" このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」"
マタイの福音書 21章4~5節
今まで「イエス様のことば」を取り上げ、見てきましたが、ここからマタイの福音書はイエス様がいよいよ十字架にかかられ、復活されるまでの一週間の出来事に入っていきます。
ですから「イエス様のことばシリーズ」はお休みして、この受難週と言われる一週間の出来事を見ていきたいと思います。
エルサレムは「過越の祭り」を一週間前に控え、通常は4万人ほどの街に15万〜20万人ほどの人々が集まり、神殿周辺はテントや仮小屋などが立ち並び、街は興奮と愛国心と宗教熱の空気が満ちていた・・と解説書にはあります。
群衆は「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高きところに。」と言ってロバに乗られたイエス様を迎えました。
それは本当に興奮の中でひしめき合っていた群衆だったんですね。
福音書の記事の大きな目的は「イエスがキリストであること」を証明することです。そしてこのロバの一件も、それは預言書にちゃんと書かれていることなんだと言っているわけです。
それは旧約聖書のゼカリヤ書9章9節にありますが、これが書かれたのはイエス様の時代の500年前です。
" 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。"
ユダヤの人たちは聖書の預言については子供の頃から言い聞かせられています。そして群衆が見たその光景・・それがまさに「ロバに乗って入城される王」イエス様だったんですね。
そのイエス様を群衆は熱狂的に迎えるわけです。
ホサナとは元々「今、救ってください」という意味でしたが、それが単に「栄光あれ」という賛美の言葉として使われるようになっていたようです。
とにかく群衆はこれから起こることに、胸を膨らませて期待をしていたわけです。
そして、その後に起きた出来事が・・十字架なんですね。
人々が予想した「何か良いこと」と、神が計画されていた「救いのみわざ」とは、全く異なるものだったというわけです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。"
マタイの福音書 20章32~34節
刻一刻と十字架の時が迫っているその時の話です。そこはエルサレムまで20キロ足らずのところでした。
イエス様の周りには少なくとも七十人の弟子たちと女性たちがいましたから、100人以上の取り巻きがいて、さらにイエス様に付き従っている大勢の人々、そしてそこに群衆が押し寄せるという状態でした。
盲人は叫びました。あまりの人垣でイエス様のところには近づけなかったので、叫ぶしかなかったのです。
もう時がない・・。彼らは直感していたのではないでしょうか。
イエス様は盲人の声を聞き逃しませんでした。
イエス様は彼らを呼び寄せ、尋ねました。「わたしに何をして欲しいのか」。
それに対して彼らは「主よ、目を開けていただきたいのです」と。求めははっきりしていました。
彼らは直感していたのではないでしょうか。今この時しかイエス様に近づける時はない。
なぜかこの記事を読むと、今の時代を思い起こすんですね。
今のこの時を逃したら、もうイエス様に近づくチャンスがない・・。
その時に、叫び求めよ。イエス様に。
イエス様を救い主、神の子キリストと信じて「私を憐れんでください」・・と。
時は近い。すでに2000年経って、イエス様が再び来られる時が目前に迫っている・・。
しかし直前でも叫び求めれば、イエス様はあなたに振り向き「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねてくださるお方なんですね。
彼らはすぐに見えるようになり、イエス様について行った・・とあります。
残りの生涯をイエス様について行く人になる・・それは天国への道を歩む人になるということです。
それは短いときかもしれませんが、地上で果たすべき仕事をした人として、喜びと希望を持って残りの時を過ごす人に変えられるんですね。
この地上にいる間に果たすべき仕事・・、それはまことの神を信じることです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。」"
マタイの福音書 20章22節
イエス様がこれから十字架にかかることになるという話をした時に、ヤコブとヨハネの母がきて、息子たちが天の御国で最高の地位「キリストの右と左に座る者」となることを願います。
尋ねたのは母親なのに、イエス様がお答えになられた相手は「あなた方」となっています。
そしてその「あなた方」にイエス様は尋ねます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と。すると「彼ら」は「できます」と答えたと書いてあります。
話の流れからいえば、できますと答えたのは二人の息子、ヤコブとヨハネということになり、彼らもその母と同じ思いだったということが推測されます。
息子たちは母に向かって「お母さん、そんなことを言うもんじゃないよ」とは言わなかったんですね。
その彼らにイエス様はまず、「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていません。」とお答えになりました。
御国で一番偉い人ついて、先ずその考え方から改めた方がいいですよ・・と言われたわけです。
この後イエス様は、他の十人の弟子たちも呼び寄せて、次のように言われました。
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(27-28節)
クリスチャンは、イエス様と共に歩む者となります。それは言ってみれば「イエス様を慕い求める歩み」です。イエス様が喜ばれることを行い、イエス様と共に歩んでいることを喜んでいるその自分を喜び、そこに垣間見える天の御国の光に励まされながら、永遠への思いを持って歩むんです。
それはまさに「映えある歩み」です。
しかしその歩みは「皆のしもべ」になる歩み。それも自分のいのちを人々にささげるという「イエス様のごとくに歩む」その歩みの中で実現するのだと、イエス様は言われているわけです。
自分をこよなく愛してくださるイエス様とともに、天国の前味(まえあじ)をちびちびと味わいながら歩んでいきたいと思いませんか。
「前味」・・その意味は「店に入る前に感じる ”美味しそうな雰囲気” 」だそうです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」"
マタイの福音書 20章17~19節
イエス様の3年半の公生涯のクライマックスがいよいよ近づいてきました。
イエス様一行は十字架にかかるためにエルサレムに向かっていたのです。
イエス様はそのことをあらかじめ、特に十二弟子たちには具体的に話されました。
彼らがその話を真剣に受け止めるなら、少なくともそれはどういうことなんですかと問うべきでした。しかし「そのとき」と次の20節の話が始まります。
それは十二弟子の中のヤコブとその弟ヨハネの母がやってきて、せっかくの大切な話の場を台無しにしてしまうという話です。
イエス様が十字架にかかられて死んで復活されるという話は、聖書の中でも最重要事項です。それがこの母親が割って入ることによって、瞬時に「天の御国での地位の話」にすり替わってしまうのです。
結局弟子たちもその話に乗ってしまって、十字架と復活の話はそこで吹き飛んでしまったというわけです。
今日のテーマは「大事なことは・・」です。
この出来事から見えてくるのは、イエス様がどうなるかということよりも、自分がどうなるかということの方が大事だったということです。
これはまるで、私たちクリスチャンの日常生活のあり方そのもののようです。
「自分のこと」「自分に関わること」で頭がいっぱいになってしまって、共におられるイエス様がどうなって、何をされようとしておられるのか・・その最も大事な事柄が、簡単に吹き飛んでしまうという・・。
私たちは、思い煩いの多いこの世の中に生きています。ですから、そちらに目を向けた瞬間に、共にいてくださっているはずのイエス様はたちどころに消えてしまうんですね。
そこで必要なのは、それを解決してくださるイエス様のはずなのに・・。
主がいのちで、主が解決で、主が平安で、主が知恵であり知識なんですから。
それらの解決を他の事柄に期待する・・それが「不信仰」と言われるものです。
愛されることによってではなく、愛することによって本当の心の満たしがある・・。
これがその簡単な実例です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章18~19節
今年はどのような一年だったでしょうか。毎日コロナのニュースに浸かって、とうとう暮れまで来てしまいました。
今日のみことばをそのまま受け取るなら、この一年を、ストレスが溜まって当然の一年を、恐れと不安の中にあった一年を、感謝しなさい・・ということになります。
それって、どういう意味でしょうか。
苦しい時は、神に目を向けます。助けてください・・と叫びます。それが当然です。
ところが、御言葉は「感謝しなさい」というのです。
感謝すること・・。それは、生活の中のあらゆることの中に感謝できることを探すという意味もありますが、その苦難自体を感謝しなさいという意味でもあります。
それはどんな状況の中でも「主は良きことをしてくださる方」だと信じることに他なりません。
これが神との関係を維持するために、御霊を消さないで歩むために、私たちに与えられた神からの言葉なんですね。
それはまだ見えていないことを信じて、先に感謝をささげるということです。
イエス様が一番喜ばれたこと・・それはただイエス様は、文句なくすべての権威を持たれるお方だと信じることでした。
感謝できないなら「神様、感謝することの意味を教えてください」と祈れば良いのです。
神が「すべてのことにおいて感謝しなさい」と言われるのですから・・。
新しい年も、いつもいつも主なる神を求めて歩まれる年となりますように。
良い年をお迎えください。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
“「〜このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」"
マタイの福音書 20章16節
今日の箇所は、ぶどう園で働くために出かけた人たちの話で、早くから行った者と、夕刻ぎりぎりに行った者がいて、それが賃金をもらったら同額だった、というショッキングな話の最後のところです。
イエス様はユダヤ人たちが自分たちは神の民であるということに安住していることを、常々厳しく糾弾されていました。イエス様の前に神に遣わされたパプテスマのヨハネもそのことを教えて、ユダヤ人たちに本当の悔い改めを説いていたわけです。
ユダヤ人たちは渇望していたメシヤ(救い主)が来られたというのに、そのキリストを受け入れず、結局イエス様を十字架にかけてしまいます。その彼らは「朝早くからぶどう園に行って働いていた人たち」でした。彼等はずっと以前からぶどう園で神に仕えて働く者だったんです。
しかし、彼らが夢にも思っていなかった「異邦人への救い」を、このメシヤであるイエス様は実現されるんですね。それが夕刻ぎりぎりになってぶどう園に行った人たちです。
結局異邦人と言われていたイスラエルの民ではない人々が先にクリスチャンとしての世界の主人公となり、ユダヤ人たちはあとになるわけです。
今になって、まことのメシヤ=イエス・キリストを信じるユダヤ人たちが急速に増えはじめています。
救いの順番が逆転しているんですね。
イエス様が語られることというのは、常に「終わりの時まで」を見据えての話なんですね。すなわち「天の御国」のことなんです。
このぶどう園の話の中で、私たち異邦人は、夕刻になってさあいらっしゃいと言われている者たちです。
先になるか後になるかは、選びの民であるユダヤ人たちへの警告であって、私たちにとって問題なのは、「そこに行くか、それともやめるか」なんですね。
もう夕刻なのです。
夕刻・・それはひとりの人の人生にとってみれば、死を目前にしている時とも言えます。
明日死ぬ人もぶどう園に行くなら、天における祝福と喜びとその報酬は・・選びの民としての一人前の報酬なんですね。
さあ今ぶどう園に、まことの救いと永遠のいのちが与えられるイエス・キリストのもとにいきましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。"
マタイの福音書 20章1節
福音書を見ると、イエス様の話は天の御国の話で満ちています。
天の御国をはっきり認識するということは、死の先をしっかり見据えるということです。
イエス様がそのことを何度も語られているということは、その御国への道があり、実際にそこに行けるのだということを強調されているわけです。
「天の御国」があるのだと、イエス様は初めから終わりまで言い続けておられるのです。
例えばそれは、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものだ・・これがこの1節から始まるたとえです。
この主人は、ぶどう園で働く者すなわち「御国の民」として主に仕える者を集めるために、朝早くから出かけるというのです。
この例えの中に隠されている一つの真理・・それは、神は初めからこのことを計画しておられるということなんですね。
ぶどう園に集められる人々の中には、朝早くから賃金を示され、ぶどう園で働く人もいれば、「相当の賃金を払うから」と言われて、後から来る人もいる。さらに「何もしないで立っている人」がいて「誰も雇ってくれない」と悲嘆に暮れているところを、とにかく行けと言われて夕刻ぎりぎりに行く者もいた・・。
そしてなんと、彼らに支払われた賃金は皆同じだったというのです。
朝早くから働いている人は不平を言いますが、この主人は「この最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです」と答えます。
天の御国で与えられる報酬・・それは「最後の人」にも同じだというのです。
ということは、ただ「そこに行くかどうかだけがすべてだ」ということです。
同じだけ・・それはそれ以上というものはない「永遠のいのち」なんですね。
日が暮れてしまう前に、この声を聞いたなら、とにかく行きなさい・・、主のぶどう園に。
日が暮れると、もう働けなくなる・・それは地上の人生の終わりの時です。しかしそれがいつ来るのか、だれも予想することはできないのです。
この声を聞いたら、それに応えるのは「今」なんですね。
御国の民へのお誘い・・それはまことのいのちを知らずに夕暮れを迎えてしまうという、滅びからの救済・・そのために主は出かけて来られたんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。"
マタイの福音書 19章29節
この一連の話の流れは、永遠のいのちを得るために、自分の行いで何とかしようという思いがそもそも間違っているのですよ、というものでした。
そしてそれは、神「が」されることなのだから、自分の力などを頼りするのはやめて、神に任せなければいけないのですという話でした。
あなたのことを心配してくださる神を信じ、神にすべてをゆだねた者が、新しい世界「千年王国」においても復活のいのちをいただき、祝福される者になるのだとイエス様は言われたわけです。
そしてこの話の最後が今日の箇所です。
今日のテーマは「優先順位」です。
家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑・・、それを捨てるとはどういうことでしょうか。
「捨てる」ということの意味を、それらを第一にしたり、それらに頼ったり、それらのために行動したりという、一般的には当然のことのように思われていることを一旦横に置く・・という風に捉えると、話の筋が見えてくるかもしれません。
父母を大切にすることは十戒の中にもあるので、捨てるというのは、ないがしろにするということではないことは明らかです。
自分に与えられた物は、神が与えてくださったものなのですから、家族も含め大切にしなければなりません。だからこそイエス様は「その百倍を受ける」にはこうすればよいのだと、本当の祝福の道を教えられたんですね。
その百倍の祝福をいただくには「わたしの名のためにそれらを捨てる」ことなのだ、というわけです。
ちょっとしたパズルのように聞こえますが、要するにこれは、大切にすることの優先順位を間違ってはいけませんよという話なんですね。
自分が与えられているものにしがみつくのではなく、まず主にしがみつきなさい・・。
そうすれば、そこには百倍の祝福があること請(う)け合いです・・とイエス様は言われたわけです。
イエス様を主として、その深いつながりを求めて歩むこと・・これがすべての良いことについての土台なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。"
マタイの福音書 19章28節
弟子たちはイエス様が十字架にかかられるという話をしても、わけがわかりませんでした。
そのわからなかった弟子たちが、イエス様の復活ののち、聖霊によってイエス様による救いのみわざの全貌を知ることになります。
彼らは、旧約聖書に書かれていることの実現をその目で見たわけです。
しかし今日の箇所は、その救いの先にある「新しい世界」での話です。当然のことながら、弟子たちにとってこの話はちんぷんかんぷんでした。
そして今の私たちが立っているのも、この弟子たちと同じ場所なんですね。
今日のテーマは「信じられる話」です。
聖書には世の初めから終わりまでの詳細が書かれています。そしてその通りのことが起こってきました。
ならばこの先もその通りのことが起こり、その時になって聖書に書かれていたことは本当のことだと驚く・・。当然そういうことが予想されるわけです。
イエス様が語られた今日の話は、黙示録に書かれていることに重なってきます。
「人の子が栄光の座につくとき」・・それは黙示録の20章に書かれている千年王国のはじまりのときで、サタンは縛られ、悪霊の働きが一切封じ込められるという「あたらしい世界」です。
そしてそこには、「彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、王として『治めた』」と、未来の決定事項として書かれています。(黙示録20:4)
これらのことは、今日のイエス様のおことばにそのまま重ねて見ることができるんですね。
イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちが聞いていたちんぷんかんぷな話・・その最後のところを、今私たちも聞かされているのです。
ですから、そのことが聖書に書かれているなら、とにかくそれは実現する・・と考えるのはおかしなことではないんですね。
イエス・キリストは再び来られ、信じる者を天に引き上げ、終わりの時にはすべての人をさばかれるのだというのです。
私たちは恐れかしこんで、主を見上げて日々歩む者となるべきなんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
そして、メリー・クリスマス!

メリー・クリスマス!
お話/市原康、賛美/市原よしみ・市原康
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=YoIjb6-J01E
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
※ 一曲目の歌とキーボードのバランスがあまりよくありません。
すでに遅し・・で、💦
悪しからずご了承、お願い申し上げます。
あと・・
最後の曲も多少お聞き苦しい点があるかと思いますが、
平にご容赦を・・・。
" そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」"
マタイの福音書 19章27~28節
金持ちがイエス様の話を聞き、全財産を捨てなければ救われないのかと思って悲しみながら去って行ったあと、イエス様が言われたのは次のようなことでした。
救われるというのは行いによっては達成できないことがわかるでしょう。そんなことはもともとできないんだから。人の弱さとか罪深さを知る父なる神は、人をその行いによって救おうとしたのではなくて、全てを成し遂げることのできる神に全てをお任せすることで、その救いを実現するようにされたのです・・。
イエス様はそのような意味で「それは人にはできないことですが、神にはどんなこともできます。」と言われたわけです。
そのあとのペテロがイエス様に尋ねたのが今日の箇所です。
「ご覧ください。私たちは全てを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」と。
全てを捨てて従って行ったから・・。結局ペテロは「何かをしたから何かもらえる」という考えについては、あの金持ちとなんら変わらないことがわかります。
しかしわからなくとも全てを捨ててイエス様に従っていたのがこの十二弟子たちでした。
そしてイエス様が彼らに言われたことが、このあとのおことば、
「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」です。
弟子たちは、人がどのようにして永遠のいのちを得るのかということについては、まだ何もわかっていませんでした。それはキリストが十字架で死んでよみがえられて、聖霊が彼らに下ってから初めてわかったのです。
ですが彼らは、この方こそが聖書に書かれているキリスト (来たるべきお方、救い主) ということについては確信をもってイエス様に従って行った人たちなんですね。
人が救いに導かれるのは、自分の心のうちにある空洞とか、罪の意識とか、絶望とか、真理を知りたいとかいう強い思いから聖書に導かれ、そしてそれを受け取って行こうとした時に、神の御霊(聖霊)はあなたをイエス・キリストのもとに導いてくださるのです。
あなたがまず第一にしなければならないことは、救いのみわざを遂げてくださったその方ご自身を「ただ受け取る」ということなんですね。
そのときに、自分の罪の身代わりの十字架、よみがえりの新しいいのちを実体験しつつ、その理解をさらに深めていくという、新しい歩みが始まるというわけです。
まずイエス様という方のところに行こう・・。これが全てが逆転する希望の歩みへの入り口なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"「もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」"
マタイの福音書 19章23~26節
この話は、ある人がイエス様のところに来て「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすれば良いのでしょうか。」と尋ねるところから始まります。
イエス様は「なぜ良いことについて、私の尋ねるのですか」と言われ、「全財産を売り払って私についてこれば天に宝を持つ者となるのです」と言われました。それを聞いてその人は悲しみながら立ち去ったというのです。
それは、「良いこと」によって御国に入ろうとするなら、それ以外に方法はありませんという意味です。
今日のテーマは「救いのあるところ」です。
金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方が優しい・・それは、金持ちには有り得ないという意味です。
それで弟子たちはびっくりして、だったら誰が入れるのですかと、イエス様に問いかけます。
それに対してイエス様は「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」と答えられました。それが今日の箇所です。
弟子たちも、イエス様のところに来たあの金持ちも「良いことをすること」が神の国へ通じる道だという考えから離れられないでいることを、イエス様は知っておられました。
そんな彼らをイエス様は「じっと見つめられた」んですね。
私たちも、自分の力でなんとかしようとする姿勢から、なかなか抜け出せないんです。「神にはどんなこともできます」・・それはあなたではなく「神が」そのことをなされるのだという話なんですね。
だったら、そのことがおできになる神に全てをお任せしないことには、それは実現しないわけです。
神「が」天の御国に入る準備を整えられ、あなたにその門を開いたんですよと告げるのが福音です。その準備とは、御子イエス・キリストの十字架の死と復活です。
ですから、私たちはこのイエス・キリストという方にお任せするということ以外に、神の国に入る方法はないのです。
しかしこの簡単なことが、一番理解しにくいことなんですね。
イエス様はあなたをじっと見つめ、「わたしが救いなんですよ。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われるのです。
祈り・・「神様、ただあなたが用意された救い。イエス様を信じることができるようにしてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」"
マタイの福音書 18章32~35節
この家来は返せないほどの負債を主君に対して負っていました。主君はこの男に精算を迫ります。全財産と妻と家族までも売り払って、奴隷になってでも返せというのです。それほどの借金をこの男は背負っていたんですね。
この男はただひれ伏して懇願します。もう少し待ってください・・と。
実はこの王、借金でがんじがらめになってしまうような生き方をしているこの家来を、そんなところから救い出そうと計画していたんですね。それで王は無理難題を言って絶体絶命の窮地に立たせた後、その男の借金をすべてを帳消しにしたんです。
そうすればこの男は自分が赦されたことを忘れず、堅実に自分の生活を立て直すことができるのではないかという期待が、この君主にはあったのではないでしょうか。
この男は仲間にお金を貸していました。それは百デナリ。100日分の労賃です。それは結構な額でした。
この男は自分に負債があるその男を見た途端に、赦す心を失ってしまうんですね。そしてもう少し待ってくださいとひれ伏す仲間を赦すことができず、牢に入れてしまいます。
この家来は一万タラントという、百デナリの60万倍の赦しを受けていたのに・・。
実はこれは私たちのことなんですね。
イエス様は、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。それによって私たちの罪は完全に赦されました。なのに・・情けないことですが、大きな赦しの恵みの中にありながら、人をさばき、赦せないということがあるというわけです。
それではどうしようもない、昔の古い自分のままではないですか。
でもがっかりしないでください。イエス様の救いは完全なんですね。
実は十字架上でのイエス様の死には、罪のあがないと、もう一つ意味があるんです。
それは、罪の性質を持つこのからだの「身代わりの死」だということです。
ですから私たちはイエス様と一緒になることで、罪の赦しは瞬時にいただくのですが、罪の性質を持つからだに関しては、瞬時ではなく少しずつというペースで死んでいき、新しい者へと変えられて行くんです。それがイエス様の死と復活が私たちのうちにあるということなんですね。
ですから私たちは、いつもいつも、このイエス・キリストというお方に自分の身も心もすべてをおまかせする・・それが私たちがするべきことなんです。
私たちを変えていくという核心の仕事は、イエス様「が」してくださるんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

アップしました。
それでも固い私・・賛美歌「弱き者よ」から その2
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=mRuBR_2LkYc
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。"
マタイの福音書 18章12~14節
「小さい者たち」の話はまだ続きます。
羊飼いは、百匹いる羊の中の一匹でも迷い出たらそれを探し、それを見つけた時にはもろ手をあげて喜ぶというのです。
百匹の中の一匹・・。ぼーっとしていて、群れから迷い出てしまったんですね。
もし帰ってきたら、 「お前がぼーっとしてるから、迷ってわからなくなっちゃうんだよ。ぼーっと生きてんじゃねえよ!」と言われちゃいそうですね。
でも羊飼いは、それを探しに行って見つけ出し、連れ戻した時には迷わなかった「九十九匹以上に」喜ぶ・・それは残された九十九匹が嫉妬するほどだというわけです。
残りの者は、あんなぼーっとしてるやつは迷い出て当たり前なんだよ・・と、そんな思いがあったかもしれません。でも彼らは羊飼いがその一匹を見つけたことでそんなに喜ぶんだということを思い知らされるわけです。
九十九匹は、私たちクリスチャンです。そして、そのクリスチャンは迷い出てしまうような仲間をどんな目で見ているでしょうか。
心当たりはありませんか。
実はわたしは、このシリーズを書いていて、「ドンピシャ」の心当たりがあったんですね。
本当に悔い改めなければならないと思わされました。
しかし、主はこんな私にも本当に寛容なお方です。
今日はこんな良いことがあったのに、、急にこんな気持ちになっちゃうなんて・・という感じで、主は聖霊によって私の心に強く迫ってこられたんです。
そこで「主よ、私はその小さな存在を疎ましく思っていました。お赦しください。その人の上には天使がいて、あなたの御顔を今も見ているんですね。私にももっと深い愛と寛容な心を与えてください。」と祈らされました。
神様は、どんな者でも、その顔を主に向け、そして神のもとに帰ろうとする者を心から喜んで受け入れてくださるんですね。
そう・・。私が「迷える一匹」になるところだったんです。
主の御名をほめたたえます。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。
あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。"
マタイの福音書 18章10節
この小さい者たち・・それは「わたしを信じるこの小さい者」のこと、すなわちクリスチャンであって、しかも軽んじられてしまいそうな小さな存在であるひとりひとりであることを見てきました。
今日のテーマは「天使」です。
「天にいる彼らの御使い」ということばが出てきますが、それは天において神に仕える者として造られた存在。すなわち天使と言われる存在です。
御使いは聖書に満遍なく出てきます。そしてイエス様ご自身もその存在について語られているわけです。それはイエス様もその存在を肯定しているということなんですね。
御使いは、聖書全体に出てきますが、新約聖書を見ると、御使いはイエスを信じる人々に仕え(ヘブル1:14)、またその人の死後に行くべきところに連れて行く(ルカ16:22)などの役割を果たすということがわかります。
旧約聖書では特別な人のために働く様子しか記されていませんが、イエス様を信じる者には例外なしに天で仕える御使いがいるというわけです。いわば守護天使といった存在です。
守護天使と聞くと、拝んでしまう人もいるかもしれません。しかし天使は礼拝の対象ではないんですね。
あの黙示録を記したヨハネでさえ、思わず天使を礼拝しようとしたら、天使にたしなめられました。天使はヨハネにこう言ったのです。
"すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、預言者であるあなたの兄弟たち、この書のことばを守る人々と同じしもべです。神を礼拝しなさい。」" (黙示録22:9)
イエス様を信じる者には「この小さい者」にも、他のすべての「信じる者」と同様、その上に「彼らの御使い」という存在があるのだとイエス様は言われているんですね。
そしてその天使は「父のみ顔をいつも見ている」というのです。
それは、絶えることなく神の御心にその目をとめ、その人の歩みのために仕えているのだということです。
この小さい者たちの上にもその天使がいるのですよ。だからどんな小さな者であっても軽んじたりしないように気をつけなさい・・それが今日のみことばです。
あなたの上に天使がいる・・なんだかわくわくしてきませんか。
でも本当にわくわくするべき存在はイエス様なんですからね。
お間違えのないように!
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。”
マタイの福音書 18章6節
今日のテーマは「一人の兄弟の重さ」です。
わたしを信じるこの小さな者たちの一人・・そのことばには、イエス・キリストを信じた者は、私たちの目にはどのように映ったとしても、その人はキリストのものだという思いが込められています。
キリストを信じる者の中には、強い信仰を持つ者もいれば、弱い人もいます。
結局 「小さい者をつまずかせる」とは、弱い信仰を持つ兄弟をつまずかせるという話なんですね。つまずくとは信仰を失なうという意味です。
「つまずきを与えるこの世」とは、この世とはもともとそういう所なのだという意味です。
それは仕方のないことだけど、「つまずきをもたらす者」はわざわいだというのです。
この後には「あなたの手か足が・・」「あなたの目が・・」と、弟子たちに語りかけています。
結局「つまずきをもたらす者」とは「この世」の者ではなくてイエスを信じる兄弟・・すなわちクリスチャンのことなんですね。
この後の話は、迷い出た一匹の羊の話。自分に対して罪を犯す兄弟の話。借金を返せない兄弟の話・・と続きます。キリストを信じる者同士でもつまずかせるということがあるということを、イエス様はあらかじめ話されているわけです。
そして、そのことについて心を痛め、心を尽くして兄弟を扱わないのなら「海の深みに沈められるほうがよい」という、きびしいことばからこの話が始まっているわけです。
一人一人の魂の行先が滅びであることを知っておられる神がされたことが、神の激しく深い愛と、滅びゆく魂に対する悲しみの故であること・・、それを弟子たちは、イエス様が十字架にかかられて死んで復活したのちに知るんですね。
御子のいのちをもって救い出された一人一人を、神がどれだけの深い愛をもって愛されているのか・・。
それを思う時、「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。」というイエス様のことばが、強い戒めとして心に迫ってくるわけです。
祈り・・「神様、すべての兄弟を愛をもって、思いやる心をもって接することができるようにしてください。」
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。"
マタイの福音書 18章5節
今日のテーマは「小さい者を受け入れる」です。
「子どもたち」とは「自分を低くする者」のことでした。そしてそれが「わたしを信じるこの小さい者たち」という言葉に変わっていきます。
わたしを信じるこの小さい者たち・・それは、小さな存在であっても、その目はイエス様に向いている・・そのような意味なのだと思います。
この小さい者たち・・それは社会的にも「低くされている人」たちでした。
当時の人々にとって、地位や金のある人たちは神様から祝福された人で、貧しい人たち、そして女、子どもたちは、今時の言葉で言えば「人権」も認められていない人たちでした。
イエス様は「わたしはすべての小さい者を受け入れる」と言っておられるわけです。
小さい者とは、弱い者、貧しい者、病んでいる者、子ども達、女たち、見下されている者たち・・。
その人たちがイエス様に目を向けるなら、神はその人を認め、受け入れ、そのすべての罪を赦される・・すなわち全ての人が神の愛の対象なのだということをイエス様は言われているんですね。
ですからそのような者の一人を受け入れないのだとしたら、それはイエス様を受け入れていないのと同じだと、そういう意味になるわけです。
しかし私たちは自分の心の内をよく見るなら、自分がまさに「受け入れようとしない」者のひとりであることがわかります。
でも安心してください。このことも実に、十字架で死なれよみがえられた「イエス様ご自身」という神の力によって私たちは「変えられて行く」んですね。
イエス様はこのことを「このような子どもの一人を 〜 受け入れない人は、わたしを受け入れないということなのだ」とは言われずに「肯定形」で言われました。
「 〜 受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」・・と。
それは暗に、イエス様いつも心にお迎えして歩むことを喜びとしなさいと言われているようです。
イエス様を愛し従って歩む・・家や家族や職場が変わらなくとも、そこには確実に新しい世界が広がっているんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。"
マタイの福音書 18章4節
天の御国に入る条件は「向きを変えて子どもたちのようになる」ということでした。向きとは、心の目の向きのことです。
それは自分のことにではなく、そこに与えられた大きな恵みの方向、すなわち神という存在に心の向きを変える者になるということでした。
イエス様はそういう人のことを「自分を低くする者」だと言われました。
自分の力ではどうにもならない状況に陥って、完全にお手上げ状態になったりしたとき、初めて自分の外側に、自分に関わる存在があるということに気がつくということがあります。その最たるものは死を目の前にしたときです。
それはまさにその自己中心の性質が砕かれるときで、その時こそ私たちは高ぶりから一転して、低いところから物事を見る者に変えられます。
自分を低くする・・それは、知識や努力ではなかなかできないんですね。ですが、子どもたちというのはその本来いただいている恵みの場所「低いところ」から物事を見ているのだというわけです。
しかし子どもも成長するにつれ、その感覚はだんだん薄れ、わからなくなってしまいます。「罪の性質」というのが自分を守るための城壁を自分の心の中に作り始めるからです。
私たちは自分ではどうしようもない縛りの中にあって、自分を低くすることなど到底できない者「罪びと」なんですね。
天の御国で一番偉い人になるその道・・それは「自分を低くする」こと。
しかしそれは自分の力ではできない・・これが私たちの現状です。
でもそこに、私たちができることとして神が用意された一つのことがあるんです。
それは、自分のために「完全に低くなってくださった方」イエス・キリストを自分の中にお迎えするということです。
天国で一番偉い人とは、それをした人なんですね。
このことに関しては、私たちは今でも「子どものように」なれるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

「恵みの下にある弱き者」へ
賛美歌「弱き者よ」から その1
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=7ld4WsxlnjM
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。
「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
マタイの福音書 18章2~3節
この18章の1節は、「そのとき」という言葉で始まっています。
そのときとは、イエス様がペテロに、湖に糸を垂らして魚を釣りなさいとお命じになり、釣れた魚の口から出てきた銀貨をイエス様とペテロのために支払うことにした・・そのときです。
他の弟子たちにとってみれば、どうしてイエス様はペテロのためだけに神殿税を用意されたのか・・、今風に言えば「ムッとした」わけです。そのとき弟子たちが「天の御国では、いったいだれが一番偉いんですか」とイエス様に言った・・。これが1節です。
そこでイエス様は一人の子どもを呼び寄せて真ん中に立たせて言われたのが、この2−3節です。
それは、向きを変えて子供のようになれ・・ということでした。
向き・・それは心が見ている方向のことです。
弟子たちの心、それは平たく言えば「不公平なんじゃないですか」・・です。
「この子どものように自分を低くする者」・・それは自分は父母の元で何の心配もなく、その大きな恵みを謳歌している子供たちのことです。
状況が危機的であっても、子どもはそれを心配しないで笑顔で遊ぶんですね。それはお父さんとお母さんがいるからです。
天の神の大きな恵みの中に生かされている。おまけに、今神の御子とともにいる弟子たち・・。それがどれだけ大きな恵みなのか・・。ところが彼らは「自分の地位」ということに目が奪われてしまったんですね。
自分に目が向く・・それは万人共通の性質です。しかしこれが罪びとの姿なんですね。
そのままでは「決して」天の御国に入れませんと、イエス様は強く言われたのです。
弟子たちはペテロを見て嫉妬しました。ペテロがイエス様に愛されているのを見て喜べなかったんですね。自分も同じように愛されているのだとは思えなかった。イエス様とともにいながら思いっきり罪の中にいたのが、この弟子たちでした。
あなたの心は今、どこを向いていますか。
心の向きをまことの神へと変える・・そこにあなたが探している永遠への入り口があるのです・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」
彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」
ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。
しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」"
マタイの福音書 17章24~27節
今日のテーマは「心配してくださるイエス様」です。
イエス様の一行がカペナウムというガリラヤ湖畔の街に着きました。そこにはペテロの家があって、イエス様の活動拠点ともなっていたところで、この時もイエス様はペテロの家にいました。
そこに「神殿税を集める人たち」が家の外にいたペテロのところにやってきて、あなた方の先生は神殿への納入金を納めないつもりなのでしょうかと言うのです。
神殿税とは、過越の祭りの時期にユダヤ人が神殿に収める納入金のことです。ですから税と言っても当時の支配国であるローマに納める税金とは違うもので、神へのささげものでした。
ペテロは咄嗟に「納めます」と言ってしまいます。でもそこには何か説明できないもどかしさが残ったのではないかと私は思うのです。
神殿は神を礼拝する場所なのに、キリストであるイエス様がどうしてそれに対してお金を収めなければならないのかという思いが半分。
もう半分は、納めないと言ったらまた色々な人が攻撃してくるのではないかという思いがあって、咄嗟に「納めます」と言ってしまった・・。
要するに「本音と建前」が交錯したまま、言いたくもないのに「納めます」と言ってしまったのではないかという話です。
イエス様は、そんなペテロの思いが分かっておられ、イエス様の方からペテロに話しかけられます。
王様が自分の息子にその国の税金を納めさせることはないでしょう・・と。
イエス様は神の国の王で、その王に仕える者(ペテロ)は「王の子」に等しい者です。神殿はその王の住まいなんだから、イエス様もペテロも本当は神殿税を納める側ではなく、納められる側の者なのです・・というわけです。
だけど・・人々がわたしたちを見て神を侮る者であると思わないように、払うことにしよう・・と。
そして湖に糸を垂れなさいと言われて、魚を釣ってみたら、その口から二人分の神殿税を満たす銀貨が出てきた・・。
イエス様がされたこと・・、それは、ペテロの心をご存知でそれに応えられたということなんですね。しかも優柔不断なその心に・・。
イエス様はあなたの心の問題、そして実際の必要についても、ちゃんと分かっていてくださるんですね。
イエス様は私たちの心と共に歩まれるお方なのです。
その心が弱く、優柔不断だとしても・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。"
マタイの福音書 17章22~23節
今日のテーマは「聞く耳」です。
16章で、イエス様は同じような話をされています。その時はペテロがイエス様のことをいさめ、そんなことがあるはずがありませんと言ったら、「下がれサタン」と言われてしまいました。それは神のご計画を曲げようとするサタンの立場の言葉だからでした。
イエス様は「あの言ってほしくないこと」をまた言われました。
ああ、そんなこと言わないでほしい。イエス様が死ぬなんて・・。しかも殺されるなんて。
彼らには悲しみしかありませんでした。
初めてイエス様がこの話をされた時、ペテロが聞き落としていたことばがありました。それは「三日目によみがえらなければならない」ということばです。
この二度目の時にもイエス様ははっきり言われたんですね。「三日目によみがえります」と。
この二度目にもその言葉は弟子たちの耳には入らなかったようです。
彼らには「よみがえるってどういうことですか」と尋ねる力も気力もありませんでした。ただ、悲しみに打ちひしがれてしまって、その最後の希望の言葉「よみがえります」が、彼らにとっては全く無意味な言葉となってしまったわけです。彼らは大変悲しんだ・・だけでした。
希望のみことばが耳に入って来ない。落胆と悲しみのゆえに・・。
イエス様は「よみがえる」と言われたのです。
祈りましょう。
「聞く耳」を持てるように・・。
希望のことばをはじき飛ばして、悲しみに暮れてしまうことのないように・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」"
マタイの福音書 17章19~20節
イエス様がペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に登っている間、群衆は弟子たちのところに来て悪霊を追い出してもらったり病をいやしてもらったりしていました。
イエス様の弟子たちも悪霊を追い出す権威が与えられ、そこでもしるしと不思議なわざがなされていたんですね。そこにてんかんを患う子を連れた親が弟子たちのところに来てその子のいやしを求めたのですが、それがかないませんでした。仕方がなく彼らはイエス様が山から戻ってくるのを待っていた、その時の出来事です。
以前、弟子たちはイエス様に遣わされたのだという自負のもと、実際に自分の手で人が癒されるのを見て、驚きつつも喜んでイエス様の元に戻ってきました。
しかし、今回はその権威を与えられたはずの弟子たちの誰一人として、この子をいやすことができなかったようです。
戻ってこられたイエス様はその話を聞いた時、とても落胆し、強い言葉でこう言われます。
「ああ、不信仰な曲った時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」・・と。(17節)
イエス様が山に連れていかれたのは三人だけでした。十二弟子の中では九人が残されたことになります。彼らは「連れて行ってもらえなかった」人たちでした。
あなたは自分がどういう者かということにつかまること・・ありませんか。
弟子たちは「連れて行ってもらえなかったこと」に心の目を奪われてしまっていたのではないでしょうか。
いやすことのできるお方はイエス様です。ですからそんな自分に心が奪われていたら、信仰はないに等しいです。
問われているのはただイエス様に対する信仰が「あるかないか」なんですね。信仰は大きいか小さいかではないんです。
からし種とは、吹けば飛ぶような小さな種です。
からし種ほどの信仰があれば・・その意味は、ただ信仰があるかないか・・イエス様の方に目を向けているかそうでないか・・だけが問われているということなんですね。
「自分のこと」ではなく、イエス様に目をとめる時、イエス様はそこにちゃんとおられるんです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」
マタイの福音書 17章9節
イエス様はペテロとヤコブ、そしてヨハネの三人だけを連れて高い山に登られます。そして弟子たちの目の前でイエス様の顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった・・。
このことをイエス様は、「あなた方が見たことを、誰にも話してはいけません。」と言われました。でもそれは「人の子が死人の中からよみがえるまでは」という、期限付きの話でした。
彼らが見たのはイエス様の栄光の御姿でした。それはイエスがキリスト、神の御子であることを証明するような出来事でした。
そしてその話はまだするなと、イエス様は言われたわけです。
「人の子が死人の中からよみがえる」というのは、言うまでもなく十字架で死なれ、三日ののちによみがえられる、そのことです。
イエス様が救い主であるということを人々に伝えるためには、この十字架の死と、死からの復活という出来事なしには語れません。
ですからイエス様は弟子たちに、まだ誰にも話してはいけないと言われたんですね。彼らが山の上で見た出来事だけを話しても、イエス様が「救いになる」という説明はできないのです。
十字架と復活の出来事には二つの意味があります。
ひとつはキリストが与えてくださったキリストのからだという意味です。
このからだを自分の中に受け取ることで、古い自分に死んで、新しいいのちに生きる者とされる。それはキリストの死と復活が信じる者の内に現実となるということです。
そしてもうひとつ。それは私たちの罪のためのささげものであるとして、イエス様は父の前で十字架にかかられたということ。ですからイエス様は十字架の上で「父よ、彼らの罪をお赦しください」と言われたのです。
このささげものによって、それを信じる者にはすべての罪の赦しが与えられるのです。
イエス様が私たちと父なる神との関係の回復を実現してくださったお方なのです。
今までは父に背を向けていた私たちのために、、わざわざ人の子としてこられ、苦しみと痛みと死までも受け取られた・・。
これがイエス・キリストです。
ここに神の愛があるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

痛みと苦しみの中にいる人の賛美歌
「安かれわが心よ」から その3
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=ukYid6V76jY&t=5s
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
マタイの福音書 17章7~8節
今日のテーマは「恐れることはない」です。
イエス様はペテロとヤコブ、そしてヨハネの三人だけを連れて高い山に登られます。そこで弟子たちはイエス様の栄光の御姿のほんの一部分を目撃することになります。
それは人の形をとって来られた地上のイエス様ではなく、神とともに天地創造の始めからおられるキリストとしての御姿のほんの一部を彼らが垣間見た瞬間でした。
弟子たちの目の前で、イエス様の顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった・・。
彼らはそこで、聖書の中に登場する代表的な二人、モーセとエリヤの姿も目撃します。そしてさらに父なる神の御声まで直接聞くことになるのです。
雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼のいうことを聞け。」・・「これ」とはイエス様のことです。
彼らはそれまでに感じたこともないような畏怖の念にかられ、恐れおののいてひれ伏して動けなくなってしまいます。
そこにイエス様が近づいてきて「起きなさい。恐れることはない」と言われました。
そのとき、イエス様はいつものイエス様の姿に戻っていました。
この出来事は、イエス様が神の子キリストであるという、この三人の弟子たちの信仰をさらに具体的なものへと導くものでした。
イエス・キリストは、畏れられ、あがめられ、礼拝されるべきお方なんですね。
そのイエス様はペテロたちに「起きなさい。恐れることはない」と言われて彼らを立ち上がらせます。
その手で直接触れていただいたペテロたちは、なんと幸いな人たちでしょうか。
クリスチャンとは、このイエス・キリストというお方と直接関係を持つことを許された者なんですね。
真に崇め、畏れ、そして礼拝する方・・その方と日常的に交わりを持って歩む者とされた・・それがクリスチャンです。
私たちはこの崇めるべきお方とともにあり、しかもそこに安んじていることができる者とされたんですね。
恐れることはない・・。私たちはこの方にあって安んじ、喜び、賛美し、完全に自分を預けていくことができる・・。
イエス・キリストとはそういうお方なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
今日は、#281の「死を味わわない人」の解説が難しいという声を複数いただきましたので、改めて書くその二回目です。
" まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」"
マタイの福音書 16章28節
決して死を味わわない人たちがここにはいる。しかも「人の子が御国とともに来るのを見るまで」・・とイエス様は言われました。
それは一つ前の27節の「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれの行いに応じて報います。」という、そのときまでということです。
「死を味わわない人」ついての解釈はいろいろありますので、私もその解釈を特定することはできませんが、話の流れというものがあります。
この話は「自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従って行くなら、そこにいのちを見出すのだ。」という流れの中で語られています。(24.25節参照)
ならば、死を味わわない者というのは「自分の十字架を負って、イエス様について行く人」を指していることになります。
結局この話の全体の流れは、自分の十字架を負ってイエス様について行って「いのち」を得る人になるのか、そうでない人になるのか、というところに焦点があるようです。
十字架を負ってイエス様について行くとは、自分の考えは十字架に釘付けにし、イエス様の考えに従うこと・・すなわち自分の思いや願いよりも御霊の促しを優先させるということです。
コリント人への手紙第一3:10-15 にはこんなことが書かれています。
イエス・キリストという土台の上に家を建てる人・・それがクリスチャンです。しかし、それを建てる材料が人によって違うというのです。金、銀、宝石、木、草、藁(わら)、そしてそれらは「その日」に火によってその働きが試され、建物が残る人もいれば、焼けてしまう人もいる。しかし、焼けてしまった人もその人自身は「火の中をくぐるようにして」助かるのだと・・。
自分の十字架を負ってイエス様に従っていくか・・、それによって建つ家が決まって来るのだというわけです。
そしてそれは「今のあなた」にかかっているのだという話です。
なすべきは自分の十字架を負って、イエス様について行くこと・・。
そこに「いのちがある」というのが、この話の結論なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
今日は、前回の「死を味わわない人」が、難しいという声を複数いただきましたので、改めてもう一度見てみたいと思います。
" まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」"
マタイの福音書 16章28節
イエス様は弟子たちを見回して、ここに立っている人たちの中には・・と言われました。そして「人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」と言われたんです。
え? この中に、死を味わわない人がこの中にいるの? と、聞いていた弟子たちは思ったはずです。でも彼らは皆死にました。
ですから、このイエス様の言葉を考える時には「人の子が御国とともに来る」ということと、「死を味わわない」という言葉の意味を考えなければいけません。
まず最初に注目すべきこと・・。それは「人の子(イエス・キリスト)は御国とともに来る」のだと、イエス様ご自身が言われたということです。
過去の歴史を見ても、それに匹敵する出来事は見当たりません。それは明らかにこれから後の出来事です。
御国に関しての言葉、それは「天の御国」「神の国」「主の日」「おわりの日」「その時」などいろいろありますが、それらはこの世の終わり、そしてさばき、そこからの救い、千年王国、そして天のエルサレムなど、、それらのことに関連しての言葉です。
極端な言い方をしますと、聖書にはそのことばかりが書かれているんでね。
御国とは、世に言う「天国」のことです。しかしその捉え方はこの地上に実現する天国というのもあるし、死後の世界という捉え方もあります。
でも聖書を調べれば調べるほど、この「天の御国」はこの後にやって来るもので、しかもすべての「死者」も部外者では無いということがわかってきます。
イエス・キリストは再び来られる・・。これはイエス様本人の約束でもあり、聖書の言葉です。しかし、イエス様はまだ来られていないんですね。しかし、その時には「御国とともに」来られるというのです。
実はこのことは、聖書を調べれば調べるほど、それが近いのではないかという風に予感させられます。
散らされたイエスラエルの民が再び「シオン」に戻って来る・・。2000年もの間散り散りバラバラになっていた民族であるのに、今も世界にとって重要な存在であり続ける「ユダヤ人」。そして、そのユダヤ人たちがあの聖地に戻って来てイスラエルという国を再興してしまうという奇跡。
しかし、あの神殿はまだユダヤ人のものとなっていません。彼らは神殿の壁に向かって祈るばかりです、それが「嘆きの壁」と言われるエルサレムの神殿の「今」です。
今そこには「金のドーム」と言われるイスラム教の聖堂があります。しかし黙示録の舞台はこの神殿とそこにある聖所なんですね。ですから、ここに神殿が建っていなければ「おわりの時」の話は始まらないのです。
ところが今、ユダヤ人たちはここに聖堂を建てる準備を着々と進めています。
時は近い・・。「人の子が御国とともに来られる」・・、今その舞台の設営が始まっているんですね。
イエス・キリストは、再び来られると断言しています。そしてそれは「御国」と関係があるというのです。これが聖書に書いてあることなんですね。
イエス・キリストは、人々を滅ぼすために来られたのではなく、救うために来られました。そして再び来られる・・。それはその救いを確定し、御国をもって神の民を迎えるために再び来られるときなんですね。
これが人類に啓示された「神の計画」なんですね。
今日は「人の子が御国とともにくる」の話で終わっちゃいました。(汗)
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」"
マタイの福音書 16章28節
今日のテーマは「死を味わわない人」です。
「ここに立っている人たち」・・それはイエス様の弟子たちです。そしてその中に「人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいる」というのです。
「味わわない人」ではなくて、「味わわない人たち」と複数になっています。
それは、弟子たちの中には、それを味わう人とそうでない人がいるのだということです。
そうなると、24節からの話につながってきます。この話は「自分の十字架を負ってイエス様についていく人」と、そうでない人の話だからです。(#279参照)
旧約聖書には、アダムから7代目のエノクだけは、「死んだ」と書かれておらず、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と記されています。(創世記5:24)
決して死を味わわないという言葉を聞くと、そのようなことを想起しますが、弟子たちの記録の中には「肉体の死」が確認されずに天に引き上げられたというような記事はどこにも見当たりません。
ということは、この「死」という言葉は肉体の死ではない、他の意味で考えるべきだということになります。
まず考えられるのは「霊的な死」です。
すなわち、自分の十字架を負ってイエス様に従う者に与えられるのが「まことのいのち」であって、そうでない者はそれを損なう、すなわち「霊的な死者」となるのだということです。これが24節からの話の流れです。
そう考えると「死を味わわない人」というのは、まことのいのちをしっかり持ち続け、それをもって肉体の死を通過し、そしてイエス様が再び来られるときには新しいよみがえりの体をいただいて主のもとに引き上げられる人・・と、そういう意味になります。
そしてもう一つ・・、黙示録に「第二の死」という言葉が出てきます。
一つは2章11節の「勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない」。
この「勝利を得る者」が、24節で言われた「自分の十字架を負ってイエス様についていく者」と重なってきます。
さらに20章6節には「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない」と書かれています。
第一の復活とは、「イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々・・彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。」(20:4) と書かれているところのことです。要するに、彼らは死んでよみがえった人たちです。
第二の死とは、この時にイエス様が再びさばきのために地上に来られて確定する「永遠の死」です。
そのように受け止めると、「決して死を味わわない人たち」とは、この「第一の復活にあずかり、第二の死は何の力も及ばない人たち」のことだということになります。
まさにそれは人々が「人の子が御国とともに来られるのを見る」時であるわけです。
どちらにしても私たちの希望は、肉体の死の先、その後のさばきの先、永遠にまで至るんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。"
マタイの福音書 16章26~27節
今日のテーマは「いのちの所在」です。
人は「この世」という所にいのちをいただいて生きる者とされました。
ですから、死んだら全てが終わりなんです。一代で財を築いて、大偉業を成し遂げたとしても、それを「あの世」に持って行くことはできません。
そんなことを考えていると、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブス氏が車椅子に乗っている姿を思い出します。
死んだら全てが終わる・・。でもイエス様の話を聞いていると、どうもそうではなさそうなのです。
イエス様は「父の栄光を帯びて御使いたちと共に来ます」と言われました。
イエス様は再び来られるというのです。そしてそれぞれの行いに応じて報われるというのです。
人は死んだら全ての責任は帳消しになる・・かのように人々は生きています。
でも「そうではない」・・と、聖書ははっきり言っているんですね。
イエス様は「自分のいのち」を失ったらなんの益もないと言われました。
全世界を手に入れるということに勝っている「いのち」というものがあるというのです。
このいのちこそが、この世での死と、そしてのちにイエス様が来られてさばかれるその時の報いに対しても、動くことのない永遠のいのちだというのです。
「自分のいのち失ったら・・そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」
買い戻すとか差し出す・・それって一体なんのことでしょうか。
それはこのいのちのために、差し出されるものがあるということです。
差し出す相手は・・父なる神です。
父なる神から買い取るようにして差し出されたもの・・それがイエス・キリストのいのちなんですね。
十字架上でイエス様が言われたことば、「父よ、彼らをお赦しください」とは、「わたしのいのちと引き換えに彼らをお赦しください」ということです。
そしてその願いが聞き入れられて「救い」が実現したのです。
その実現とは、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んで、罪と死の力を打ち破ってよみがえられ、イエス様ご自身が私たちのいのちとなってくださったということです。
父なる神は、それを信じる者を救うことにお決めになったというわけです。
それを信じてイエス様を心の内にお迎えするときに、私たちは罪の赦しと永遠のいのちをいただくのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

YouTube 【GraceCafeたいむ #29】 「のぞみの岸」
アップしました。
痛みと苦しみの中にいる人の賛美歌、2回目です。
賛美歌 「安かれわが心よ」から その2
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=c2he5wyVTW0
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。"
マタイの福音書 16章24~25節
今日のみことばは、私たちにものすごく大きな決断を迫るものです。
なぜならイエス様のためにいのちを差し出しなさいと書かれているからです。
今日のテーマは「自分の十字架を負う」です。
いのちを差し出す・・それは、一番大切なものを差し出すということです。これがなくなったら、自分がなくなってしまうというものです。
それは自分の命であるわけですが、少し別の角度から見るとそれは「自分の考え」なんですね。
自分のためにいのちを救おうと思う者・・、それは「自分の考え」で動こうとする者のことです。
しかし、神を信じ、神とともに歩むようになる者には「みことば」あるいは「聖霊のうながし」がいつも伴っていて、私たちに語りかけてくださっています。それが「共にいてくださるイエス様」なんですね。
私たちはそれを無視することは簡単にできます。でもイエス様は「わたしについて来たいと思うなら・・」と私たちに問いかけておられるのです。
要するにイエス様について行きたいなら、自分の考えは捨てろということなんですね。
そこには常に、神の「み思い」というものがあるからです。
一兵卒は常に上官に従います。自分の意見を言うということは許されないんですね。
ですから、上官に自分の命を預けることになります。
自分のいのちを救おうと思う者・・、それは上官の言うことを聞かないで、自分だけ助かろうとする者のことです。しかし、その者は「自分のいのちを失う」のだとイエス様は言われました。
イエス様は私たちに完全なるいのちを保証される「まことの上官」なんですね。
「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11:25) とイエス様は断言されているのですから。
しかし残念ながら、私たちはいつもこのまことの上官である主に逆らおうとしてしまいます。
でも「わたしのためにいのちを失う」すなわち、イエス様に自分の考えを委ねてしまうなら、その人は完全に主に従う兵卒となり、まことのいのちを保証される者となるわけです。
これが「自分の十字架を負う」ということなんですね。
このことのスタートライン、それは「自分は自分の考えをに従って歩もうとしている」ということに気づくことなのかもしれません。
これは弟子たちに対して語られたことば、すなわちクリスチャンに対してのことばなんですね。
・・自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
・・ここにいのちがあるのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」"
マタイの福音書 16章21~23節
イエス様は初めて弟子たちに、ご自分が十字架にかれられて殺されてしまうこと、そして死んで三日ののちに蘇られることを話されます。
今日のテーマは「サタンの惑わし」です。
ペテロはイエス様のことを「あなたは生ける神の子キリストです」言ったところ、イエス様はそのペテロに大いなる祝福の言葉を宣べられました。
その直後にペテロは「下がれ、サタン」と言われてしまうんです。
サタンという言葉の意味について、イエス様はその場で説明されています。
それは「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということです。
神の計画と人の望みは一致しない・・というよりも正反対であることが多いんですね。なぜかというと、人は「肉の性質」によって「肉が喜ぶこと」を選ぶからです。肉とは罪の性質のことを言い、その矢印は常に神に背を向けるという方向を向いています。
そして人は、この罪の性質の中で奴隷状態になっているというのが罪人(つみびと) の姿です。それは「神」という真の自由の世界に戻れなくなってしまった人のことです。
そして、人間の性質をそのようなものとして確定させるように導いたのが、あのエデンの園におけるサタンであったというわけです。
イエス様が十字架にかかられた・・それは、この世の歴史の中での最重要ポイントとなった出来事です。その時こそがサタンが切り札としている「死の力」が打ち破られた時だからです。
ペテロの言ったこと「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」・・それはまさしく「サタンの望み」の代弁なんですね。
さてクリスチャンにも、神の思いよりも自分の思いを優先させる・・そういうことって結構あるのではないでしょうか。むしろ常に、それを選択しなければならないという立場に私たちは立たされるように思います。
簡単に言えば、常にサタンのささやきが聞こえてくるんですね。
そしてそれが自分の感覚のように強く迫ってくるわけです。
自分が望むことや考えることと、祈りやみことばを通して神が言われることは一致しないことが多いんですね。
私たちは、サタンの支配からは解放され、自分の意思で「神」を選びとることができる者となりました。しかし、誘惑は常にやってくるんですね。誘惑とは欲望に挑戦するというよりも、神の思いから目を離させる力だと考えると、とてもわかりやすくなります。
ペテロはイエス様の「よみがえらなければならない」という言葉が、全く耳に入りませんでした。これがサタンの惑わしです。
みことばに注意深く耳を傾むけるとき、私たちが選ぶべき道が見えてくるんですね。
これはサタンが最も嫌がることです。
サタンに立ち向かいましょう。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。
あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」"
マタイの福音書 16章19節
「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白したペテロに対して、イエス様は祝福の言葉を宣べられました。
ここではそれを、クリスチャンに対する言葉だという視点で見てきました。今日の箇所はその締めの部分です。
今日のテーマは「クリスチャンの務め」です。
わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます・・。
鍵が与えられるというのは、その門を開く鍵をクリスチャンであるあなたが預かったということです。ですから開くのはあなたです。
あなたが天の御国の門を開けて、さあどうぞと言って、人々をそこに招き入れる・・。そのために鍵が与えられたのです。そうでなければ鍵を預かったのに、ただの「役立たず」になってしまいます。
結局それは、御国のことを人々に紹介して、人々には開くことのできない門を開いてあげるということです。それはすなわち、御国の福音を伝えるということなんですね。
地上でつなぐことは、天においてもつながれ・・
ということは、福音を伝えるということは、そのまま天での出来事をそこに具現しているということです。
あなたが地上で解くことは、天においても解かれます・・・。
解くとは、つなぐという言葉との対比で使われています。
この「つなぐ」と「解く」は、ラビ (ユダヤ人の指導者) が律法の解釈において、禁止したり許可したりすることを表す言葉だそうです。
要するに、イエスをキリストと告白したクリスチャンは、その権威が与えられるのだというわけです。しかも、それは天においての価値判断と一致するものだというわけです。
なんという責任ある務めでしょうか。
他でもない、ペテロ自身が手紙の中でこう言っています。
" しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。
それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。"
ペテロの手紙 第一 2章9節
クリスチャンは地上で神の栄光を語り告げ、人々を御国に招き入れるために立てられた者なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。"
マタイの福音書 16章17~18節
シモン・ペテロはイエス様の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」という問いに対して、「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えました。
イエス様は「バルヨナ・シモン」と彼の名を呼び、「あなたは幸いです」と言われたのです。
今日のテーマは「幸いな者」です。
イエスは神の子キリストである・・。それはあなたの考えから出たものではなく、天の父があなたに明らかにしたからそのように告白することができたのです、とイエス様は言われた・・。これが前回見たところです。
そのシモンに対してイエス様は、「あなたはペテロです」と言われました。イエス様はわざわざ以前の名「バルヨナ・シモン」で呼び、その彼に新しい名をつけたのです。それは、あなたは今までとは違う、新しい人になったのだということです。
なぜ新しい人になったのかというと、「イエスをキリストと告白した」からです。
クリスチャンとは、イエスを主と告白して、新しくされた人のことです。ですから、このシモンの出来事は、クリスチャンのこととして受け取ることができるんですね。
ペテロとは「岩」という意味です。そしてイエス様は「この岩の上に」と言われました。ですからそれは単に名前のことではなくて、シモンという人が新しい「岩」として生まれ変わったことを象徴しているわけです。
そしてイエス様は「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われたのです。
それはとりもなおさず、キリストによる教会というのは、この岩、すなわちクリスチャンという、新しくされた人によって構成されるもので、それを建てるのは「わたし」すなわちイエス様だということなんですね。
そしてその教会は「よみの門もそれに打ち勝つことはできない」とイエス様は言われたのです。
「よみ」とは、死者が集められるところで、他の聖書では「ハデス」と訳されていることばです。そしてそれには「サタンの根拠地」「サタンのために備えられた場所」という意味も含まれています。そしてイエス様が十字架で死なれて下られたのも、この「よみ」です。
そして三日ののちにイエス様はよみがえられました。
まさに、イエス・キリストは堅い要塞のようなこの「よみの門」を打ち砕かれたんですね。
イエス・キリストの死と復活によって、このよみの門の力すなわち「死の力」が教会を脅かすことはなくなったのです。
人を支配するのは「死」です。人はそれに打ち勝つことができないからです。しかし、イエス・キリストは死に打ち勝ったのです。
そしてクリスチャンは、そのよみがえりのいのちにあずかる者だというわけです。
この勝利の力をいただき「幸いな者となる」その門は、すべての人に開かれているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。"
マタイの福音書 16章15~18節
今日のテーマは、「イエスをキリストと認める者」です。
シモンはイエス様に対して、「あなは生ける神の子キリストです」と言いました。それは旧約聖書に書かれているメシヤについての多くの預言の、まさに「あなたがその方です」という意味です。
そしてそのペテロに対してイエス様は喜びの声を上げられ、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです」と言われます。そして彼に「ペテロ」という名を与えられます。それは「岩」という意味です。
そしてイエス様はこの岩の上に「わたしの教会を建てる」と言われたわけです。
この話をペテロ個人の話としてではなく、「あなたは生ける神の子キリストですと告白する者」すべてに対して、イエス様はその者を「岩」と呼び、その岩の上に教会を建てられるのだと受け止めると、信じる者に対して与えられる大きな祝福が見えてきます。
そのペテロ(岩)に対して与えられる大きな役割については、次回以降見ていくこととして、今日は「このことを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」というところを見てみましょう。
「このことを明らかにしたのは」・・その意味は、イエス様が神の子キリスト「神そのものなるお方」であることが、その人のうちに明確になったということです。
しかしこのような情報は、今まで私たちが教わってきた「神を抜きにした知識」では受け取ることができないんですね。
それが「あ、そうか」とわかったのだとしたら、それは「天の父がなさったこと」だというのです。
聖霊によるのでなければ、誰も「イエスは主です」ということはできません。(ローマ12:3)
人がイエス様に顔を向け、そして信じるというその流れ、その全ては聖霊の導きによるものなんですね。
今あなたが、「信じてみようかな」・・と思われているのだとしたら、そこにはあなたを導く聖霊という存在があるのだというわけです。
聖霊とは三位一体の神の一つの位格、すなわち神そのものという存在です。
今、神の導きを感じるなら、それはあなたに差し伸べられている「神の御手」なんですね。
イエスをキリストと認める者・・あなたは幸いです。
あなたは「岩」と呼ばれるにふさわしい者となるのだというのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」"
マタイの福音書 16章8~11節
イエスはそれに気がついて・・と書かれていますが、何のことかというと、「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」というイエス様の言葉に対して弟子たちは、自分たちがパンを用意していなかったことをイエス様は責めておられるのだと思って議論を始めた・・、そのことに気がつかれたということです。
彼らは異邦人の地に行く時には、異邦人が焼いた汚れたパンを食べることのないように、自分たちで焼いたパンを持参していました。それを彼らは忘れていたというわけです。それで彼らは、イエス様がパリサイ人やサドカイ人たちのことについて話されているのに、全く関係のないことで議論を始めました。それは恐らく、誰の責任でこうなったのか・・というようなことだと思います。
イエス様は以前に「口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。」 (15章17~18節) と弟子たちに教えておられます。弟子たちはそれをすっかり忘れ、そのこととは真逆の議論をしていました。
食べるパンは、異邦人が焼くものであっても、それで汚れるわけではないのに、まだ弟子たちはそんな議論をしていたというわけです。
弟子たちはみな、パンを持ってこなかったことの責任は自分にもあったことを、薄々感じていたのではないでしょうか。
人は何か後ろめたいことがあると、そのことを中心に物事を考えてしまって、肝心の話の焦点が全く見えなくなってしまうんですね。
話を聞けなくするもの・・それは「罪責感」だということが言えるのではないでしょうか。
世の多くの人は「あなたは罪人だ」と言われると、その話に過剰に反応します。その話が「それが全面的に赦されるのだ」という話であるのに、その前の段階でその話を拒んでしまうんのです。
それは「自分を守る」という当然の姿であるわけですが、実はそれこそが自分は罪人であることを告白していることに他ならないわけです。
「信仰の薄い者たち」というその意味は、「自分のことではなくて神のことを考えよ」ということなんですね。あなたは自分の罪を弁護する必要はないのです。
あなたを愛する神という存在にあなたの目を向けるというところから、信仰は始まります。
その時に初めて、イエス様の言葉の真意が心に入ってくるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは彼らに答えられた。
「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。
空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。
しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。"
マタイの福音書 16章2~4節
ユダヤ人を指導する立場にいるパリサイ人やサドカイ人たちは、イエス様に「天からのしるしを見せてほしい」と言いました。その意味は、あなたが神の子キリストであることを主張するなら、そのはっきりした証拠を見せてみろという意味です。
その「天からのしるし」という彼らの言葉に対してイエス様は、天の状況を見て空模様を見分ける話をされます。
それは、夕方に天を見て、それが夕焼けだったら晴れを予想し、朝焼けだったら荒れ模様を予想するという、人々のごく日常的な生活の話です。それなのに「時のしるし」すなわち、来たるべき時がやってきた・・それを見分けることができないのかと、イエス様は嘆かれます。
イエス様は病人をいやし、悪霊を追い出し、自然界をも従わせ、そして神の国を宣べ伝えられました。そしてイエス様を見た者は神を見たのだと、ご自分ではっきり言われました。
これ以上あなた方は、どういうしるしを求めるというのですか・・というわけです。
今日のテーマは「信じない」です。
イエス様はその様子を見て「悪い、姦淫の時代」と言われました。
聖書で多くの場合「姦淫」とは、まことの神以外のものを拝むという、偶像礼拝のことを指しています。それは心を寄せるべき方以外のものに心を奪われるということです。
しかしながらパリサイ人やサドカイ人たちが偶像礼拝をしていたのかというと、そうではありません。それでも彼らは姦淫という言葉を投げかけられてしまいます。
それは、まことの父なる神に心をしっかりと向けず、ほかのものを大切にしようとしていることを指しているんですね。
それは、自分の地位とか名誉とか、自分に属することです。自分ファースト、、それは罪人の姿そのものです。自分ファーストとは自分の利益を優先させるという意味ではなくて、神よりも自分を優先させるという意味です。
イエス様はまことの救いの扉が開かれる以前、すなわちその時代のことを「悪い姦淫の時代」と言われたわけです。そしてその時代に一つだけ「ヨナのしるし」が与えられるけど、それをしるしとして受け取らないならもう、それ以上に与えられるものは他にありません・・と、そう言われたわけです。
ヨナのしるしとは、三日三晩大魚の腹のなかにいて地に吐き出されたという、旧約聖書のヨナ書に書かれている預言者の話です。それはキリストが十字架で死なれ、三日ののちによみがえられる、まさにそのことを指しているわけです。
これが本当のしるしだというわけです。
しかし、その本当のしるしを見てさえ、信じない人は信じなかった・・。
パリサイ人やサドカイ人たちは、「信じない」と決めていたのではないでしょうか。
神に対して心を柔らかくし、神を父として、イエス様を神の御子キリストとして受け止めてみようと、心を変えること・・それが私たちに求められていることなんですね。
これが人類に与えられた、最初で最後のしるしなのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」"
マタイの福音書 15章32~33節
イエス様がわずかな食料を群衆に配って、満腹にさせるという奇跡の話は一つ前の14章に出てきます。それは五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人、おそらく一万人近い人を養うという出来事でした。その奇跡は、日常に起きている奇跡から比べても特筆すべき奇跡でした。この奇跡の話だけが四つの福音書すべてに記されているのです。
そして再び同様のことが起きます。前回からこの時までどのくらいの期間があったのかはわかりません。
イエス様が三日間飲まず食わずのこれらの人たちを、空腹のまま帰らせたくありませんと言われた時、弟子たちのうちに「じゃあまた少しのパンや魚を集めてみましょう。この前イエス様は、それらのもので1万人を食べさせましたよね。」と言った者は何故かいなかったようです。
またイエス様は「あなた方はあの奇跡を見たのに、なぜ人々にパンを手に入れさせるという発想しか持てないのですか」と弟子たちを叱っても良いと思うのに、イエス様はただ「パンはいくつありますか。」と言われ、また前回と同じ奇跡をここでなされるわけです。
私はこの出来事をどのように理解したら良いかわかりません。
ただ言えることは、この特筆すべき奇跡は一回ではなかったということです。
今日のテーマは「イエスは神」です。
人の病がいやされる。悪霊が出て行く。曲がった手足がまっすぐになる・・。そして風も波もイエス様の言うことを聞く。そしてこのパンの奇跡は、さらにそのことがどういうことなのかを、さらにわかりやすく示す奇跡と言えるのではないでしょうか。
いくつかのパンを割いて数千人に配るというのは、物質が増えるということです。しかも石や土などの自然界のものではなく、人が調理しないとできない「パン」までが増えるのです。
また死んで保存食として持ち歩かれている魚が増えるのですから、それは黄海の海が割れたりする奇跡にも匹敵する奇跡です。科学者に言わせれば「あり得ない」の一言で済ませてしまうことですから・・。
コロサイ人への手紙 2章9~10節には、こんなことが記されています。
" キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。"
神は天地万物を作られました。そのことと、このパンと魚の奇跡は直接繋がっている話なんですね。
イエス様は、神の子である神、キリストとして地上に人の形で来られ、人が見える形でそのことを人々の前に示されたんですね。神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしら・・。それはすべてがその御心に従うということです。悪魔でさえ、神が許された範囲でしか存在できないのです。
そしてクリスチャンは、そのキリストにあって満たされている者だというのです。
なんという、気の遠くなるような恵みでしょうか。
福音書に出てくる多くの奇跡・・それは、キリストがすべての支配と権威のかしらであることを人々の目が見るようにされた、、そのことに他ならないんですね。
イエス・キリストは、神として信ずべきお方なのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」"
マタイの福音書 15章26節
ここに登場するのは「カナン人の女」です。それは「異邦人」という立場の人でした。
その人がイエス様にすがりつくようにして、娘の悪霊からの解放を願っているのに、イエス様はとても冷たい応答をされます。
それが今日の箇所です。言うまでもなく「子どもたち」とはユダヤ人で、子犬とはそれ以外の異邦人のことです。
今日のテーマは「イエス様のプロデュース」です。
イエス様はご自分の力を異邦人のために使うことを、「子どもたちのパンを取り上げる」ことだと表現されました。私たちだったら、イエス様がそんなケチなことを言わなくても、無限の力をお持ちなのだから、いくらでも癒すことはおできになるだろうに・・と思ってしまうのではありませんか?
私もそう思います。だったらなぜイエス様はこんなことを言われて、女に冷たい態度を取られたのでしょうか。
それは、イエス様はこの女に対して「困難な状況」を敢えて作られたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。要するにわざと冷たくしたんですね。イエス様は神ですから、この女をいやさないという結果にはならないことは初めからご存知だったわけです。でも、冷たくされた・・。それはこの人からあることを引き出したかったんですね。
それは、信仰の言葉です。女はイエス様の言葉に対して「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と言ったのです。
それは、自分は神に顧みられている民ではないことはわかっていますが、神の家に住まうことを許されている子犬だと言ったのです。それは自分は異邦人だけれど、このイスラエルの神をまことの神と信じ、その神にすがる者です・・という信仰の表明でした。
聖書にはイエス様が手放しで喜んだ出来事がいくつか出てきますが、それらはみな人々の「信仰」を見てのことなんですね。しかもそれはいつも「異邦人の信仰」なんです。
イエス様のこの女とのやり取りは、ユダヤ人たちに聞こえるように言っているように、私には思えてしまいます。
「あなたは神の民で、すべての祝福を受けるべき民なのです。この女を見て自分の信仰をもっと明確にしなさい」・・と。
女は、ユダヤ人に対して、見事な正解を言い放ちました。
小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます・・、それは、父なる神はすべての民に対して憐れみ深く、求める者を決して見放されるお方ではないということを、ユダヤ人の前で宣言したわけです。
イエス様は喜ばれました。そして、娘をすぐにいやさたのです。
イエス様はこの出来事をプロデュースされたのだと、私は受け止めています。
この出来事でも、愛なるイエス様の姿が見えて来るんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。
彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」"
マタイの福音書 15章13~14節
今日の箇所はイエス様とペテロとのやり取りの場面ですが、ここも不思議な文脈になっています。
ペテロは「盲人が盲人を案内する」という話について説明を求めたのですが、それに対してイエス様は、その前に言われた「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」ということについて説明をされ、その話はそこで終わってしまうのです。
それでもここで話されていることは、「口から人を汚すものを出す者」と「盲人を案内する盲人」という言葉が同じ人たち、すなわちパリサイ人たちを指すのだということがわかります。
ですから、パリサイ人たちは口から汚すものを出して、人々を汚す者であり、彼らはその汚すものをもって人を案内しようとして、結局自分もその人と共に穴に落ちてしまうのだというわけです。
天の父が植えた木・・それは神のことばによって成長し、しっかり神に根を張り、人々がそこに神を見るような存在として成長する木です。
パリサイ人は「父が植えなかった木」だというわけです。
聖書には「さばき」の時というのが事あるごとに出てきますが、それは終わりの時、最後の最後に全ての人が神の前に出て、その行いに応じてさばかれる・・そのときのことです。(黙示録20章)
穴に落ちる・・それはそこにあるさばきから逃れることができずに、与えられるはずの永遠のいのちを逃してしまうということを指しているわけです。
さばき・・その話を聞くと、世の人々はそれを神の無慈悲と受け取りますが、実はそのこと自体が「神を認めていない」ことの表明なんですね。
さばきとは、神に背き続けての結果としてのさばきだからです。
そのさばきに対して神は、逃れの道を備え、それを地の果てまで示されました。そのためになされたことが「ご自分の御子を十字架につける」ということを通して、死とよみがえりと神の愛を見せられたということです。
イエス・キリストこそが「この世におけるキーワード」なんですね。
イエス・キリストだけが、神を指し示す存在なんですね。
そしてイエス・キリストによって、最終的なすべてが決定されるというのです。
ですから、それ以外の道を通って行こうとしても、それは「根こそぎ」にされ、穴に落ちるだけだというわけです。そしてそれ以外の道をほのめかし、指し示す者は、口から汚れたものを出し、人を汚す・・すなわち、本当のいのち、光、聖さから人々をそらしてしまうという役割を果たす者なのだ・・とイエス様は言われたんですね。
彼らのことは放っておきなさい・・。それはイエスをキリストではないという方向を示すもののすべてを言っているわけです。
"この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」" (使徒の働き4:12)
聖書は、とてもはっきり言っています。ですから、中途半端に聖書を受け取ることはできないんですね。真剣に受け止めるか捨ててしまうか、そのように迫ってくるのが聖書なんです。そして神はそのようにあなたに向き合っておられるのです。いのちをかけて、愛をもって・・。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)

アップしました。
ドラマー市原康の「ミュージシャンにもわかる聖書の話」
賛美歌 「いくつかの山を越え」から その3
お話/市原康、賛美/市原よしみ
主催 : Grace Home Church
https://www.youtube.com/watch?v=133vJPwdmLg
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」"
マタイの福音書 15章7~9節
冒頭の「偽善者たちよ」と言われたその人たちは、エルサレムからやって来たパリサイ人や律法学者でした。
彼らはイエス様の弟子たちが手を洗わないでパンを食べるのを見て、それをイエス様に指摘します。それは、「あなたの弟子たちは律法を守っていないではないですか。それを見逃しているイエス様、あなたはそれでも神に対して忠実な方だと言えるのですか。」と、イエス様にイエローカードを突きつけた・・と、そういうことです。
エルサレムからやってきた彼らには、自分たちに対してとても厳しく言われるその人イエスを否定したいという思いが潜在的にあったのではないでしょうか。
そうでないと、自分たちはほとんど否定されてしまい、自分たちの地位も危ういものとなってしまうことを彼らは直感していたわけです。
罪びとの行動の基本は自己中心、自己保身です。
たとえば・・世の中には多くの「学者」と呼ばれる人たちがいます。彼らはこの世にあるまだ知られていない法則を見つけ出す仕事をしています。でもそれをきっちり証明しないことには、人々には認めてもらえません。
そこで学者はまず、こうではないかというひらめきのようなもので「仮説」を立てます。そしてその仮説を何らかの方法で証明できれば、そのひらめきは正しかったということになり、その人は偉大な学者となるわけです。ですから、学者の主な仕事は「証拠集め」なんですね。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。それは、自分が立てた仮説を証明する証拠を採用し、仮説を否定する証拠は採用しない・・という落とし穴です。これでは真の学者とは言えません。でも人はそれが誤っていたとしても、自分が立てた仮説の方に歩いて行ってしまうんですね。
人は真理を探し求める学者のようなものです。しかし人は「神が天地万物を創造された」という情報を提供する聖書を、重要なものとしては最初から扱おうとはしません。
なぜかというと、それが自分の仮説を否定するものだからです。その仮説とは「自分が中心」という仮説です。
イエス様はパリサイ人たちに言われました。「こうしてあなた方は、自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしてしまいました。」(6節) と。
彼らを守っていたものは、すでに得ている地位と「自分たちの言い伝え」でした。その言い伝えとは「口伝律法」と言われるもので、こまごまとした規定で生活を縛り、神との基本的な関係を忘れさせてしまうものでした。
彼らはそちらを採用し、自分たちを不利な立場に陥れる「イエスはキリスト」という重大な情報をないものとしようとしたわけです。
自分を守ろうと思っていたら、神に出会うことはできないんですね。
神の前に、自分をさらけ出し、自分を点検していただくとき、人は誰でも自分の深い罪を知るんです。そうすれば、その罪をキリストが身代わりに負って十字架にかかられたという情報につながっていくんですね。
人は自分を守るという姿勢では、安心して生きることはできません。
すべての罪が赦されるというところに立って初めて、平安と希望があるのです。
イエス・キリストがそれを実現してくださいました・・これが福音です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。"
マタイの福音書 14章28~32節
この場面は、弟子たちだけで舟の中にいて、強風で漕ぎあぐねている時、イエス様が水の上を歩いて来られた・・というところの続きです。
真っ暗闇の中、突然現れたのが幽霊だと思って恐怖に駆られたのが一転、イエス様とわかり、弟子たちは勇気付けられ、イエス様に対する信仰の心もその時は確信に近いものとなったに違いありません。
ペテロは「あなたが私に命じさえすれば、私も水の上を歩けます」という確信を持ったことが、その言葉からわかります。
そこでイエス様は「来なさい」と命じました。ペテロは大胆な信仰を持って水の上に足を踏み出します。
そうしたらなんと、歩けたんですね。水の上に立っておられるイエス様のところまで行けたんです。
今日のテーマは「見る方向」です。
ペテロは「風を見て怖くなり」と書いてあります。そうしたらズブズブと水の中に沈み始めてしまったんですね。そこでイエス様に助けられる・・・。
人の心はある種の「容器」なんですね。それをあるもので満たすと、他のものを入れることができなくなる・・そういうものです。
ペテロの心は「信仰」で満ちていました。そうしたら実際に水の上を歩くことができたのです。しかし、そこに別のものを注いでしまったんですね。それは「恐怖」でした。
でも私たちはペテロを責めることができるでしょうか。
私たちの心というのは、その目で見ているものですぐにいっぱいになってしまいます。
車の運転をしている時、音楽を聴いていても、危険な動きをする車がいたら、その瞬間音楽は全く聞こえなくなります。
これは私の想像ですが、水の上を歩き始めた時、ペテロはイエス様の方をしっかり見ながら歩き始めたのではないでしょうか。
ところが、一瞬強風を見てしまっんですね。そうしたら沈みかけた・・。心の中からイエス様が消えてしまったんです。
イエス様はそのことに対して、「なぜ疑ったのか」と言われたんですね。
他のものに目を向けてしまうことを「疑う」という風にイエス様は言われたわけです。
しっかりとイエス・キリストに目をとめ続けるということ・・それは明確に意思を働かせての「心の行動」です。
いつも見る方向は・・イエス様。
その時にあなたはイエス様がどういうお方かを、日常の中で見る人になるんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。"
マタイの福音書 14章25~27節
イエス様は、いつも弟子たちがしている「群衆を解散させる」という仕事をご自分でされ、弟子たちを先にガリラヤ湖の向こう岸に向かわせました。
弟子たちは舟に乗せられ、放り出されるような形で湖に漕ぎ出していったわけです。
今日のテーマは「主がいてくださる」です。
イエス様は夕方になっても一人でそこにおられ・・とありますから、群衆を解散させたのはおそらく午後の適当な時間だと思います。
そしてこの出来事は「夜明けが近づいたころ」です。ですから弟子たちは少なくとも12時間は漕ぎ続けたことになります。
強い向かい風はずっと吹き続けていました。12時間、状況は逆風のままだったんですね。そしてイエス様もいない・・。夜明け前のまだ暗い時間に彼らの心は、完全にめげていたと思います。
その時弟子たちは、人が水の上にいるのに気がつきます。誰だって恐怖に駆られると思います。幽霊だと思ってしまうのは無理もないことです。そこでイエス様は「すぐに」話しかけられたんですね。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」・・
これは私の勝手な想像ですが、その声は明るい声だったのではないでしょうか。
それは弟子たちが知っているイエス様の声でした。
イエス様のことをすっかり忘れ、恐怖の中にいた彼らに、あのいつも聞いている主の声が聞こえてきたんです。
弟子たちは即座に、いつも主がおられる日常の感覚を取り戻しました。
そしてペテロがイエス様に言ったんです・・。
「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と。
この出来事はものすごい安堵とともに、イエス様という方への信仰が強く深いものになった瞬間でもありました。
イエス様を主と呼び、地上の生活を送るクリスチャン・・。
そのクリスチャンにも困難や絶望の時、逆風が吹き続ける時があります。
そんな中で、たとえ私たちが主を忘れても、主は私たちを忘れることは決してない・・。
主はそういうお方なんですね。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
" それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。
夕方になっても一人でそこにおられた。"
マタイの福音書 14章22~23節
群衆を解散させるという仕事は、弟子たちがすることでした。ところがイエス様は弟子たちを先にガリラヤ湖の向こう岸に舟で向かわせました。
「イエス様のことば」シリーズは、イエス様が言われたおことばについて触れるシリーズですが、今回は「おことば」は出てきません。でも、次のことを示されたので記したいと思います。
この前に出てくる五つのパンと二匹の魚の奇跡をされる前にも、イエス様は「自分だけで寂しいところへ行かれた」とあります。
イエス様にも「一人になる」時間が必要だったんですね。
それは、一人になるのではなくて、父と二人の時間を過ごす時間です。それが必要だったんですね。
今日のテーマは「神との同期」です。
五つのパンの奇跡、そして湖を歩いて弟子たちのところに来られるという奇跡も、そのような時間を持たれた後の出来事です。
これらの奇跡は、神の「み力」の完全な表れであって、イエス様が全能の神の御子キリストであることをそこに表されたという出来事です。
それらのことをなさるのにイエス様は、父と向き合う「祈りの時」を必要とされたんですね。
イエス様は、この地上で歩んでいる間は「肉の体」を持たれるという存在でした。
ということは、痛みも感じるし恐れも感じる、また疲れも感じるという「肉の体」の制約の中で地上での働きをされていたということです。
ですからイエス様にとって、父との時間は欠かすことのできない、絶対に必要な時間だったんですね。
そして、父との交わりを持たれた後にこの二つの大きなみわざをされたというわけです。
私たちはイエス・キリストというお方を内にいただいています。神はそれによってご自身を世に表されようとしておられるんですね。しかし誘惑の火矢は絶え間無く飛んできます。
もしクリスチャンであるあなたが、祈りなしで何かできると思っているのでしたら、この話を聞いて目を覚ます必要があります。
イエス様でさえ、その時間が必要だったのです。
悪魔が一番恐れるのは、私たちが祈ることなんですね。
ここに父の栄光が現される扉があるのですから。
祈りとは「神との同期」です。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)
"夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。
「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。
村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
しかし、イエスは言われた。
「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」"
マタイの福音書 14章15~16節
群衆は食べることも忘れてイエス様についていきました。
ここは人里離れた寂しいところなので、人々を解散させて各自が食べるようにしてはどうでしょうかと、弟子たちはイエス様に提案します。
ところがイエス様は「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と言われました。
もちろん弟子たちにそんなことをすることができるはずがありません。そこには男だけでも五千人もいたからです。でもあなた方が・・しなさい、とイエス様は言われました。
それは、その不可能なことをあなた方はしなさい・・という意味になります。それは言うまでもなく、「わたしが共にいてそれを成し遂げるから」という意味でなくて、なんでしょうか。
今日のテーマは「奇跡の話」です。
弟子たちはとりあえず五つのパンと二匹の魚があることはわかっていました。それをイエス様に伝えた時、イエス様が言われたことはこうでした。
「それを、ここに持ってきなさい」。
ここからあの大きな奇跡が始まるんですね。そのわずかなものをイエス様が天の父なる神をほめたたえて配り始めると、残ったパン切れが十二のカゴいっぱいになったというのです。
この話は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に出てくる唯一の奇跡の話です。
神が人を造られた。紅海の水が分かれて渇いた地が現れた。40年間マナが降り続けた・・。
聖書から奇跡の話を取り除いたら、聖書はほとんど小冊子のような書物になってしまいます。
神はあなたのすべてを全く変えてしまうことのできるお方なんですね。
弟子たちがイエス様のところに持っていった二匹の魚と五つのパン・・。それは貧しい人々が毎日摂る食物でした。そのわずかなものをイエス様のところに持っていく・・。
心の貧しい者は幸いです、というイエス様の言葉が思い起こされます。
あなたは心のうちにあるわずかな信仰を、イエス様のところに実際に持っていくときに、変えられるはずのない状況の上に「奇跡」というべきことが起こり始めるんですね。
"キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。"
ピリピ人への手紙 3章21節
聖書の奇跡の話は、このことを示すために書かれているのです。
God Bless You ! (神様の祝福がありますように!)