして、教会を構成する人たちがいます。この全ての根拠は、イエス・キリストなのだということです。

 なんでもそうですが、そこでやろうとしていることの本質がわかっていなかったら、そこにいる自分は、ほとんど存在意義さえ見出せなくて、ただそこにいるだけの人になってしまいます。

 パウロは、聖書全体のメッセージは「福音」であって、それは御子に関するものだと言っているわけです。
 御子に関すること・・ここが要のことであるという視点に立とうとしなければ、おそらく聖書の深みには入っていけないんですね。

 クリスチャンは優しいとか嘘をつかないとか、聖い生活を送る人だとか、社会的にも献身的な働きをする人だとか・・。そういうのはあくまでも付随することで、そこに現れる形は人によって全く違っていても構わないんですね。
 しかし、その全ての根底にあるのは「御子に関すること」についての知識であって、それが実際に自分のものになるか・・、そこが要なのだということです。

 御子・・それは、天地創造以前から、その創造者とともにおられた「御子なる神」。
 そして、人々に永遠の命をもたらすために、人の姿をとって地に降り立たれた方。しかも赤子という、全く弱い者の姿で。
 そしてその目的は十字架にかかることであり、本当に死んで三日ののちに死の力を打ち破り、よみがえられて、人の前に神という全能者の栄光を表されて、全ての人々を愛をもって深く関わってくださる方。

 聖書を知るということは、御子イエス・キリストを知るということなんです。

 それ以外に聖書が言おうとしていることはないんですね。
 求めておられる方は、「イエス・キリストはどういうお方なのかを知ることができますように」と祈り求めること。
 これが神様への直球なんですね。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.19.Tue 12:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #142

【福音その26】あらかじめの警告

" 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
  マタイの福音書 24章14節

 十字架も間近に迫っている24章は、弟子たちがイエス様に神殿の建物を「指し示した」というところから始まっています。
 指し示したとはどういう意味かは書いてないのですが、その神殿は神の民であるイスラエルの誇りだという気持ちが込められていたのだと思います。
 そうしたらイエス様は予想もしない話を始められたんです。この神殿は崩壊するのだ・・と。
 そこで弟子たちはイエス様に尋ねます。そんなことがあり得るんですか、いつ起こるんですか、、、と。弟子たちはさらに、こんなことを尋ねるんですね。「あなたが来られ、世の終わりの時のしるしは、どのようなものですか。」と。

 この時弟子たちは、「イエス様が再び来られる」ということと、「終わりの時」があるのだという認識を、すでに持っていたんですね。

 今日のテーマは、「はじめ」から「おわり」までという、神の計画全体から見た福音の意味です。

 弟子たちの質問に対してイエス様は、終わりの時には偽キリストが多く現れること、戦争があるが、それはまだ終わりのしるしではないこと、飢饉や地震などは全て「産みの苦しみ」のはじめだと言われました。
 産みの苦しみとは、大いなる苦痛があるが、それはその苦痛の全てを忘れさせるほどの祝福がそのあとにやってくるということです。

 聖書は「終わりの時」について、実に多くの箇所ではっきり言っているんです。イエス様の話は、その時への警告と、その時を迎えるにあたっての心構えについての話がほとんどだと言っても過言ではありません。イエス様が言われる「神の国」や「天の御国」の話はみな、そこに行くための心構えについての話なんですね。

 今日のみことばは、弟子たちの「終わりの時」についての質問に対して、イエス様が言われたことばです。
 福音が全世界に宣べ伝えられて、、、それが全ての民族に及び、それから終わりがくるのです・・と。

 なぜ、罪だの救いだの、永遠だのと、人々が聞きたくもないことを言い続けるのかというと、それが「警告」と「避難口」への道案内だからなんですね。

 飛行機に乗ると、まず緊急時の避難経路とそのための準備についての説明があります。初めて飛行機に乗るときは真剣に聞くのですが、今では聞きもしないで本を読んでいたりします。
 でも、あなたはライフジャケットがある場所がわかっていますか ? もしライフジャケットが膨らまなかったらまないときに、あなたはそこに空気を自分で入れる方法がわかっていますか ? ・・そういうことなんですね、福音というのは・・。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.18.Mon 10:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 Grace Cafe では、YouTube にて、動画の配信を始めることにいたしました。

2005たいむ


 題して「Grace Cafe たいむ」。
 副題は「ミュージシャンにもわかる聖書の話」(笑) 。

 市原よしみが賛美を歌い、市原が喋るというものです。

 今まで続けてきました「聖書のことば」は今後、基本的に土曜,日曜はお休みとさせていただき、動画配信をできれば毎週・・土曜日にと考えています。(実現できるかは、始めて見ないとわかりませんが)

 では、第一回「Grace Cafe たいむ」・・どうぞお楽しみください。

 https://youtu.be/L2z0ExAIVHY

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
2020.05.16.Sat 10:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #141

【福音その25】発信元は神

"兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。
 私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。
 ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。"
  ガラテヤ人への手紙 1章11~12節

 これは、新約聖書の「手紙」の多くを書いているパウロの言葉です。

 福音は人間によるものではない・・、これが今日のテーマです。

 パウロという人は当時、イエス・キリストを信じる者はイスラエルの神を冒涜する者だとして、徹底的に迫害していました。
 彼は、クリスチャンにとっては恐怖の的でしかなく、暴力をもって自分達を蹴散らして歩く存在でした。
 "サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。" と、使徒の働きの8章に記されています。サウロ(後のパウロ) はクリスチャンたちを石打ちの刑という死刑にするように、人々を扇動した人物でもありました。

 彼はクリスチャンたちを捉えるために、ダマスコというところへ意気揚々と向かっているところで、突然天からの光に打たれて、目が見えなくなってしまいます。そして、そこでイエス様からのことばを直接聞くことになるんですね。

" 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。"
  使徒の働き 9章4~5節

 そしてパウロは、目が見えないまま人に手を引かれてダマスコに行きます。そしてイエス様が言われた通り、アナニアという人が訪ねてきて、自分の頭に手を置いた瞬間、彼の目は開かれ、そして聖霊に満たされて、全く新しい人に生まれ変わってしまうんですね。

 彼は聖書に関しては、他の誰よりも豊富な知識を持っている人でした。パウロは数日間のうちに、自分が迫害し、敵対していたイエスという「あの方」こそが、聖書にずっと書かれて来たキリスト・・それは救世主・・であることに目が開かれたんですね。
 数日経った時には、彼はすでに諸会堂で「この方こそ神の子です」と伝える人となっていたんです。
 彼は、この出来事と、聖霊による満たしと、聖書の知識とから、大胆にそのことを語る人になったんですね。

 福音は、人の考えによって編み出された「生きるための知恵」でもなく、何だかわからない霊によって悟ったものでもなく、「わたしが神である」と言われる方からの直接のことばによって示されたものなんですね。

 福音は、神から発せられたものなのです。

 私自身も、そのことをはっきり言いたいんですね。

 だから・・ごまかせないんです。これは本当か真っ赤な嘘かのどちらかでしかないことなんですね。

 それを確かめるのは、言うまでもなくあなた自身です。
 神に直接声を掛けることでしか、確かめようがないんですね。

 「イエス様、あなたが本当に生ける神の子キリストならば、私にそれがわかるようにしてください」・・と。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2020.05.15.Fri 10:15 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #140

【福音その24】神の計画の全貌

" すると、御座に座っておられる方が言われた。
「見よ、わたしはすべてを新しくする。」
 また言われた。
「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
 また私に言われた。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。
 わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
 勝利を得る者は、これらのものを相続する。
 わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。"
  ヨハネの黙示録 21章5~7節

「福音シリーズ」を書いてきましたら、24回目になってしまいました。
 そろそろ終わりなのかなと思っているところに与えられたのが、今日のみことばです。
 今日のテーマは、「神には計画があった」ということです。

 この黙示録の言葉は、この世が終わり、天の御国が実現する、まさにその時の神のことばです。

「事は成就した」・・これは、神には初めから計画があったということの、明らかな神ご自身による証言です。

 その計画の最後には・・
「わたしは彼の神となり、彼は私の子となる。」
 ・・実にこれが、世を終わらせようとする時の神のことばなんですね。今までの全てがこのことのためにあったと言わんばかりです。
 神は初めから終わりまでの全てをその手に収め、「こんな事が起きるなんて、神も仏もあるものか。」というような事さえ許して、この最後の時を迎える・・。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」とは、初めから終わりまで、神ご自身の責任のもとに全てがある・・という意味です。

 その目的は「勝利を得る者」に「いのちの泉からただで飲ませる」事・・。
 勝利を得る者とは、聖書全体の流れから見れば、「イエス・キリストを救い主と信じた者」ということに他なりません。
「信仰」が、勝利の入り口、カギなんですね。他にはないと、聖書は言い続けてきているんです。

「わたしは彼の神となり、彼は私の子となる。」・・
 神が初めに造られたエデンの園は、ここで完成するんですね。
 神はそこを永遠の御国とする・・と、聖書はあらかじめ言っているんです。

 驚くべき神のことばです。
 驚くべき福音です。
 神には計画があった・・というのです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

  
2020.05.14.Thu 07:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #139

【福音その23】新しい役割

" あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。"
  ペテロの手紙 第一 2章5節

 前回の話は、クリスチャンは「霊の家に築き上げられること」がこの世における到達点だということでした。そしてそれは、「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司」となることだというのです。ちょっと難しいですよね。

 祭司というのは、神と民との間をとりもつのがその役割でした。祭司は、民が神へのささげ物として持って来た動物や穀物を、実際に神の前にささげるのがその役割です。民は祭司がそれを神の前にささげてくれることによって、自分が神と共にあって、その罪の赦しと祝福と守りの中にいるのだということを確信して歩むことができたのです。

 祭司は誰もがなれるものではなく、世襲制でした。ところがペテロは、そんな祭司の家系とは全く関係のない私たちに向かって、「あなた方は祭司となるんだ」と言っているんですね。
 それは、神と民との関係が、それまでとは違う全く新しいものとなったのだという宣言です。その転換点がイエス・キリストなんですね。
 なぜなら、イエス様が罪のための永遠のささげものとなってくださったからです。もう神殿に行ってささげ物をするという「時」は終わったのです。そして神への道が、イエス・キリストのあがないによって、すべての人のために開かれたというのです。これが福音なんですね。
 イエス様が信じる者のためのささげものとなってくださったのです。

 ですから人は、イエス・キリストを外して神の前に出ることはできないんですね。そして逆に、イエス・キリストを通すという、その条件さえ満たされれば、神の前に大胆に出られるというのです。
 そして私たちがささげるのは「霊のいけにえ」だと言っています。

 私たちはイエス・キリストを通さなくても、神の前に出られるのではないかと思ってしまったりするんですが、その可能性は皆無だというのが聖書の主張です。
 私たちは、自分に期待するあらゆることを捨てて、イエス様に全面的に自分を明け渡す・・それが「霊のいけにえ」なんですね。
 そしてそれが、神に用いていただける「聖なる祭司」がしなければいけないことだと言っているわけです。

 この「聖なる祭司」は地のすべての民を神のもとに導く役割を担う・・、それは紛れもなく神の栄光に満ちた役割です。
 それは、暗闇の中を歩む多くの民を、光の道、喜びの道、希望の道へと導くという役割なんですね。

 人がこの地上で生きる意味。それはイエス・キリストによって、全く新しいものへと変わってしまうのです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.13.Wed 18:29 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 
G-Cafe 聖書のことば #138

【福音その22】地上での目的地

" 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。"
  ペテロの手紙 第一 2章4~5節

 前回は、イエス・キリストにある者が行き着くところ・・、それは永遠のいのちをもって生かされる天の御国だということを書きました。
 今回は、この世においての行き着くところ・・、それがテーマです。

 有名なことわざに、「朱(しゅ)に交われば赤くなる」というのがあります。朱とは赤色の顔料のことで、交わる相手や環境によって、人は変わっていくものだというのです。

 今日のみことばでは、あなた方・・イエス・キリストにある者・・は「霊の家に築き上げられ」るのだと言っています。
 クリスチャンは、朱ではなくて「主と交わる者」となったんですね。そして、主とともに変えられていく・・そういう者とされたんです。
 ではどういう者にされるのかというと、「霊の家」だというのです。
 
 霊の家・・それはもちろん得体の知れない霊ではなく、神の霊、すなわち聖霊が住まわれる家ということです。

 イエス・キリストを心に受け入れた者は、聖霊と共に歩む者となります。この聖霊は「御霊(みたま)」とも言います。
 そしてクリスチャンは、この御霊と交わりながら、段々と赤くなっていく・・のではなく、聖(きよ)くなっていくんですね。
 まさに「主と交われば聖くなる」です。

 クリスチャンにはこの世においては、一つの目標「霊の家として築き上げられること」が与えられているのだということをここでは言っているわけです。
 そこで必要なのは何でしょうか。それは言うまでもなく「主と交わる」ことへの熱心さです。でも、そんな熱意・・教えられたからってそんな心が与えられるわけではありません。この熱意も聖霊によって与えられるんです。
 全てが、主から来るんですね。

 このペテロの手紙第一のみことばを、次回も見ていきたいと思います。

 祈り・・「神様、私はあなたを信じています。聖霊が共にいてくださるのでしたら、それがもっとはっきり分かるようにしてください。アーメン」

 もちろんこれはクリスチャンの祈りです。まだこの方イエス・キリストを信じていない方は、その方を心に受け入れることから全てが始まるんですね。全ては聖霊の働きなのです。

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2020.05.12.Tue 11:12 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #137

【福音その21】その行き着くところ

" しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。
 その行き着くところは永遠のいのちです。"
  ローマ人への手紙 6章22節

 前回と同じ箇所。その後半です。
 福音と言い続けて21回目。「だからどうなるの」という話・・、ここにはそれが一言で書かれています。

 それは「神の奴隷」となり、「聖潔に至る実」を得、更に行き着くところが「永遠のいのち」だというんですね。

 神の奴隷・・それは「罪の奴隷」と対比したことばです。従う相手が変わったんですね。それまでは、神抜きにして、自分で自分の歩みを守ろうとする者でした。それが、神という本来のいのちに「取り込まれて」歩もうとする者になった・・。これを神の奴隷というわけです。

 そうすると「聖潔に至る実」を得るというのです。
 聖潔とは、神の聖(きよ)さのことです。神は一点の曇りもなく、完全に聖いお方です。
 そしてそこに至るのだと言っているわけですから、すぐに神のように聖くなるわけではなくて、そこに向かって歩き始めるんですね。
 そう。「向き」がはっきりするんです。

 その向きがはっきりしていれば、到達点というものがあるわけですが、それが「永遠のいのち」だというわけです。

 これは神様の働きなんですね。
 クリスチャンというのは、天国行きの列車に乗った人なんです。

 クリスチャン・シンガーソングライターの岩渕まことさんの「永遠鉄道」という曲が、最近は渥美二郎さん他の方がカバーしたりして話題になっていますが、その歌詞の冒頭は・・

♪ 車輪は踊りだし レールは歌い出すよ
この列車は走る 永遠鉄道 ♪

 この列車に乗れば、車輪は踊りだし、レールは歌い出す・・と歌っています。
 そして目指す町は「とこしえの都」。。。

 私たちに与えられた天国行きの切符というものがあるんです・・。これが福音です。
 その切符の名はイエス・キリスト。

 イエス様は言われました。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と。

 私たちは「聖潔」などという言葉とは、およそ縁のない者です。
 それはどんなに踏ん張ったって、行けるわけのないところです。
 私たちは、自分の力ですることをあきらめなければなりません。

 イエス様は次のように言われました。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカの福音書 18:27)

 私たちが永遠鉄道に乗るには、ただ信じるだけなんです。
 だけ・・というと、「簡単でしょ? 」という風に聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、それしか道がないという意味なんですね。

 クリスチャンというのは、「死」を目の前にしていながらでも、永遠を目指す者へと変えらた人なんです。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.11.Mon 06:24 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #136

【福音その20】 しかし今は・・

" しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。
 その行き着くところは永遠のいのちです。"
  ローマ人への手紙 6章22節

 イエス・キリストを救い主として、自分の心にお迎えすると、全く違う世界に生きる人になるんですね。
 変わることの大きな一つは「価値観」です。

 人によって、価値観は様々です。それがお金だったり、地位とか名誉とかだったり・・。

 人生において、それなりの結果を出さないと、その人は価値がないという感覚・・ありませんか。でもそこにはお金のための、また地位のために、身をすり減らす戦いがあるんですね。
 また、人のため、社会のために一生懸命仕えようとしていた人たちも大勢います。そういう人達は世の中にとっては大切な存在です。でも、それが大きな働きになってくると、それが都合の悪い人たちが出てきて、これまた過酷な戦いに巻き込まれたりします。その相手は、国だったり人の利己的な思いだったり・・。でもそれを避けることはできないんですね。「良いことをしようとする人たち」は、必ず戦いに巻き込まれるのです。

 そこにあるのは、両者ともに「人」との戦いなんですね。それは実は「人の罪の性質」との戦いなんです。そしてそれは、自分の罪の性質との戦だったりするんですね。
 その戦いは結構辛いものです。神経をすり減らされて。。そして挙げ句の果てに、金を失ったり、権力を失ったり、国に負けたり、社会に負けたり、ライバルに負けたり、そして自分に負けたり・・と。

 でも、そんな生き方とはまったく違う生き方があると、ここでは言っているんですね。

 人々は、戦いのために、生き残るために、家庭の幸せを得るために、はたまた良いことのために、、自分の知恵と力とを尽くして戦い抜く。それはこの世の常識でもあります。でもそこには神が居ないんです。これが「罪人が生きる世界」です。

 しかし今は・・、罪から解放されて・・と言っているんです。
 以前は、そんな世界の中で奴隷状態だったというのです。それを「罪の奴隷」と言っているわけです。そして今は、そこから解放された・・というんですね。そして「神の奴隷」になったというのです。

 奴隷というのは、嫌な立場ですよね。それが神の奴隷ということであっても、奴隷は嫌です。でもその意味は何かというと、神と共に生きるということなんですね。

 その神は「いのち」であり「道」であり、「真理」だというのです。

「価値観の土台」が、全く変わるんです。


 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.09.Sat 12:51 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #135

【福音その19】 生ける神
  
" 主はこう言われる。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。
 わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造った。
 それで、これらすべては存在するのだ。
 ──主のことば──
 わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。"
  イザヤ書 66章1~2節

 こうして「神」のことを毎日書いていることが、なんだか不思議に思えることがあります。とてもつかみどころのあるはずもないその存在について、なんで自分はこうも熱心に毎日書いているんだろう・・と。
 だったら、これを読む人・・特に、神のことなどほとんど興味のない人にとっては、全く接点のない、無意味な言葉に聞こえてくるのは無理もないことかなあと思うんです。
 私自身がそのような人でした。

 今日のみことばは「主はこう言われる」という言葉から始まっています。
 これはそういう人の全てをひっくり返す力を持った言葉なんですね。
 それはあなたに語りかける「神」という存在が発する言葉なのだ、と宣言しているからです。

 主なる神様が何を言われるのかというと・・、天がわたしが座るところで、地は足を乗せる台に過ぎない。人が神のために神殿を建てるというが、そこにわたしが入らなければいけないのか。そこでわたしが休むとでもいうのか。
 あなたは神殿を建てて、それを自分が建てたと言うのか。
 はっきり言うが、これほどの勘違いは、ちょっと見当たらないというほどのことだ。
 
 そこに何か出来上がったのなら、それは「わたしの手が造った」のだ。だからそれがあるのだ。
 あなたは、神に認められるためにそれをしようとしているのか。それがどれだけの勘違いか、あなたは全くわかっていないではないか。
 大体、あなたが「神」を認めるということ自体がわたしから発したことなのだと、、、あなたは夢にも思っていないのではないか。

 全ての「原因」であるわたしとあなたがつながるとしたら、それはわたしがあなたに目を留めるからなんだよ・・と、神は言われるんですね。
 なぜ、わたしがあなたに目を留めたのか・・それをあなたに教えよう・・。
 それは、あなたが「貧しい者」で「霊の砕かれた者」で「わたしのことばにおののく者」だから・・という、そのことでしかないんだよ・・と。
 貧しい者とは、自分の持つものが、全く自分のものではないことを知っている者のこと。
 霊の砕かれた者とは、自分の持つ意思とか精神力とか能力が、全く自分のものではないことを知っている者のこと。
 わたしのことばにおののく者とは、語られたことばが、神から発しているかもしれない・・、そう思う者のことなんだよ・・と。

 福音は、宗教ではなく、慰めのことばでもなく、神のことばなんですね。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.08.Fri 06:59 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #134
 
【読者からの質問】#132について

 #132において、私は以下のように書きました。使徒信条についてです。
「(終わりの時にキリストは再び来られて)・・その時に生きている者、そして「死んだ者」をさばかれる、というのです。死んだ者がどうしてさばかれるのでしょうか。それはよみがえって主の前に立つからです。」・・と。

 これに対して、以下の質問をいただきました。
・・よみがえって主の前に立つのは神を信じた者も、そうでない者もみんなのこと?

 答えは「そうです」となります。
 このことが書いてあるのは、黙示録の20章12節・・
" また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。
 数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。
 死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。"

 これは生を受けた「すべての人」についてのことです。
 このことが起きるのは、終わりの時の大艱難時代を通して、地上の楽園「千年王国」が出現し、さらに、その王国が終わった後にある「白い御座におけるさばき」のことなんですね。
 そして、その時に「いのちの書」に名が記されている者は、そのあとの「天のエルサレム」という永遠の御国の民とされるというのです。
 この最後の筋書き・・結構ややこしいんですね。

 ただここで問題なのは、死んだ人々が〜御座の前に立つ、と書いてはあるのですが、「復活して」御座の前に立つとは書いてないというところです。
 それ以前に「第一の復活」という言葉が出てきます (黙示録20:5)。それはキリストにある者たちが死者もよみがえって天に引き上げられ、後に「千年王国を治める者となる」ことを指しています。彼らは「第二の死」すなわち、最後のさばきは関係ないというのです。
 ならば第二の復活という言葉が出てきても良さそうなものですが、それが出てこないんですね。
 しかし、それはこの「白い御座のさばき」の時以外に、それらしいところはないのです。

 白い御座のさばきの時に「御座の前に立つ」ことを、死者の復活とするのか、それとも、その時のさばきを通して「いのちの書に名が記されている者が永遠のいのちを受けることを「第二の復活」とするのか・・、その点については、なんとも言えないというのが正直なところです。

 押さえておくべきは、死んだからといって、それで終わりではないということ。
 そしてイエス・キリストを信じる者は、死んでもキリストにあってよみがえり、永遠のいのちを与えられる。
 そう。罪と死の力は打ち砕かれ、よみがえる・・というところです。

 使徒信条の言葉を持ち出したので、返って本筋がボケてしまったみたいです。
 #132本文の「教会では毎週の〜ただの儀式で終わりです。」を削除していただいた方が、意味が伝わるかもしれません。

 駆け出しメッセンジャーとしては、痛いところを突かれました。(笑)
 こうして質問をいただくと、いろいろ足りないところを扱えるので、とても感謝です。

 ありがとうございました。

 God Bless You ! (神様の祝福がありますように)
 
 
2020.05.07.Thu 12:01 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 2005-06.jpg

 突然世の中が全く別のものになってしまう・・そういうことを自分が目の当たりにする時が来るとは、夢にも思っていませんでした。
 なんとなく、思いの奥の方では、またいつか元に戻るといった感覚があるのですが、それはむしろ捨てた方がいいのかなと感じています。
 世界各国の力関係にしても、以前と同じに戻るということはあり得ない情勢です。ならば、「コロナ後」について、私たちはそれなりの覚悟をもって、新しい時代に臨む必要があるのではないかと思います。

 音楽家の演奏形態が今後どういうものになっていくのか、、それも今は全く見えない状況です。
 いろいろな形で歌や演奏を共有する試みがなされています。そんな中で私たちは、なぜ演奏をするのか、誰に向かって、何のために演奏をしているのか・・、そういった基本的なことを突きつけられながら、新しい道を模索して行くことになるのではないかと思います。

 ある意味では「目を覚まされる」時になるのかもしれません。

 緊急事態宣言がひと月延ばされた今、ライブなどが全くない状態が続くと、徐々に動きが鈍くなってくる自分を感じます。危ないです。

 自分のことを考えると様々な心配につながります。そんな時に友人や家族、隣人のことを考えて動くとき、なぜかある種積極的な思考で動いている自分がいたりします。
 このような時代に、「守り」ではなく「攻め」で行くための意外な秘訣・・それは、人のことを考える・・なのかも知れません。

 ともかく、ミュージシャンの仲間たち、そしてそれにつならる様々な業種の方々が、今を生き延びることができるように、ひたすら祈るものです。

 さて、こちらも例に漏れずですが・・
 6月に予定していましたTRIO’のツアーは延期することにいたしました。ベースの森泰人が来れても二週間待機とかだったり、また、私たちが東京から地方に出かけて行くことが、そのまま感染拡大の片棒をかつぐことになり、何しに来たと言われるだけですし、はたまた、あの車に三人がぎゅう詰めになって、長距離を走るなど、想像しただけでも息苦しくなります。(笑)

 ということで、先の見通しは全く立てることができませんが、いつかまたTRIO’として皆様にお目にかかる日が来ることを願っています。

 大野雄二関連ですが、Lupintic6も大野雄二トリオも今までは全てキャンセルとなっています。今後のスケジュールについて、まだ予定がキャンセルされていないものもありますが、とりあえずは、ライブができる、コンサートができる・・そんな機運になって来た時に、改めてご案内させていただく所存です。

 濃密であればあるほど嬉しいライブ・・なんとも悩ましいことです。

 皆様におかれましても、この「戦時」をしっかり乗り切りましょう。
 生活のことで希望を失うようなことも他人事ではない昨今、もうちょっと待てば・・ということはいくらでもありそうな状況です。
 治療薬ができた。ワクチンができた。補償金が出た。・・それが後から後から出てくる可能性がある時期ですので、決して希望は失わないよう・・悲観的な思いに捕まることのないよう・・、みなさんの心が神様のみ手の中で守られますように。

 God Bless You ! ファンの皆様、ミュージシャンの皆さん、関係者の方々 ! ! !

 
2020.05.06.Wed 20:42 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #133

【福音その18】神の愛

" 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって神の愛が私たちに示されたのです。"
  ヨハネの手紙 第一 4章9節

 神の愛が私たちに示された・・。
 
 神は天地万物の創造者です。ですから宇宙よりも大きい存在なんですね。宇宙も神によって作られたというのです。
 作られたもの・・それを被造物と言います。宇宙も被造物ですし、人も被造物です。
 私たちは、宇宙を見るとき、そこに偉大な創造者を見ます。また、生き物を見るとき、たとえそれがミミズであっても、そこに偉大な創造者のみわざを見るのです。
 その全てが神のわざであることを認めるとき、その存在の偉大さに私たちは驚愕するのです。
 その英知は計り知れません。私たちにはその一部が見えるだけです。
 私たちは、確実に神より小さい者なんですね。
 ですから、人は神を完全に理解することはできないのです。
 その神が被造物である「人」に、ご自身の愛を示そうとされたと、今日のみことばは言っているのです。

 神が私たちを愛してくださっている・・。
 いつも優しい、父なる神さま。
 決して見捨てず、共にいてくださる神さま。
 人々に平和と喜びを与えてくださる神さま・・。
 ・・だったらどうしてこの世には戦争とか不幸とかがあるの ? と、そういう声はよく聞きます。

 人々が神という言葉を聞くとき、そこに勝手に作り上げる舞台があるんですね。それは「神の園」です。その神の園に人がいるという想定の舞台です。
 ですから、そこに理不尽なことがあれば、どうしてそういうことがあるの? という「神の責任」的な発想になるんですね。
 でも聖書は最初に釘を刺しているんです。人がまず神の園から飛び出した。そこから人の歴史は始まっているのだと・・。
 人はまことの父の家から飛び出してしまった「放蕩息子」だというのです。
 だから、父のことは忘れたい・・それが人なんです。
 自分で、勝手にやりたいんです。
 すべては、自分の力でやっていると思っているんです。

 神の愛が私たちに示された・・。
 それは「そういう私たち」に示された愛なんですね。

 そのために神は「ひとり子」を世に遣わされたというのです。
 それによって、「いのちを得させてくださった」というのです。
 そうやって神の愛を表されたというのです。

 この言葉の大前提・・それは、人々は「まことのいのちを損なっている」ということです。
 まことのいのちとは、神ご自身のことです。
 宇宙より大きな存在が神であり、私たちが受ける分がその神ご自身である「いのち」だというのです。これはもう、理解の範囲を超えています。

 でも、そのいのちを得た者は知るんですね。自分がまことのいのちを損なっていたことを。そしてそれが与えられたことがどんなに大きなことか。そしてそのいのち自体の価値がどれだけのものか・・。
 それを与えるために、宇宙より大きな方がそのひとり子を赤ん坊という形をとって地上に遣わし、その方によって人々がまことのいのちに立ち返るようにされたんですね。
 このようにして、神は私たちに愛を示された・・というのです。

 この9節は、次のように続きます。(10節)
 
" 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。"

 神の愛とは、このことなんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.06.Wed 12:35 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #132

【福音その17】最も大切な証言 復活

" ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空(むな)しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。"
 コリント人への手紙 第一 15章12-14節

 パウロは三つのこと、すなわちイエス・キリストが「私たちの罪のために死なれたこと」「葬られたこと」そして「よみがえられたこと」・・それが最も大事なことであると、同じ3章の3-5節で語っています。
 そしてそのあと6節から11節までは、そのよみがえられた様子を語り、そして今日の箇所12-14節に続いています。要するに、三つの大切なことの中で、よみがえられたことに最も多くの言葉を割いているわけです。

 パウロは、イエス様がよみがえられたことを、これでもかというほどに語っていたし、他の弟子たちもそれを語っていたわけですが、全くそれを受け付けていなかった人たちがいたんですね。彼らは「死者の中からの復活はない」と言っていたのです。

 今の世でも、イエス・キリストは死んで三日ののちによみがえったのだ・・と言っても、多くの人は「はいそうですか」「それは良かったですね」「あなたの心の中ではね」「それは立派な信仰です」・・といった具合で、そこには「私は信じませんけどね」という思いが隠れているわけです。
 でもパウロは、そうだったらそんな信仰はアホみたいなものにしか見えないでしょう、本当に死者の中からのよみがえりがないのだとしたら、自分たちが信じているのはただの「絵に描いた餅」だし、そんなものは単なる気休めにしかならないと、私だってそう思いますよ・・と言っているのです。

 でも、キリストは本当によみがえられたのだ・・と、パウロは大声で言っているのです。

 教会では毎週の礼拝で、使徒信条というものを読み上げます。そこにはこんな一節があります。
 ・・主イエス・キリストは「〜三日目に死者の中から復活し、天にのぼり、全能の父なる神の右の座に着かれました。そこから来られて、生きている人と、死んだ人をさばかれます。〜」
 イエス様は天に上られて、終わりの時には「そこから来られて、生きている人と、死んだ人をさばかれる」と・・、そういう信仰を毎回自分の口で告白しているのです。
 もしそれが絵空事ならば、その告白もただの儀式で終わりです。
 
 イエス・キリストは本当によみがえり、本当に天に上り、そして終わりの時には本当に来られて、その時に生きている者、そして「死んだ者」をさばかれる、というのです。死んだ者がどうしてさばかれるのでしょうか。それはよみがえって主の前に立つからです。
 
 これを街に出て言って叫んで言えば、一笑に付されることは間違いありません。は人々は、そのことに思いをとめようとは、全く思わないんです。

 そういうこの世において、パウロは大声で言っているんですね。
 イエス・キリストはよみがえられたのだ・・と。
 イエス・キリストは死の力をうちやぶられたのだ・・と。
 イエス・キリストは再び来られるのだ・・と。
 そして、私たちもよみがえって、主の前に立つのだ・・と。

「よみがえり」ということがあるのです。
 それを最初に実現して見せられたのがイエス・キリストなんです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
  
2020.05.05.Tue 09:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #131

【福音その16】予想していなかった道

" それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。"
  ローマ人への手紙 6章4節

 今日は、前回と同じ箇所の後半を特に見ていきたいと思います。
 
 人は、イエス・キリストを自分の内にお迎えすることによって、キリストとともに死に、キリストとともに新しく生まれ変わるということを見てきました。
 そこにあるのは、罪の赦し、罪と死とさばきからの解放、恐れからの解放、永遠のいのち、永遠の住まい、希望、喜び、そして神と人とへの愛。そして、主なる神ご自身。そう。主ご自身が共にいる人になるなんです。
 イエス・キリストを救い主として信じるということが「義」すなわち神の目から正しいことだと認められ、これらすべてのものが「恵み」として与えられるのです。
 恵みとは、およそふさわしくない者に与えられるという意味です。
 これが福音ですが、今日の箇所には、それは「新しいいのちに歩むため」なのだと書いてあるわけです。

 新しいいのちに歩むということは「ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたよう」だと言っています。少し難しい言い回しですね。
 人の子として来られたイエス様は死なれました。その死からのよみがえりは、御父の栄光の表れだというのです。そして私たちも「それと同じように」新しいいのちに歩むのだというのです。
 死んでしまった自分を、完全に主なる神に明け渡すことによって実現する歩み・・それが神の栄光を表す「新しいいのちの歩み」だというわけです。

 私たちは神様のところに立ち返った後にも、自分の考えで歩もうとしますが、そんな私たちの上には、私たちが思ってもいなかったような神の計画があるとしたら、どうしますか ?
 私たちが自分の計画を捨てて、もっぱら神の計画のために自分を使っていただこうと、自分思いや計画を神様に明け渡すとき、そこに神の栄光を現わして歩む道があるというのです。

 私たちクリスチャンは、主の心をいただくと、今までにはなかった「良いこと」を考えるようになったりしますが、気がついたら神様を脇に置いて、自分で立てた計画の中を一生懸命に走っていたということがよくあります。
 それは言ってみれば仕方のないことです。しかし神様はそんな私たちに「静まる」ということを教えてくださっているんですね。

「部屋の奥まったところ」で主と二人きりの時間を持ちなさい・・と。

 新しいいのちに歩む・・それは、死んだ者の上にある、自分の考えで歩むのとは全く違う、別の世界への神様からのいざないなんですね。

" あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。
 そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
  マタイの福音書 6章6節

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.04.Mon 12:43 | 未分類 | trackback(0) | comment(1)

G-Cafe 聖書のことば #130

【福音その15】新しい歩み

" 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
 それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。"
  ローマ人への手紙 6章4節

 私たち(クリスチャン)は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られたのだ・・と言っています。ちょっと難しい言い方ですね。
 バプテスマとは洗礼のことですが、ここでは教会で行われる洗礼のことを指すのではありません。

 私たちはイエス・キリストを自分の内にお迎えしたことにより、「キリストの死をいただく」者となるということをずっと言ってきたわけですが、「キリストの死にあずかるバプテスマ」とはそのことを言っているんですね。

 キリストを内にお迎えした者は、私たちの罪のためのキリストのあがないの死が、聖霊によって自分の内に現実のこととなります。
 簡単に言えば、キリストと共に死んだということになるわけですが、なぜ死ななければならないのかというと、罪の性質の奴隷となっている「古い人」には「死」が必要だからです。
 人は「古い人」には死んで、罪の支配からは解放される必要があるんですね。

 さらにそれは、古い人の死で終わるのではなく、新しいいのちに歩む・・それが目的だというのです。
 そしてその歩みは、「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように」実現するのだと言っています。
 
 イエス・キリストを信じた者は、十字架のキリストと共に死んで、復活のキリストと共に新しい歩みを始めるんですね。
 御父の栄光によるとは、ただただ神の御力によって・・と捉えていただけたら良いと思います。
 私たちは、使命感や努力や精神力によってそれを始めようと思っても、挫折するしかない者です。しかし共に歩んでくださる主を信じて、主の御手にすべてを委ね、主に従っていく・・そのことで、その新しい歩みは実現するのです。

 この4節に続いて、5節にはこう書いてあります。

" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
  ローマ人への手紙 6章4~5節


 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.05.02.Sat 13:53 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #129

【福音その14】十字架5 なだめのささげ物

" 彼の時代の者で、だれが思ったことか。
 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。"
  イザヤ書 53章8節

 前回と同じ箇所の後半です。

 彼の時代・・それはイエス様が十字架にかかられたその時代。
 誰がそんなことを思っただろうか・・
 イエス様が十字架で死なれたのは、神に対する民の背きのためだったと。
・・ということになります。

 これはイエス様の時代より700年前に書かれたものですが、当時の人々にはこの文を見て、ピンとくるものがありました。
 彼らは自分の罪のために、羊や山羊などのささげ物を神の前にささげていました。それは、その動物を殺し、血を流し、そしてその肉を火で焼くというものでした。
 これは、人々が勝手に考え出して、こうすれば自分たちの罪は赦されるだろうと思って始めたことではなく、神がモーセに与えた律法に基づくものでした。
 
 今の時代、動物愛護などの観点から、この話を聞くと、わけがわからなくなります。神は愛の神じゃなかったの ? とか、神が動物を殺すことを推奨するとはどういうこと ? ・・という風に捉えたりするわけです。

 神は、罪をそのままで赦すということは、されなかったんですね。神は人に、罪の意味をはっきりと知らせなければなりませんでした。そこで、このような方法を選ばれ、民に命じたのです。
 人は、自分の罪のために、動物を自分の手で殺して、血を流さなければならなかったのです。さらにそれを火で焼いて灰にしてしまうのです。
 今の時代で言えば「そのような残酷なこと」をして初めて、それが自分の罪の重さなのだとわかるように・・、これが当時の人々に神が示されたことなんですね。動物のいけにえは、決して軽いものではないのです。

 人々は、動物を殺すことで、その罪がいのちに関わっていることを、罪を犯すたびに思い知らされたわけです。

 ですから、「彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれた」ということばの意味は、当時の人々にとっては直接響いてくるものがあったんですね。
 民の背き・・それは神の愛に対して、それを不要のものとする、最大の不遜の罪です。
 そしてその方が殺されて血を流すのは、その民の罪のためのささげ物なのだ・・そういう理解で受け止めることができたわけです。
 そして誰もそんなことは思わないだろう・・ということの意味もわかるわけです。

 そして実際に、イエス様が十字架にかかられた時、人々はそれが、まさか、自分たちの罪のための神へのささげ物だったなどとは、夢にも思わなかったわけです。

 しかし、イエス様の弟子たちは聖霊によって、悟るんです。これはイスラエルのためばかりではなく、神に背を向け、この神をまことの神としないすべての人の・・その罪のためにささげられたものだと・・。
 
  " 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥(なだ)めのささげ物として公に示されました。"
 ローマ人への手紙 3章25節

 イエス・キリストの十字架の重さは、あなたの、そして私たちの罪の重さを示しているのです。
 神はそれを、私たちの罪のためのささげものとして、受け取ることができるようにされたのです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.05.01.Fri 09:54 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #128

【福音その13】十字架4 病を負われ

" 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
 だが、口を開かない。
 屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことか。
 彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。"
  イザヤ書 53章7~8節

 このイザヤ書53章は、旧約聖書にあるメシヤ預言の中でも、十字架の様子を最も克明に言い表しているところです。
 このイザヤ書はイエス様がお生まれになる700年前に書かれたものです。旧約聖書には「来るべき方」の預言が星のように散りばめられています。そのひとつひとつが実に正確に書かれているんですね。

 さて、ここではキリストの悲惨な姿が描かれています。まさにイエス様が十字架にかかられた時の様子です。

 イエス様は鞭打たれ、唾をかけられ、祭司長や長老たちの訴えには何もお答えになりませんでした。(マタイ27章)
 まさに「彼は痛めつけられ、苦しんだ、・・ほふりばに引かれていく羊のように・・口を開かない」とある通りです。
 そして、彼の時代の者はイエスの姿を見て、それが「民の背きのゆえに打たれ、死なれた」のだと思うような者は一人もいない・・と書いてあるのです。
 イエス様と3年以上も共に過ごした弟子たちでさえ、イエス様の十字架を目の前にして、このイザヤ書に思いが至った者は、一人もいなかったのです。

 このイザヤ書53章は、12節までという短いものですので、ぜひ全体をお読みになってください。

 その方、来るべき方は、「痛みをになった」「罰せられた」「悲しみの人」「蔑まれた人」「打たれた」「苦しめられた」「砕かれた」「病を負わせられた」・・。
 イエス・キリストはこのすべてをその身に負われたというのです。

 キリストは、信じる者の内に入ってくださり、「古い人」の死と、よみがえりがそこに実現するのだと、前回書きました。 
 ですから、これらの境遇に立たされる私たちの内にも、キリストがそのすべてを負ってくださったということが現実になるのです。

 主と共に歩む者には、状況と関係のない平安が伴うというのは、こういうことなんですね。主がそれらすべてを負ってくださり、そして死をも負って下さったのです。
 そして、そのすべての力を打ち破ってよみがえられたのです。

 主を信じる者の内に、そのことが実現するんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

  
2020.04.30.Thu 12:20 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #127

【福音その12】信じる者はだれも

  前回の箇所と同じ、その前半をもう一度見てみます。

" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。"
  ローマ人への手紙 6章5節

 前回、パソコンのアプリの話をしました。信じた者は「聖なるアプリ」がインストールされているパソコンのようだ・・と。

 イエス・キリストは、肉のからだを釘付けにして、死に至り、そしてそこからよみがえられて、天に上られ、今も生きておられる方です。
 この方がそっくりそのまま、信じる者の内にいのちとして入ってくださる、という話です。

 しかし信じた者は、内に入ってくださった方をどのように受けとめるか、それはその人次第なんですね。
 アプリは入っているんだけど、使わないで忘れてしまったら、そのアプリは眠ったままです。
 前回はそのことに触れたわけですが、それ以前に肝心なことがあることを、はっきり伝えていなかったように思います。
 それは「信じることで」その聖なるアプリがインストール(取り込まれて)されるのだ、ということです。

 要するに、イエス・キリストを救い主として信じて、心の内にお迎えするなら、その人の内には「イエス・キリスト」という方がいのちとして入って来られ、「キリストの死」と「キリストの復活」がその人の内に現実のこととなる、ということです。
 イエス・キリストを心にお迎えすということは、イエス様はあなたの罪、すなわち古い自分のために死んでくださり、実際に死んで、三日ののちによみがえってくださったのですから、そのことがあなた自身のこととして起こり始める、ということなのです。

 昭和の時代にはクリスマスシーズンになると、救世軍が街角で生活に困窮している人たちのための募金活動「社会鍋」をする姿をよく見かけたものです。その時に歌われていた賛美歌・・。
 全く信仰を持っていなかった私にもその歌詞が頭に残っています。それは・・
 
 ただ信ぜよ ただ信ぜよ
 信ずる者はたれも 皆救われん

 これが、「古い自分をどうすることもできない私たち」に神が与えて下さった救いの道なんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.29.Wed 13:49 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #126

【福音その11】十字架3 生きている者のための死

" 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちは知っています。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 死んだ者は、罪から解放されているのです。"
  ローマ人への手紙 6章5~7節

 ここで言われている「私たち」とは、イエス・キリストを救い主と信じ、心に受け入れた人のことです。
 その「私たち」は、キリストと一つになっているというのです。
 信じる者の内に、イエス様は入ってくださいます。それは言うまでもなく、霊的な意味で言われていることです。
 イエス様は「わたしがいのちです」と言われた方です。イエス様を受け入れた人は、その「まことのいのち」をいただいての歩みが始まるんですね。

 救われて、まことのいのちをいただくというのは、例えばパソコンに新しいアプリケーションをインストールすることを思い浮かべてみると分かりやすいかもしれません。
 パソコンは機種によってその力量は違うわけですが、実際に何をするかは、そこに入っているアプリで決まるわけです。能力のあるパソコンに「悪のアプリ」を入れれば、それは悪いことをすることについては強力な働きをするわけです。しかし、そのアプリが「聖なるアプリ」なら、そのパソコンは、聖なることのために大いなる力を発揮するようになるというわけです。
 
 さて、今日のみことばにある「キリストの死と同じようになり、キリストと一つになっているなら」というのは・・
「古い自分」には死んでしまって、内に入っていただいたキリストをいつも主として仰ぎ、その方が何を喜ばれるのかということに、もっぱら心を用いようとするなら・・、ということです。
 そしてその人は「キリストの復活とも同じようになる」というのです。それは今までとは違う、新しいいのちに生きる人に生まれ変わるということです。

 ここでは信じた者のことを「キリストと共に十字架にかけられた者」と表現しています。
 古い自分、すなわち、パウロが言っていた「みじめな自分」はもう死んでしまうというのです。そして「罪の奴隷」ではなくなるというんですね。

 イエス・キリストを信じた者は、キリストと共に十字架にかけられたという「型」が、自分の内に実現するんですね。そしてさらに「復活」が自分の内に実現するのです。

 罪の奴隷とは、自分中心という自分の中にある原則から、どうしたって抜けることのできない「古い人」のことであって、キリストとひとつになるとは、そんな縛りからは解放された新しい歩みが始まることを意味するわけです。

 死んだ者は、罪から解放されているのです・・。
 死んだ者とは、「古い人」が死んだという意味です。
 キリストの十字架の死は、「生きている私たちのための死」なんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.28.Tue 12:26 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #125

【福音その10】十字架2 愛のしるし

" 「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。
 ただし、ヨナのしるしは別です。"
  ルカの福音書 11章29節

 今までずっと主張してきたことは、聖書に書いてある神こそがまことの神で、この神は「わたしが神である。他にはいない。」と言われる神であること。
 そしてその神が天地万物を作られた方であるということ。
 そしてこの方は創造主なのだから、それ以上に大きな存在はない。宇宙よりも大きい存在であるということです。
 そしてキリストはその神と共に初めからおられ、人と神をつなぐ、私たちが認識することのできる「神の形」であること。
 さらに信じる者たちを直接導き、その存在を確信させる「聖霊」という「神の形」があるということでした。
 これを三位一体(さんみいったい)と言うわけですが、それはご自身が造られた「人」のために、神が備えられた「神の形」なんですね。
 人がいなければ、三位一体は必要ないのです。
 この三位一体とは実は、神の、人に対する愛の形なんですね。

 キリスト教は「宗教」ではありません。
 聖書の神は、人の想念によって見いだされた神ではなく、神自らが語られ、人を導き、そしてこの世の始めも終わりもその手に収めておられるという、唯一の神であって、その神ご自身が人に書かせたのが聖書だというのです。

 ですからそれは一歩も後には引けない内容なのです。
 そこまで言うなら、それが本当か、全くのでたらめか、どちらかしかないということを神ご自身が言っているというわけですから・・。
 その中間はない。捨てるか取るかしかない話なんですね。

 ここに書いてあることが本当ならば、えらいことなんです。
 なぜなら、神がいたんですから。
 その神を知らなかったんですから。
 それが不遜であるなどとは、思ったこともなかったんですから。

 でも、神はあわれみに富むお方で、そんな私たちが、その神に向き直って、そちらを見るだけで、渾身の愛をもって私たちを迎えてくださる・・そういうお方なんですね。

 前回は、十字架の話への入り口でした。それは「神に従うことのできない」みじめな人間の話でした。それはこのまことの神を認めようとしない人の姿なんですね。
 それを聖書は罪人だと言っているわけです。しかしこれは、アダム以来ずっと引き継いできた「肉の性質」なので、しょうがないんです。
 そこで神は、人があることをするチャンスを与え、そのことで人がいのちの道に入るようにされたんですね。
 そのチャンスとは、「この神こそがまことの神である」ということを信じる・・というチャンスです。

 神はそこに御子の十字架の姿を見せられました。これをあなたは何と受け止めるのか・・。それはあなたの罪の赦しのためのしるしなんだよと。

 十字架は簡単なものではないです。ただ絵を見ているようにして十字架を眺めることはできます。私もイエス・キリストに出会う前までは、教会の前を通っても、十字架をみても、それは人が釘付けにされている姿なのに、、なんとも思いませんでした。

 十字架は、神が私たちに、まことの神の存在を知らせるための、また、まことの愛を知らせるための、父なる神と御子キリストが私たちのために示された「しるし」なんですね。
 預言者ヨナが三日三晩魚の腹の中にいて、そこから生還し、ニネベの人たちに悔い改めを宣べ伝えるという出来事・・、それしか「しるし」は与えられない・・とイエス様は言われたのです。

 十字架は神のしるし。神の愛のしるしなんです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.27.Mon 10:41 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #124

【福音その9】十字架1

" 私たちは知っています。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
 罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。"
  ローマ人への手紙 6章6節

 前回は、神に近づこうと思っても、近づくことができない者の話でした。パウロは自分のことを「みじめな人間」で「死のからだ」を持つ人間なのだと言って、罪人の本来の有様を言い表しました。
 人は「生まれながらの罪人」なのだというのです。
「義人はいない。ひとりもいない」「彼等は平和の道を知らない」「彼等の目の前には、神に対する恐れがない」と聖書に書いてあるではないか、とパウロは言っています。(ローマ人への手紙3:10-18)

 自分が罪人であるということを知るということほど、難しいことはないかもしれません。
 罪とは、まことの神から離れていることです。それは神を否定すること。そしてその心から出てくるのは、人を傷つけようとする思いなんですね。

 その性質は、余裕のある時にはかくれています。しかし、気持ちの余裕がなくなると、返って自分の行動原理が見えてきたりします。
 今人々は、突如としてこの閉塞した世界に閉じ込められましたが、そこで徐々に現れてくるのがそのことなんですね。
 私たちは教育によって、してはならないことを教わり、それを守り、それを実践し、平和な関係を実現しています。しかし、それが崩れ始める時、人は人を責め始めます。
 私たちは実は「みじめな人間」で「自己中心」という王座に座っている者なんですね。
 
 私たちは「助け」がないと、ここからは抜け出られない者なのだと、聖書は言っているわけです。そしてそれは、「罪の奴隷」という状態だというのです。

 パウロはそのような私たちのことを「古い人」という言葉で表現しています。そしてその古い人は、十字架につけられる必要があるというのです。
 それは生まれながらの肉の性質なのだから、釘付けにしてしまわないことには、それはいつまでもうごめき続けるのだと言っているわけです。
 私たちは「罪のからだ」を持つ者で、実にキリストの十字架はそのためなのだ、というのが今日のみことばです。

 そう言われて、なんとなく ??? となる方もおられることと思います。
 だって、キリストが十字架にかかったことと、自分と何の関係があるの? と思うからです。

 イエス・キリストは、直接私たちの内に入って、私たちに関わってくださる方なんですね。そしてそのことは、人がその存在を信じて、自分の内にお迎えすることによって起きるのです。

 その時に、キリストの十字架は自分の中に実現するのです。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.26.Sun 08:28 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #123

【福音その8】生まれながらの罪人

" 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。
 私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。"
  ローマ人への手紙 7章18~21

 福音シリーズに入ってから、8回目になりますが、まだ核心に至っていません。福音の核心とは、罪と十字架と赦し、そして神の愛です。そういった意味では、周りから攻めて行ったという感じでしょうか。罪ある者が雪のように白くされるとか、滅びる者とか・・。

 前回は「いのちの場所」というテーマでした。
 罪人(つみびと)とは、いのちそのものである神から離れてしまっている人のことです。神との間には深い溝ができていて、そこに帰ろうとしてもなかなか帰ることができないのです。
 その結果は、神のもとから「独立」して生きようとする・・ということになるわけです。そしてその性質が、アダム以来、今まで綿々と続いてきたというのです。
 
 罪人の性質の基本は、神を認めたくない・・というところにあります。自分の本当のいのちの父である神を認めない・・。それを罪人と言うのです。
 
 パウロはその罪人についてこんな表現をしています。(今日の箇所です)
 自分の内には善が住んでいない・・。
「良いことをしたい」という思いは十分にあるんだけど、実行ができない・・。
 結局のところ、自分をよく見れば、したいとは願っても、やっていることは「悪」だと・・。
 ここで言う悪とは、具体的な悪行もありますが、その出発点は「心の内にある思い」です。
 それは、はなかなか気付かないものです。

 罪ということについては、自分の心の深いところを見させられるということなしには、そのことに気付くことはありません。大体が、自分は善人だと思っていますから・・。
 しかしパウロはここで告白しているわけです。その罪の性質に気がつき、自分の内に「罪が住んでいる」と。

 人は「生まれながらにして」罪人なんですね。

 パウロは続いてこう言っているわけです。
「私は本当にみじめな人間です。
 だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。〜」(ローマ7:24-25)

 自分は罪を治める力などない者だけど、そのみじめな状態、即ち「死のからだ」から救われる道が「私たちの主イエス・キリスト」によって与えられるのだということがわかった・・。ああ、なんという感謝なことだろう。

 これがパウロの喜びの叫びです。

 十字架・・ほぼ目前に見えてきました。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.24.Fri 09:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #122

【福音その7】いのちの場所

" わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。
 人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。"
  ヨハネの福音書 15章5節

 前回の「滅びる者?」では、人はまことのいのちである神から離れて「死ぬ者」となった、ということを書きました。この死は、肉体の死だけでなく、霊的な死でもあります。それはいのちである神から離れたまま死ぬからです。
 神は万物を創造されたとき、「すべてが非常に良かった(創世記1:31)」と言われました。
 人は初め、造り主である神と共に生きる「非常に良い」ものという存在でした。ところが人は、神と共に生きることが許されていたエデンの園から追放されてしまったんですね。「非常に良かったもの」としてスタートすることは出来なかったわけです。

 神はノアの時代に至って、地が暴虐で満ちるのをご覧になり、「すべての肉なるものの終わりがこようとしている」と言われ、洪水を通してノアとその家族だけをそこから救い出されました。
 ノアについてはこのように記されています。

" ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。
 ノアは神とともに歩んだ。"
  創世記 6章9節

「神と共に歩んだ」・・、それが神がノアを選ばれた理由だったんですね。

 イエス様は言われました。「わたしはぶどうの木」であると。そして私たちは枝だというのです。またイエス様はこうも言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と。(マタイの福音書14:6)
 結局、いのちというのは主ご自身のことであって、私たちはその主につながっていれば「実を結ぶ」のだということです。「実」というのは、自分で力んで実を実らせるのではなくて、ただその幹にくっついていさえすればいいんですね。これが「神と共に歩む」ということであるわけです。

 イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と、はっきり言われました。
 私たちのいのち、正しさ・・それは、神につながっていることで、それ以外にそれを望めるところはないと言われたのです。

 ところが・・です。私たちの内には、主に堂々と顔を向けることができない「何か」があるんですね。それを「罪」と言います。心の内を照らされると、そこにはそのまま神のもとに帰ることが出来ない「何か」があるんです。
 イエス様は「わたしがいのちである」と同時に、「わたしが道である」と言われました。それは、そんな私たちが神のもとに行くために用意された道だという意味です。
 その道・・そこには私たちの罪のためのあがないである「キリストの十字架」があるんですね。

 いよいよ十字架に近づいてきました。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.23.Thu 11:14 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #121

【言葉の解説】イスラエルとユダヤ人

 #119にて、同一民族を「イスラエル」「ユダ」「ユダヤ人」と、いろいろな言い方をしていることについて、その解説をしてほしい旨、お声をいただきました。

 イスラエル・・、これは元々アブラハムの孫であるヤコブが、神の祝福の約束をいただいた時に与えられた新しい名で、人の名なんですね。
 そのイスラエルには12人の子がいました。そこから12部族によって成る強大な民族へと成長するわけですが、この民族を指す時にも「イスラエル」と言うわけです。
 このイスラエルは奴隷状態のエジプトから脱出し、荒野を40年間過ごし、約束の地カナンに入って、王国にまで発展します。「イスラエルの民」という言葉を使う時には、そういう背景を思って使うことが多いように思います。

 イスラエル王国は一つの国でした。しかし、ダビデ王が犯してしまった罪、またソロモン王が犯してしまった罪の結果、北の10部族と、ユダ部族+ベニヤミン族そして祭司職を務めたレビ族によってなる南の三部族という、二つの王国に分裂します。これが「北イスラエル王国」と「ユダ王国」なんですね。(ここには全部で13の部族が出てきますが、それはヨセフの部族が二つの部族として数えられているからです)

 ですから「イスラエル」とはヤコブの名であり、また民族の名であり、分裂後の北王国の名もであり、また現在のイスラエルという国の名でもあるわけです。
 そして「ユダ」はヤコブの子の名であり、そこから生まれた民族の名であり、また分裂後の南王国を指して言うことがあり、さらに、メシヤはこの部族から出るという特別な意味合いを込めて「ユダ」と言われることもあるわけです。

 北イスラエル王国の腐敗ぶりは目を覆うばかりで、偶像を礼拝する異邦人との混血が進み、神に導かれてきた「イスラエル」の影も形もなくなってしまう有様で、そのままアッシリア帝国に攻め取られ、捕囚の民(外国に連れ去られる)となり、その消息はわからなくなってしまいます。これを「イスラエルの失われた10部族」と言います。

 南王国ユダはさらに100年以上持ちこたえますが、結局バビロン帝国に滅ぼされ、彼らも捕囚の民となります。しかし奇跡的に帰還を果たし、神殿を再建し、モーセの教えに立ち返って熱心に信仰生活を始める人たちが起こされます。これがイエス様が来られた時代まで続くわけです。新約聖書に出てくる「ユダヤ人」とは、その時そこにいたイスラエルの子孫たち、バビロンから帰還したユダ王国の末裔のことなんですね。
 しかし彼等の信仰も形骸化され、イエス様や、その来臨を預言していたバプテスマのヨハネからは「まむしの子孫」と言われる有様に成り果てていたわけです。

 結局ユダヤ人は、イエス・キリストを受け入れたユダヤ人と、彼等を迫害するユダヤ人とに分かれるわけですが、クリスチャンとなったユダヤ人たちは世界中に散っていき、残ったユダヤ人は、支配国ローマに逆らい、こちらもAD70年には完全に滅ぼされて、世界中に散らされて行きました。

 その後ユダヤ人は、世界の民の中で混ざり合ってわからなくなってしまうことなく、その民族性を保ち、ひどい迫害に遭いながらも、世界中の富を握り、優れた人種と言われる存在となっているんですね。そして1948年には「イスラエル」が建国されます。
 なので、今の時代にユダヤ人というと、世界中に散っていった人の中でその民族性を保っている「ユダヤ人」たちのことであるわけです。
 そしてもう一つ、今もエルサレムの「嘆きの壁」で祈り続けるユダヤ教のユダヤ人。彼らはキリストはイエスではなく、これから来るのだと主張している人たちです。

 まだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、ここまでにしておきます。

 God Bless You !
 
 
2020.04.22.Wed 14:39 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #120

【福音その6】滅びる者?

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
 ヨハネの福音書 3章16節

 このみことばは「聖書全巻をひと言で言い表したみことば」と言われる有名な箇所です。

 前回は、救いとは「滅びる者であるところからの救い」なのだということを書きました。
 それを初めて聞いた方の率直な反応は、「私たちは滅びる者なの?」ということなのではないでしょうか。
 普通でしたら、自分は滅びる者だとは思っていないです。ところが、今日のみことばでは、神は私たちが滅びないで、永遠のいのちを持つために、御子を送って下さったと言っているんですね。
 ここには 、「滅びる」ということばと「永遠のいのち」ということばが対比して書かれています。

 死・・、それは全ての人に必ずやってくるものです。しかし最初はそういう予定ではなかったことが、聖書に書かれているんですね。
 アダムが神の言葉に逆らって「善悪の知識の木の実」を食べてしまった時、神のアダムに対する宣告の中にこんな言葉があります。

" あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」"
  創世記 3章19節

 この時から「人」は死ぬ者となったというのです。
「神が共におられる」というエデンの園は、そこに生かされていること自体が「永遠のいのち」なのだという話なんですね。
 この世に生きる人は、そのまことのいのちを損なった者だというわけです。だから生きていても、その意味がわからないのです。

 神の全計画は、この失われた永遠のいのちを、御子を送ることによって「人」に回復させるものだというのです。そしてそれが具体的に実現するのが、終わりの日に続く「神と共に生かされる天の御国」だというわけです。クリスチャンというのは、この地上でその前味を味わいながら生きている者なんですね。

 人類は、まことのいのちを損なった者として、アダム以来その歴史を刻んできた・・、これを「罪人(つみびと)」と呼ぶわけです。

 人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯すんですね。
 世の中のすべての不幸や悲惨や暴虐は、罪人のなせるわざだというわけです。
 私たちは罪人で、滅びる者として生を受けているというのです。しかしイエス様は言われました。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書 14章6節)

 イエス・キリストという存在がいのちであって、その存在自体が「父のみもとに行く」ことだというのです。

 イエス・キリストは、滅びに定められている私たちに、神とともにあるという、まことのいのちを回復させるために来られたんですね。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.21.Tue 10:16 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #119

【福音その5】赦すために残された者

" その日、その時──主のことば──
 イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。
 わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」"
 エレミヤ書 50章20節

 この福音のシリーズ。今回は「赦すために残された者」です。

 その日、その時、、イスラエルの咎を探してもそれがない。ユダの罪も見つからない、、とエレミヤは語っています。
 そして主は、その人たちを「わたしが残す者」だと言っています。そしてその者は「わたしが赦す」から、咎を探してもそれはないし、罪も見つからない・・というのです。

 ユダの民の罪により、神はバビロン帝国を使ってユダを滅ぼされました。
 イエス様が「わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」と言われた通りで、イスラエルの民はその結末を自ら招いてしまったわけです。
 ユダの民はボロボロになりますが、その中に「残された者」がいて、その者の咎は探しても見つからないというのです。彼等は神のさばきの中から残された者、即ちさばきにあわずに救い出された者で、しかも彼等は神の目から見て咎が見いだされない、「雪のように白い」(イザヤ1:18) 者となるというのです。

 人はイエス・キリストを信じることによって、神はその人の上にキリストの流された血を認め、「咎は認められない者」とされるんですね。それ以外に「罪がない」という可能性など、どこにもありません。
 イエス様を十字架にかけたのは他でもないユダヤ人ですが、イエス様を信じた人もユダヤ人から起こされてきたわけです。
「罪が見つからない」と言われるユダヤ人がいるとしたら、まさにこのユダヤ人たちを置いては他にいません。彼等こそが「わたしが残す者」であるわけです。

 そして現在、メシヤニックジューといわれる、クリスチャンになるユダヤ人が急速に増えていると言われています。まさに本家本元の民が、本当のキリストに立ち返って来ているというわけです。彼等も正真正銘の「残された者」であるわけです。

 ですから、ここでエレミヤが言っている「その日、その時」・・それは、イエス・キリストによる救いの福音が宣べ伝えられ始めてから「終わりの日」に至る、今の時代だということになるわけです。

 そしてこれはイスラエルだけではなく、全世界のすべての民族に与えられた救いの「型」でもあるんですね。

 イエス・キリストを信じる者は、滅びの中から「残されて救われた者」なんです。

 聖書の救いのメッセージは、滅びる者の中からの救いなんです。
 滅びという決定事項からの救いなんです。
 だから「救い」なんですね。

 福音・・さらに続きます。


 God Bless You !
 
 
2020.04.20.Mon 10:25 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #118

【福音その4】天の軍勢

" その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。"
 ヨハネの黙示録 19章13~14節

 今日の箇所は、イザヤ書から一気に黙示録へと飛びます。
 
 イザヤ書の「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」ということばは、罪の赦しを思わせる、しかも完全にきよめられるということをイメージさせる預言でした。
 今日の黙示録の箇所は、「終わりの時」にキリストが再び来られる時のことですが、あのイザヤ書のみことばとの関連で見てみたいと思います。

 終わりの時には7年間の大艱難時代があり、その最後にはこんなことが起こると、黙示録には書いてあります。

 それは、富を愛し、むさぼる者たちと、大都市の栄耀栄華を手中に収めるサタンとが、再び来られるキリストの激しい憤りによって徹底的な裁きを受け、栄華を極めた都とそれを享受した彼らの生活は壊滅状態になり、サタンは縛られて穴に閉じ込められる・・。
 そしてその後には、地上の楽園=千年王国が実現する・・。
 しかし千年が経つと、閉じ込められていたサタンがもう一度解き放たれ、神とその民とに戦いを挑む。しかし一瞬のうちに、サタンと神に敵対する者たちは、火の池に投げ込まれる・・。
 これが地上での出来事の終わりです。
 そしてさらにそのあとがあって、地上で生きた全ての者がよみがえってさばかれ、そのあとに「いのちの書」に名が書き記された者のために、新天新地「永遠の御国」が用意される、というのです。
 ざっとこれが黙示録にある「終わりの時」の流れです。

 そしてもうひとつ大事なことがあります。それは、クリスチャンはこの最後の時より以前に、天からイエス様が迎えに来られ、死んだ者も生きている者も、一気に天に引き上げられ、神と共にいる者となる、ということが書かれているのです。
 これを「携挙(けいきょ)」と言いますが、このことが起こるタイミングについては意見が分かれています。
 私は、黙示録の5章にすでにこの「天に挙げられた聖徒たち」が登場しているところから見て、携挙は本格的な大艱難時代が到来する前、あるいはその始めの時にあるという説を支持しています。

 今日の箇所は、地上の最後の楽園=千年王国が実現する直前に、キリストが再び来られる時のことです。それは、神を汚し 聖徒たちを迫害し 富を慕い求める者たちの上に、キリストの激しい怒りが下る時ですが、その時にクリスチャンはすでに天に引きあげられ、地上にはいないということになるわけです。
 そしてその時には「その方」キリストが、白くきよい亜麻布を着た天の軍勢を率いて来られるというのです。
 ですから、この「天の軍勢」こそが、すでに天に挙げられた聖徒たち=クリスチャンだということになるわけです。
 その彼らが「血で染まった衣を着た方」に従っている・・、これが終わりの時のキリスト再臨の時の様子だというのです。

 この軍勢こそが、「その罪が緋のように赤かった」けれども「雪のように白くされた」者たちの大群勢なんですね。

 次回に続きます。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.18.Sat 15:05 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #117

【福音その3】完全なきよめ

"「主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
 たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。"
 イザヤ書 1章18節

 イザヤ書は、旧約聖書の預言書の筆頭で、BC750年前後に書かれたものです。
 聖書の預言書とは、ひと言で言ってしまえば、主なる神によって育まれてきた民イスラエルが、神から離れてしまったことへの警告の書なんですね。
 このイザヤ書1章の1節からを要約して書くとこんな風になります。

  主なる神はこう言われる。
  わたしはあなたがたイスラエルを子として扱い、育ててきたのに、あなたがたはまことの神であるわたしに背いた。
  動物でも飼い主のことは知っているのに、イスラエルは知らない・・。
  あなたがたはわたしの民なのに、それを悟らない。
  神に背く者はわざわいだ。あなたがたの方から、聖なる方「主」を捨てて離れ去ったのだ。
  あなたがたはその神に対して、犯行に犯行を重ねた結果、結局わたしの警告通りに、他国に侵略され、ボロボロになり、地は荒れ果て、町々も焼かれてしまっている。
  しかし、その中で残されて救われる少数の者「娘シオン」がいる。
  これらの者がいなかったら、民としては完全な滅亡状態になるであろう。
  今頃多くのいけにえを持ってきても、あなたがたがわたしをまことの神である主として愛し、従わないのだから、そんなものにどういう意味があるというのか・・。 
  他のものをあがめ、わたしの喜ぶことを求めようともしないで、わたしのもとにきてささげ物をし、礼拝の格好をするあなたの行いをわたしは憎む。
  そんなままで、いくら礼拝と言ったって、わたしがそれを受け入れることが出来ようか。
  あなた方の手は血まみれだ。
  わたしはすべてを見ている。その悪い行いを取り除け。
  善と公正と正しいさばきと、弱者への思いやりを取り戻せ。
  さあ、わたしと論じ合ってみよ・・
  ・・主は言われる・・

 と、そのあとに書かれているのが、今回の部分です。
 ・・そんなあなた方の罪が真っ赤っかであっても、雪のように白くなる。べっとりした血のようでも、羊の毛のようになる・・。

 そして続いて、こう書かれています。(要約です)

 ・・今からでも、あなた方が喜んでわたしのことばに聞こうとするなら、あなた方は祝福を受ける。
  しかし、それでもまだわたしを拒むなら、剣があなたがたを食い尽くす・・。

 神様の私たちに対する基本的な姿勢が、ここに宣べられています。
 それは、どんなに罪深くても、神はそれを雪のように白くされる・・ということです。
 雪のようにとは、全く罪のかけらも見当たらないということです。

 神様からのメッセージは、「あなた方は、汚点の全くない、完全にきよい者となるのです」というものです。実はここに十字架の意味がかくれているんですね。

 神は、完全にきよい者しか受け入れられない方なんです。しかしながら私たちは、そんなものからはほど遠い存在です。

 十字架・・これが神の救いの要なのです。もちろん、この話はここで終わりではありません。


 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.17.Fri 05:47 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #116

【恐れるな】

" 強くあれ。雄々しくあれ。
 彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。
 あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。
 主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」"
 申命記 31章6節

 この箇所は、イスラエルの民が40年間の荒野の旅を終え、ヨルダン川を渡っていよいよ約束の地カナンに入っていこうという時のことです。
 モーセはエジプトを出たときから、100万人以上の民(男子だけで60万人)を率いてここまでやってきました。

 モーセはこの時120歳でした。そして自分の役目はここまでであることを知り、民に告げたことば。それが申命記29〜33章です。

 民の間には緊張感が走っていました。今までは、毎日天から降ってくるマナを食べ、生活の中には色々な恐れや危険もあり、不平や不満もありましたが、指導者であるモーセに従って、ここまで守られてきました。
 ところがイスラエルの民は、今までにない、全く未知の、新しい一歩を踏み出すというところに立っていたわけです。
 カナンは「乳と蜜の流れる約束の地」です。今までの荒野とは違う、豊かな地です。そこにいよいよ入って行く時が来たわけです。でもそこは「空き地」ではありませんでした。
 約束の地と言えども、これからイスラエルの民がすることは、侵入であり、征服だったわけです。すなわち、彼らは戦いに出て行って、もともと100万以上もいた民が、これから住まう地を確保するための戦いが始まろうとしていたわけです。

 民はそのことがいよいよ現実に迫っていることを知ります。
 それは、約束の地に入ることであると同時に、非常な恐れを伴うことでもありました。
 恐れと緊張。不安がありました。しかし逃げ出すこともできない。これに失敗したらもう行き場がなくなってしまうのです。
 しかも神の人として民を導いて来たモーセは、この後天に召され、リーダーとしての役割はヨシュアに引き継がれるというのです。

 今回のみことばは、そのような、恐れ不安におののく民に言われた、主からのことばです。
 今人類は、先の見えない、とても不安な状況にあります。三ヶ月前には、まさかそんなことがあるなど、誰も予想だにしませんでした。突然やって来たのです。
 しかしこのみことばは、そんな私たちに与えられていることばでもあるんですね。

 強くあれ、雄々しくあれ。・・それは、気持ちも萎えてしまっている「強くなれない民」への言葉なんです。
 恐れてはならない。おののいてはならない。・・それは「恐れてしまっている民」への言葉なんです。
 あなたの神、主ご自身があなたと共に進まれるからだ。・・それは誰も助けがなくて、なんの保証もない中で「絶望に近い気持ちになっている民」に言われていることばなんですね。
 そんなあなたをわたしは決して見放さず、見捨てないから・・と、わたしは約束を必ず果たすから・・と、主ははっきり言われているんです。

 今こそ主を信じる私たちは、このみことばを握りしめて立ち上がり、恐れるのではなく、主にある者としての役割を果たすべき時だという思いをもって、主に従って戦いに出て行く時なんですね。

 恐れるな・・、それは「恐れる者へのことば」なのです。

 祈り・・「主よ、私が目の前にあることではなくて、あなたに目をとめることができますように、助けてください。」

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.16.Thu 13:21 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #115

【福音その2】三位一体の神

" 地の果てのすべての者よ。
 わたしを仰ぎ見て救われよ。
 わたしが神だ。ほかにはいない。"
  イザヤ書 45章22節

 福音・・それは天から啓示された神からの「良い知らせ」です。
 前回はその第一回目。神が人を造られたというところから始まりました。
 二回目はその造り主である神について、知っておかなければならないことがあります。
 それは「三位一体(さんみいったい)の神」についてです。

 神ははっきりと「わたしが神だ。ほかにはいない」と言われるお方です。
 ところが前回見たみことば、創世記1章26節には、神は「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」と言われて人を造られた、と記されています。
「わたしが神だ。ほかにはいない」と言われるのに「われわれの」と言われているわけです。
 ここに三位一体という言葉が必要になるのですが、実はこの言葉は聖書には出てきません。それは聖書に記されている神を表現するためにまとめた「教理」としてのことばなんですね。
 神は唯一なのですが、その在り方が三つあって、それは人のために現される神の三つの姿だというのです。

 イエス様は十字架にかかられる前の祈りの中で、こんなことを言っておられます。
" 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。
 世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。" (ヨハネ17:5)

 イエス様は神を父と呼び、世界が始まる前から父である神様とすでに共におられたと、自ら言われているのです。
 ここに「われわれ」ということばの意味があるんですね。
 イエス様は、天地創造の初めから永遠の御国まで、神の御手によって出現される世界における「神」としての存在なんですね。この方がキリスト=メシヤなんです。そしてその方が人の子として地上に来られ、イエスと名付けられました。それがイエス・キリストです。

 そして三位一体の三つ目の存在が「聖霊」です。御霊(みたま)と言うこともありますが、それは同じ存在です。
 この聖霊は、イエス様が天に上られたのちに「助け主」として私たちに送ってくださると約束された存在です。
 私たちにとっては、具体的に触れてくださる神としての存在なんですね。
 聖霊が私たちの目を開かせ、教え、導き、悟らせてくださるんです。そして私たちの内にいて、神ご自身を確信させてくださるのです。

 ところがこの方も天地創造の始めからおられる神としての存在なんですね。
 聖書には創世記1章1節で「はじめに神が天と地を創造された。と書かれているすぐ後の2節に早速登場しています。
・・" 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。"
 聖霊も神としての存在だと受け止めて良いのです。この方を「聖霊様」と呼ぶ人たちもいます。

 というわけで、父なる神、子なるキリスト、助け主なる御霊・・、それはひとつの神という存在なのです。
 こうなると、私たちの理解の範囲を超えてしまっているという感じがしますが、これが聖書に示されている神なんですね。
 そのことを先ず神の基本と捉えていただけると、聖書も楽に読めるようになると思います。

 祈り・・「神様、三位一体の神について、それは私の理解の範囲をはるかに超えていますから、それがわかるようにしてください。アーメン」

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.15.Wed 10:31 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #114

【福音 その1】人

" 神は仰せられた。
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」"
 創世記 1章26節

 前回は、今までの流れをまとめてみました。せっかくですから、その一つ一つをもう一度見直してみたいと思います。
 まずは、どうしても最初にお伝えしなければならない「福音」。それが #1 から #11 まででした。

 #1は、創世記 1章1節。"はじめに神が天と地を創造された。"・・ここから始まりました。
 神が天と地と、その中のすべてべての生き物を造られ、最後に神の形に似せた「人」を作られた、というところから全てが始まったと聖書には記されています。
 その最初の人がアダムとエバで、神は彼らを、神と共に住うという楽園「エデンの園」というところに置かれました。

 彼らは神に似せて造られたんですね。それはどういうことなんでしょうか。

 彼らは神と共にあるので、いつも神が共にいてくださるという安心感と平和の中で過ごしていました。しかし神は、そんな彼らがぼーっとして過ごすようにではなく、意志を持ち、それを働かせる者として、彼らを造られたんですね。
 神は、人が「意志」をはっきり、しっかり働かせるようにと、人を造られたのです。それが「神に似せて造られた」ということです。

「善悪の知識の木から、その実をとって食べてはならない」という命令には、そういう意味があったわけです。あなたの意思で神のことばを選び取りなさいよと・・。
 神は全能ですから、そんなことは人に任せないで「根っから忠実にそれを守る人」を造ることもできたんですが、そうはされなかったんですね。ここがすごいところです。
 これが、神が人を造られたということの大事なポイントなんですね。
 ところが人の歴史は、意志の用い方を任されたということで、とんでもない暴虐の世界に向かってしまいます。
 そこにある問題は「神不在」ということでした。

 今世界中を巻き込んでいる、このとんでもない状況は、完全に神不在の思想から発生した事態です。
 もちろん、多少なりとも神を意識する西欧といえども、ひどいことはしてきていますが、今回の神不在の思想の実例は、「純粋に神不在」であるわけで、それがどういう運命を辿るか、ものすごくわかりやすいサンプルを私たちはこれから目撃することになるのだと思います。
 もちろん目撃と言っても、他人事ではなく、その中で私たちもそのような「人類の歩み」を実体験していくことになるわけですが・・。

 神はアダムに「意志」という特権を与えられたわけです。
 そしてアダム以来、人は与えられた意思を、神のことばに従うということよりも、自分の考えを優先させるということの方に使うというところから、すべてが始まったというわけです。

 すべての人は罪人だということの核心がここにあるわけです。

 これからしばらく、そんな人類への救いの知らせ「福音」について、もう一度見ていきたいと思います。

 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)

 
2020.04.14.Tue 12:08 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)

G-Cafe 聖書のことば #113

【聖書を読み始める】今までのまとめ

「G-Cafe 聖書のことば 」を始めて、100回を越えました。

 このシリーズは、これを読む方が、イエス・キリストという実存の方を知り、その方と直接交わり、また、神のことばである聖書から直接みことばをいただき、そして神から与えられる聖霊によって火がついて、自分で走り始めるようになる・・それが目的です。

 ですので初めての方には、#1から読まれることをお勧めしています。

 ということで、今回は、バックナンバーについて、大雑把なまとめを作ってみました。

 主題は、福音、聖霊、聖書、祈り、信仰生活、神であるキリスト、クリスマスとイースター・・と、7つのテーマがありました。

 1.福音(ふくいん)・・ #1-11 初めて聖書の話を聞かれる方へ。

 2.聖霊・・ #12-17, 51 御霊(みたま)も同じ意味です。

 3.聖書・・#18-36 (途中#22 はクリスマス)

 4.祈り・・#37-52 祈り (その内 #39-48 は「主の祈り」)

 5.信仰生活・・#53-83 (その内 #57-66は「神の武具」、#72-83は「エペソ人への手紙2:1-9シリーズ」)

 6.神であるキリスト・・#84-112 (ヨハネの福音書シリーズ)

 7.クリスマスとイースター・・#22(クリスマス)、#109〜112(受難週とイースター)


 バックナンバーは市原のブログでご覧になることができます。
 http://ichiharablog.blog83.fc2.com/ 又「市原康」で検索いただけば「ドラマー市原康のなんじゃもんじゃ」というタイトルのブログが見つかります。

 2019年12月4日が第一回目となっています。
 ネットを使われない方には、プリントアウトして差し上げていますので、お申し越しください。

 これを読まれる方々が、夢中で聖書を読むようになりますように!

 
 God Bless You !
 (神様の祝福がありますように!)
 
 
2020.04.13.Mon 09:11 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






PROFILE

いっちー
ドラマー市原康です。
TRIO'のこと、
ライブスケジュール
そしてキリスト教談義・・
・・再開です。
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